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Mr.DARKER STRANGE  作者: 事故口帝
??? of the wonderland
10/16

第二次異能大戦 #1『You of the wonderland』


始まった、という確信があった。

もちろん、皮膚を喰い荒らして刻み込まれていたわけでも、骨に沁みながら嘆かれたわけでもない。

強いて表すなら、魂。

魂の奥に刻み込まれ、沁みこんで、突き立てられて、それを宿命といわずして、何と呼べばいいのだろうか。

「裏、か。」

無意識のうちに呟かれた言葉は、ただの三文字であったが、驚くほど明確に空気中を捉え、それを足掛かりとして広がっていった。

広がっていったといっても、そこで広がることに大した意味はなかったのだが。

なんといっても、声を呑み込んでいったのは深い緑の森。

緑、緑、緑。

恐ろしいほどに深い緑の森は、その奥底を一切見せることなく立ちはだかっており、絡みついた蔦の貫禄から、彼らが相応の年月をかけて視界を塞ぐという使命に命を懸けているのだということが理解できた。

見知らぬ森の中で一人、そこに介在できるほどの意思を持っているわけではないのだが、恐怖心を感じることができないというのも考えものだった。

なにせ、ここまで不明瞭な世界を、無理解だと認知することすらできないのだから。


止まっていてもしょうがない。恐怖というものの根源は、等しく無知だ。知らないことは何よりも恐怖に直結する。それほどまでに、無知は愚かだ。

といっても、恐怖心を未だ得られていない状態でそんな持論を説くのもおかしな話ではあったのだが、恐怖を得るために無知を演じ続けるというのも滑稽だ。腹をくくって森を進んでいく。

すれば、まるで示し合わせたように森が開けてくる。

歩くたびに香る緑の芳醇な匂い、潰される木々の残骸、その何もかもが、開けた森の先に見える光景の前座のように見えて、酷く陳腐に思えた。

どこまでも安っぽい感想と、どこまでも嘘くさい感情。

何故か高まっていく鼓動が、その間隔を逸らせる。

光に焼かれた瞳が、ほんの一瞬、光景の伝達を放棄する。

視覚をなくしたことによって過敏になった嗅覚が、ほのかに立ち上る爽やかな息吹を感じ取った。

ミスト状に散布された何かが皮膚に張り付き、熱を享受する。冷ややかな心地よさを享受する。


開けた先、断崖絶壁の先、一歩踏み出せば遥か眼下への昇天。しかし、それを差し引いてでも魅了される絶景が、広がっていた。

恐ろしいほどに巨大な滝は、抱え込んだ大量の川を好き勝手に放出しており、そこから放り出された水流の数々は、その勢いを増しながら落ちていき、やがて緩やかなカーブを描きながら山の切れ目に消えていく。

もちろん、それは巨大な河に隔たる滝だった。それでいて、絶景であった。

ただ、それだけではなかったのだ。

もはや湖のように見える滝の、落下目前で燻る水流たち。その中に、奔流を切り裂くほどの確かなる異物が、あった。

おぞましかった。恐ろしかった。

ただ同時に、

「ッ……ぁ……」

美しかった。

蔦のように絡まり合った鈍色と、それに匿われた巨大な人のようなもの。真っ赤な筋線維のようなものと、皮膚を模した肌色が混じり合い、ぐちゃぐちゃにされた巨大な人のようなもの。

それは、そこにあることが正しいと思考を強制されるほどに美しく、不気味だった。

もはや人の形ではない。粉砕機にかけられたのではないかと疑うほど、ひび割れて、混濁している。でも、それは確かに人を模しているのだ。

確かに、何かを訴えかけてくるのだ。

だから、そうして、浮かべた涙を拭くことすらできないのだ。

一歩、足を踏み出した。

眼下、広がるのは、踏みしめられない空中。

ぐらりと傾いた体勢は、もう立て直すことは不可能だっただろう。立て直す気などさらさらなかったが、その残った右足が踏みしめていた地面が恋しいという感情も、嘘ではなかった。

そうして、矮躯は容易く崖下へと落ちていく。

例えその下に大河が敷き詰められていたとしても、そこに打ち付けられればひとたまりもないだろう。人間ほど脆弱な身体なら、それこそぐちゃぐちゃになっても可笑しくない。

揺らぎ始めた景色と、眼球を晒し始めた抗う空気。内臓を冷やす気色の悪い感覚と、手持ち無沙汰になった身体。

凄まじい加速によって跳ねる髪が視界で暴れた。

「黒髪……」

認識した髪の色は黒かった。真っ黒で、ただの一つの不純物もない、黒。

別の意味で黒に侵食され始めた視界の中で、次は自分の手が見えた。

「……綺麗」

すらりと伸びた指は、どこか色気のある曲線で抜けていき、形のいい爪は居心地がよさそうに美しさに共存している。

パタパタと揺れる服の裾が、どこか鬱陶しくて、落下中ということすら忘れて顔を顰めた。

「こっちも、黒。」

己が身に纏っている真っ黒なパーカー。そのフードが首筋を撫で、どこまでも不快だった。

パーカーから漏れる首元の紐がチラチラと視界に写り込んでくることも含めて、この服は向いていないな、と他人事のように考える。

悠長な自覚。その終着が、まもなく近づいてくる。

あんなにも遠かった水面は、もう数秒で辿り着いてしまうほどに眼前に在り、その命が潰える瞬間が迫ってきていることを顕著に教えてくれる。

そこに大した感慨も抱かずに、水面に写った己の姿を見る。

「リュカ。……名前は、……リュカ。」

ぱっちりとした二重に、柔らかすぎず角ばり過ぎていない中性的な輪郭。十七歳、十八歳でもいいだろうか。なんにせよ、成熟途中の体つきは程よく筋肉がついており、狭い肩幅はしかし女性寄りだろうか?

髪を伸ばせば可憐な少女にも見えるが、成長して体が成熟すれば、危うげな色香を漂わせる美丈夫にもなるだろう。愛くるしくもあり、鋭い偉丈夫のような残滓も感じられる。

そんな中性的な面持ちを可憐に傾げて。

リュカは。やっとのことで己を理解して、やっとのことで名前を名前として。

「性別、どっちだろう。」

酷く歪で、しかしその容姿故に様になった仕草で、眼前に迫る揺らめく己に激突した。



どれくらい、流されただろうか。

辿り着いたのは清流すらも足を休める浅瀬の泉。ほんの数m、莫大な本流から隔絶した、水の中のオアシス。

事切れたように空を眺め、大の字になって平穏に浸かる人影、リュカは、水流に呑み込まれた先、自分が辿り着くべき場所、終着地に流れ着いたのだと確信した。


巨大な崖に挟まれる峡谷のような地形。しかし、峡谷の底に蟠るのは生を呑み込むおぞましさではない。そこに流れる清流は、空から降り注ぐ晴天の日差しを浴びてキラキラと反射して、同じく光の恩恵に授かる砂浜のお陰で、いっそ観光地にでもできるのではないかという暖かな様相を呈していた。

峡谷といっても、谷底の幅は広く、前述したとおり観光地がすっぽりと収まってしまうような広さだ。リュカが体を預ける水のベッドも、起き上がれば広大な谷底の大地へと繋がっている。

ここまで綺麗に太陽の光が入ってくるのだ。こうして何も考えず、ただ停滞にのみ安寧を感じる時間を堪能するのには絶好の空間といえた。

がしかし、絶好の空間だとか、幸せな時間だとか、奇跡の瞬間だとか、うんざりする人生に訪れる微かな隙間は、意図も容易く魔に喰われるのが世の常だ。

リュカとて、というより、リュカだからこそ、それは例外ではない。


「自分探しの旅か?こんな所まで来て。」


青空を仰ぐのみであったリュカに、低く、しかし綺麗に通る不思議な音色が聞こえた。

男勝りな口調の内側に内包された、確かなる女性的な柔らかさ。警戒心からか硬くなった声音には、もはや愛らしさすら抱いてしまいそうな被虐の残滓が香っている。

眼下に落ちるのみであった先ほどの落下を自分探しの旅と称するのなら、きっとそれはそうだったのだろう。事実、リュカはそこで己を自覚した。

己の性別の判定もつかないような中途半端な旅ではあったが、それに満足しているからこその終着地の安らぎだ。ここで服をただの布として剥ぎ取ってしまえば、己が性別など一瞬でわかる。それをしないのは、まだそれをしなくても好奇心が暴れ出さないからに他ならない。


水を吸ってぐちょぐちょになったパーカーを絞りながら、無駄だな、という感慨を飲み込みながら。

上体を起こしたリュカの視線、その先で、砂浜に美があった。美しさの権化が、顕現していた。


白髪、どちらかといえば銀に近いような、白という色素をどこまでも確固なものとした絹糸のような長い髪。

艶めかしいボディラインを描く肉感に富んだ臀部にまで流れる髪は、どこかうっすらと桃色を帯びており、余白ではなく光。そんな完成されたイメージを連想させる。

驚異的なスタイルの長身は、そのバランスを崩さない程度に富んだ胸を揺らしながら美を発散しており、その瞬間に、リュカは己が男であることを自覚した。

容姿だけではない。そもそもの格好が扇情的すぎた。

パツパツの胸囲をものともしないワイシャツ一枚を纏っただけ。そこから覗く生足も、絶対領域に続く黄金の道のりも、白に透ける黒の何かも、明らかに人前に出れる格好ではない。

リュカが言葉を失ってしまってもしょうがなかった。

そうして。

面を喰らってしどろもどろになった感情を絞り出しながら、底の見えない瞳の美しさに呑み込まれながら。やっとのことで言葉を紡ぐ。


「今、終わったところです。……自分探しの旅。」


ほぼ呆然自失といっていいほどに無意識に、少年は少年を自覚した。

その自覚の根源が、なにか決定的な情報ではなく、ただただ眼前の少女への情欲であったということは、あまり大っぴらに叫べるような内容ではなかったが、元来自分探しの旅というものは明かされるものでもないだろう。

ただそこに自分を見つけた。ただそれだけが、そのことだけが、リュカという少年が飛び降りることで叶った、数十秒の自分探しの果て。得たかった答え。

そのリュカの満足げな様子と、少女に見惚れている油断も隙もありすぎる有様に何を感じ取ったのか、白髪を靡かせる少女は、靴底で砂をさらいながらリュカへと歩みを進めた。

そして、信じられないとでもいうように、そのクールな表情に微かな歪みを覗かせて当惑を露にした。

「……本当に、何も知らずにここにいるのか?」

彼女の完成された表情が歪んでいるというのは、美を穢す諸悪というより、背徳的な美しさを醸し出す極上のエッセンスであるように思えた。

そんな脳内エッセイに心を馳せるリュカは、小さく、しかしはっきりと告げられた疑問に対しての答えを返せなかった。その一言一句を聞き漏らすことなく頭蓋に叩き込んでいたとしても、リュカが答えを持っているわけではないため結果は変わらなかったのだが、未だに真っすぐと見つめてくる少女の表情を見るとどこか見透かされているようで心底気まずかった。

結局、リュカから何も答えを聞き出せないと悟った少女は、小さく天を仰いだ。

自我の強そうな少女が、馬鹿正直に天に願っているとは思えない。それは、思考に要する癖のようなものだったのだろう。

やがてそれを終えた少女は、回帰したクールな無表情で言った。

「来るか?……アタシの家。」

目を見張るほどの絶景、大河に聳えるぐちゃぐちゃの巨人。緑に覆い隠される世界。そんなわけのわからない状況の中でも、これほど美しい少女の家にお邪魔することのほうが圧倒的に異常な状況であると、リュカは正しく認識した。

もちろん、恥ずかしげもなく言われた言葉に動揺したのは、リュカのほうだった。



「運命だと思った。」


少女に案内されたのは、ボロボロになった廃墟寸前の建物。

リゾート地然とした峡谷の様相には似つかわしくないのだろうが、その実存外それは砂浜に馴染んでおり、テーマパークの演出のような非現実さで、むしろその光景を更に観光地へと近づけていた。

『KIND』と銘打たれたネオンには、今は既に光はなく、廃れたそのワンフロアは、最上階のみが砂浜に鎮座しているようで、最上階以外の階の安否が危ぶまれる。

ワンフロアといっても、九割がたが消失していて、少女が衣食住を匿う空間は、ワンルームほどの広さであった。


「キミ、リュカって名前なんだな。」


ワンルームに押し込められた娯楽の数々には際限がなく、長方形であるはずのベッドは角が取れて丸くなり、丸くなった影響かクルクルとまるでメリーゴーランドのように回るようになっている。

シャワールームに関しても同様で、絶対的に不必要だろう照明が荒れ狂い、同じく円形の浴槽の水面を揺らす。本来隠されるべき裸身を遮るものは何もなく、というか、あるのだが意味がなく。

普通の居住スペースからシャワーを浴びている様子が丸見えという製作者の正気を疑うような間取りであった。


「アタシはイルフェリータ。」


外は明るいのにも関わらず対照的に暗い室内。そもそもの光の入りが悪いのか、はたまた、遮光性に富んだ製品が隔たりを助長しているのか、もはやここまで頭の悪い間取りを考える製作者のことだ。正直、そこに思考を擁することが無駄だと察するのに、大して時間はかからなかった。


己という存在を確かに認識してからまだ数時間。思考を放棄することの楽さだとか、必要性だとか、救いだとか、そんなものを、もう嫌というほどにわからされた。

それは、なにかを隠すように生い茂るこの森もそうで、大河に聳えるぐちゃぐちゃの巨人もそうで、意味の分からない構造のこの部屋もそうで、経験則なんてないのに、記憶なんてないのに、この世界は異常だと感じ取れる自分もまた、そうであった。

もちろん、こうしてバスルームにてタオル一枚のリュカの頭を、熱心に洗ってくれている少女、イルフェリータの行動にも、少年は思考などかなぐり捨てていた。


シャカシャカと頭を揉まれ、心地のいい指圧と泡の感触に頭を委ねる。

もちろん、それが互いに全裸であったのなら、リラックスなどという贅沢は嗜めなかっただろう。リュカが絶世の美貌を持つ少女イルフェリータと二人きりで風呂に入っているのに理性を保っているのは、あまつさえ心地の良さまで感じているのは、一重に少女が服を着ているからに他ならない。

正直、服を着ているといってもワイシャツから覗いた瑞々しい生足は非常に下半身に毒ではあるのだが、シャワールームという状況が、その必然すらも霞ませていた。


「ずっと、あそこに通ってた。」


泡から覗くしなやかな指先。すらりと伸びる美しい曲線美は、何かしらの形で後世に語り継がなければならないという義務感すら湧き上がらせる。

イルフェリータは、目前の全裸同然の少年など気にもせず、慣れた動作で円柱のような筒を掴む。

見た目からして強固な素材で作られたそれは、どこか底から這いずり出してくるような冷ややかさを放っているが、イルフェリータがそれを手にしたというだけで安心感すら抱いてしまう。

そんな正体不明の筒を、併設された差込口へと挿入していく。片手で持てるほどの太さではあるが、そこにはなかなかの重さがあるようで、差込口に先端をあてがえば、驚くほどスムーズに自重ですっぽりと収まった。


リュカは、この世界を知っていた。

もちろん厳密にいえば違う。しかし、彼の頭の中に根付いている一般的な価値観は、彼自身が世界を観測して形成した世界に他ならない。本当にリュカがあの瞬間に始まったのなら、言語や倫理。それどころか、森や水のような知識を持っていることすらおかしくなる。

つまり、リュカは何かしらの方法で世界を知っていたのだ。

しかし、そんな正体不明の記憶も、その筒の正体を知らなかった。

この森が可笑しいことも、この間取りが怪しいことも、わかる。わかる。確かにわかる。しかし、それだけはわからない。それが何なのか、わからない。

自分は何を知っていて、何を知らないのか。

ただ、それが、わからない。


「アタシのママが、あそこで……死んだから。」


イルフェリータが差し込んだ円柱は、ほんの少しの駆動音を響かせながら停滞を食み、やがて役目を全うしたかのように沈黙した。

円柱が埋めた穴から数cm、イルフェリータはダイヤルを回し、それを押し込んだ。すれば、彼女の手にしていたシャワーヘッドからお湯が出てくる。

この辺境の森の中には、水を運んでくる水道管も、電気を乗せる電線も、電波を飛ばすアンテナもない。

冷水だろうと温水だろうと、電撃だろうと情報だろうと。その辺境のワンルームに届くはずがないのだ。

しかし、リュカの頭に優しくかけられるその暖かな感覚は、紛うことなきお湯だ。

それがどれほど不自然だったことか、不可解だったことか、それを、

「アタシのママ、迫害のダーカーは、あそこで死んだ。」

「いま、なんて……」

イルフェリータの口にした言葉。

今まで感じていた気恥ずかしさも忘れて、イルフェリータの扇情的な格好も忘れて、ただ、忘れてはならないもののために、亡骸の意思に沿うように。

復唱する。刻印する。

継承する。

「迫害の……ダーカー……」

イルフェリータの母親。そして、その今は亡き姿に手向けられた娘からの愛情と、哀情。

それがどんな経緯によってもたらされたものなのかはわからなかったが、リュカと同じほどの年齢に見える少女が背負っていい重さではなかったことは確かだ。

そうでなければ、この少女は、イルフェリータは、そんな目で笑わない。

髪を映したような双眸と、その奥で燻る黒い混濁。まるで、何かの執着のようにも思えるその混濁は、じくじくと疼いてリュカを見るのだ。

何かを訴えるように、イルフェリータの意思すら欺いて、リュカを視るのだ。

「ッ……」

思わず、目を逸らした。

あれほど美しく、理想的に映っていたイルフェリータの容姿が、どこか恐ろしかった。

リュカがイルフェリータに抱いていた感情は、愛らしいより愛おしいという面で育まれていた感情だった。本当に、たった数十分では生まれない、育まなければならないような、感情だった。

そんな異常さが、突然後ろめたくなった。その美貌が、疎ましくなった。

心の奥底の不安が体をずっしりと重くして、ただただ忌避したかった。

しかし、運命というのは確かに存在するものだ。

あるという根拠も、ないという根拠もない。しかし、リュカだけは、それを無いと断ずることをしてはならない。あるという根拠を知っているから、否定できない。

うんざりする。疲れる。リュカのものではない感情が、ただただ全てを摩耗させる。疲弊させる。

そうして。


『何も取りこぼすな、過つな。』


跳ねた雫に濡らされて、リビングを透かす一面のガラス。光が跳ねて、己が映る。

濁った瞳の少年が映る。

混濁した瞳が、誰よりも冷たく、リュカを見ていた。


「何も取りこぼすな、過つな。」


乾いた口から落とした反芻は、もうぐちゃぐちゃになって面影すらない。その言葉が、どんな経緯を経て、どんな試練を超えて、どんな覚悟でもって出てきたのか、わからない。

ただ、それでもわかることがある。

濁った瞳。彼は、リュカになにかを教えたのだ。それでいて、未だにこうしてリュカを見張っている。

彼を縛り付けて、導こうとする。

不思議の国のあなたを、探している。

不可思議な世界の幸せを、探している。



「ここは、何?」


クッションを掴んでソファに腰を落ち着かせたリュカは、前説に関心すら示さずに言った。

質問の意図は、際限なく測りかねるものだったろう。漠然とし過ぎた質問だった。

しかし、その質問の意図は、また逆に、際限なく理解に富むこともあった。

イルフェリータは、その典型的な例だったのだろう。リュカの放った不出来な質問に、完璧な答えを返せる。きっと、彼女は、そういう存在だ。

一瞬の逡巡すら己に課さず、イルフェリータは円形のベッドに寝転がり、天井を眺めて語り始めた。

「空気すら毒になる、アマツカ隔絶汚染領域。」

「先代の病の全てを引き受けた、病巣神殿アリステ・レイエス。」

「電子世界とリアルが逢引く場所、アンダレア空虚特異点。」

「埋め尽くされる命、蔓延生命。」

「理性消失の未知、マナメト・シエラ。」

「貫通する針、ストレンジャー。」

「爆ぜる街、東洋紀元帝国。」

「時間と空間の遊技場、不可逆断絶結界。」


「人類の生存領域を侵した、世界の約九割を覆い尽くす突如の天災達、ダーカーストレンジ。」

つらつらと、というよりは、探り探りという感じだろうか。全ての情報は叩き込んではあるものの、散乱した脳内からそれを的確に拾い集めて、口腔に持ってくるには些か難しい。流暢とは言えない語りだったが、不思議とその少女の言葉は聞き逃せない魅力があった。

もう一度同じ説明を求めたとして、同じ文言に、確かな順序で帰ってくることはまずないだろう。だからこそ、即席で考えたという功績に箔がつくというものだ。


何の気なしに語るイルフェリータから渡った言葉。受け取ったリュカは、キッチンと呼ぶべきか水道と呼ぶべきか迷う程度の用具が、やけにお洒落に取り付けられた調理場にて思案していた。

バーのようなカウンターに座り、利便性には欠けるであろう高い椅子に鎮座。顎を掻く手からは記憶への億劫さが見え隠れする。

「別に、憶えなくてもいいだろ。どうせ忘れられなくなるんだから。」

「忘れ、られなくなる……」

いやに悲観的な言葉を、やけに楽観的に言うものだ。

リュカが少女を測りかねている間に、天井を眺めるイルフェリータは、いつしかベッドとともに回転を始めていた。

その言葉の真意を問うことは、ちらりと見えそうになった生足の隙間の下着の前に封殺されたが、イルフェリータがわざわざ言葉を弄して教えてくれたことは、あまり憶えられてはいなかった。

「それに、ここが、そうだからな。」

と、未だ記憶の定着に不安を隠しきれないリュカへと、イルフェリータが言った。

軽やかに起き上がって回転を止めたイルフェリータは、ベッド脇に置かれていた水を滑らかなシーツにぶち撒け、空になったペットボトルをぐちゃぐちゃに潰して、そこへ突き立てた。

「人類の使用する電力の約八割を賄う人類生存領域外唯一の安全地帯にして、その発電方法の一切が謎に包まれた巨大な機巧生命残滓。」

ぐちゃぐちゃのボトルに触れたイルフェリータの指先が、ベッドの上に生み出された水たまりに進んだ。

そこで触れられた水たちは、やがてプスプスと温度を高く加速させて、その体積を何倍にも肥大化させて蒸気となって大気に溶けていく。


「異能発電、アリス・ヴズルイフの遺産。」


異常なほどに赤くなったイルフェリータの腕は、そこに伴った感覚など素知らぬ様子で水を蒸発させていき、ベッドの上に渦巻く水たまりは、沸騰にすら達していた。

そこに躊躇なく指先を重ね続ける狂気と、その上で紡がれ続ける答え。なにより、リュカが何としてでも欲した、答え。

「キミが知りたかったことは、これ」

「ちょっと待ってくださいッ!!火傷ッ!手が!!」

しかし彼には、その光景を見過ごす勇気がなかった。

叫んだ声は、嫌に鋭く反響し、目前で焼かれ続ける少女の細腕をがっしりと掴み取る。うだるようなそれを見て、赤く腫れあがるそれに触れ、手段を探す。己を探す。根幹を探る。

そして、それを自覚した。


「異能、解放。」


どぷ、と。イルフェリータの真っ赤な腕を掴んだリュカは、真っ青な表情で歯根を食い縛った。手に平から溢れ出した冷水が、火傷を舐って力を喰らっていく。

微かに眉を躍らせて、困惑を吐き出しかけたイルフェリータは、巻き返した自制心でもってそれを食み、呑み込んだ。何物をも吐き出さないその精神に、強固な狂気に、リュカの真っ直ぐな憂いが、真っ黒な瞳から流れ出す。

水道を一思いに捻ったならば、これくらいの水量に達するだろうか。

ベッドのど真ん中で座り込んだイルフェリータと、そこに飛び込んだリュカ。イルフェリータの生み出した熱湯によって煮えたぎっていた湖は、リュカの生み出した冷水によって途絶して、やがて二人をびしゃびしゃにしてシルクの大地に沁みていった。

「どうして、助けようと思ったんだ?」

未だ、自分が何をしたのかわからないというようなリュカに、イルフェリータが問いかけた。

「え……?」と少女に目線を乞うたリュカは、引き絞った瞳が震えることを自覚しながら、広げた手中を再び覗き見た。

今、自分は何をした?

脳内を支配する己への何故。そして、同じく降りかかる少女からの何故。

もはやオーバーフローして、うだって焼けて、突沸して、やがてショートしたリュカの思考に、イルフェリータは酷く冷静に、それでいて的確に言葉の冷水をぶちまけた。

「どうやってじゃない。どうして助けようとしたのか。……アタシは、それが聞きたい。」

興味本位の「どうして。」と、自問自答の「どうやって。」、何故に重きを置きすぎて、イルフェリータの問いの表面すら読み取れていなかったリュカは、取り繕うだけでもと冷静を探る。

逆に握られた手から伝わってくる体温が、どこまでも冷たくて、それに安心しつつも、切なくもなった。

だから、せめてもの答えを、せめてもの返礼を、せめて、こんなことでくらい、奥底を、明かすために。

「駄目だと、思った。……あなたを傷つけることは、あなたが傷つくことは、きっと、正しくない。許されるべきことじゃない。」

黒く淀んで、暗く歪んで、醜く膿んで。

奥底の見えない、見えてはならないとするように覆い隠されたヴェール。それに酷似した真っ黒な瞳が、その気味の悪い感覚を、何倍にも増大させて、心からの恐怖でもってイルフェリータの損傷を恐れていた。

彼女を失うことを、恐れていた。

体中を駆け巡る脈動が、呼吸すら追い越して全てを揺らす。留まろうとする心も、もちろん肉体も、その所詮拳一個分ほどしかない臓器に震えて、所詮一個しかない曖昧に、真の像すら知らないそれに、命を握られている。命を、生かされている。

皮を剥いで、肉を割いて、骨を断って、倫理を捌いて、道徳を壊して、その先の先の先で出会えるであろう血肉と細胞と筋肉となにかとなにかと、重要なもので作られた鼓動の源泉に辿り着く。

それが、どうしてそんなにも震えるのか、リュカには理解できなかった。

まだ、会って数時間の関係だ。なんなら、自覚して数時間の存在だ。それでいて、視覚した、数時間の世界だ。

果たしてそんな世界に、どうしてここまで愛着を抱いているのだろうか?


パン、と。しっとりとした柔らかな音が、イルフェリータによって鳴らされた。

思考に差し込まれた至高のメスは、恐ろしいまでにリュカの頭から不純物を切除して、結果空いたリソースに、この上なく完璧な状況でもってナイフを差し込んだ。

「それが、『キミ』の持ってる『誰か』の意思?」

リュカの心配。言い換えてみればそれは、リュカの不可解だ。

出会って数時間、それはイルフェリータからしてみても同じ。そして、リュカも言った通り、彼はつい先ほど自分を探り終えた。自分を、見つけた。

それなのに、リュカの醸し出す嬉々とした雰囲気は、まるで何十回という地獄の中で培われた、執念にも似た覚悟、鬼哭のような叫びを持っていた。

果たしてそれは、リュカの意思なのだろうか?

否だ。

リュカがこうしてイルフェリータを心配する理由は、ない。あったとしても、それが涙まで浮かべて、使ったことのない正体不明の異能まで覚醒させるなど、あるはずがないのだ。

だから、それは、リュカの中に刻みつけられた、誰かの執念。誰かの覚悟。誰かからの、鬼哭。

つまりイルフェリータはそれを、痛みとしてリュカに投げつけるのだ。


パッと離したリュカの手、そこを滑り落ちる水滴がベッドに落ちて、まるで砂時計のように時を急かす。

しかし、刀のように研ぎ澄まされた言葉の矛先は、その獲物を捉えることがなかった。

たとえ刀に突きさされても、銃撃に爆ぜても、鈍器に伏しても、それを攻撃だと思わなければ、害というものは発生しない。

同じだ。リュカは、イルフェリータのその言葉を、害だと判定しなかった。

そうでなければ、彼はそこまで穏やかな顔で涙を流すことなどできないのだ。

心底よかったと。いっそ気味の悪いほどに安堵しきった表情で胸を撫でおろすなど、出来るはずがないのだ。

今度はさすがに呑み込めず、若干沁みだしてしまった感情がイルフェリータの表情を怪訝に塗り替える。

それを見つけたリュカは、思い出したかのようにイルフェリータの手から目線を剥がし、バツの悪そうに少女に向き直る。

「ボクは、それでもいいんです。」

恥ずかしそうに涙を拭いて、目尻に残した残滓を諦めて、リュカは自分の心臓を叩く。

「今、ボクにこの意思を授けた人に、この鼓動に振り回されても、ボクは心底安心した。あなたが傷つかなくて、どんな喜びよりも大きな安堵を得た。」

イルフェリータから叩きつけられた言葉を飲み込んで、吟味して、それでも、その感情を押さえられなかった。その安堵を、隠しきれなかった。その歓喜を呑み込めなかった。

だから、リュカはその意思の出所がわからなかったとしても、そこまで感情に正直になれる。自分に、正直になれる。

心から、宣言できる。その気持ちが誰のものでも構わないと。振り回されても構わないと。

そして、


「もうこの気持ちは、ボクのものだ。」


愛おしそうにイルフェリータを見て、確信する。

リュカに全ての意思が伝わって、その意図も、内包したナイフも全てを受け取ってもらえたことが確認できた。そして、その全てがなんの意味もなかったことも確認できた。

まるで新しい生物でも見るかのような奇異の目線でリュカをジト目で見ていたイルフェリータは、そうして結局内側を露呈させるしかなくなる。

「もし、そうだったとしても。誰かじゃない、『キミ』自身が望まないと、意味がない。」

変わらぬ無表情ながらもどこか機嫌の悪そうなイルフェリータは、まるでなにかの当てつけかのように丸見えのシャワールームに入り、生まれたままの姿で体を清め始める。

その当てつけが心底リュカに効いたのは、そこでイルフェリータが得られた、大きなものの一つだっただろう。



暗闇。

人間の思考のほぼ全てに直結する視覚という最強の五感が、この時ばかりは他の感覚に後れを取る。

申し訳程度に装着した暗視ゴーグルも、所詮は人間の科学力の生み出した産物。用済みとなった視覚を前線に復帰させるほどには至らない。

がしかし、その暗視ゴーグルはどこか不可解な機巧であった。

うなじに在る、さながら万華鏡のような円柱から管が伸び、それが手を伸ばした先に暗視ゴーグルがあるのだ。そして、奇妙なことに、その円柱は直接的に暗視ゴーグルに関わっていないのだ。

もしそこになんの用途もないのなら、それはいたずらに重量を助長するハンデであり、アドバンデージとならなければならない暗視ゴーグル本体の目的からかけ離れている。

握りしめてギリギリ指が回るか回らないか、そもそもの太さがあるため、たとえ固定されているといっても違和感は凄まじいものだろう。


しかし、それを取り付けた影はそこに一切の感情を抱かずに、同じく無関心を貫き通す影たちを見渡した。

総勢、九名。

先導する影は、牽引される影のゴツゴツした輪郭から比べると幾分か華奢で、どこか女性的な雰囲気を感じさせる。他の影と違い、少々特殊なデザインの戦闘服を纏っていることから、彼女がその部隊のリーダーなのだろう。

彼女は、どこで突然フリーフォールに遭遇するかわからないような厄介な地形なのにも関わらず、その身に一切の躊躇や恐れを住まわせない。

がしかし、そんな決死の覚悟を持っている人間が、命の重さを軽んじている人間が、そう何人もいるわけではない。女は、背後の八人が進むことを躊躇っていることに気付くと、失念していた可能性を拾いきれなかったことにビクリ、と肩を震わせてうなじの円柱を指さした。


かくいう彼女も、その円柱の存在を忘れていたようで、背後の八人を導くように内股に収納してあった細長い円柱を取り出した。それが伝わったことを確認して、手にした細長い円柱を、うなじの円柱へと差し込んでいく。

スルスルと滑っていく細長い円柱は、やがて挿入口であった円柱に差し込まれ、完全に収納された。

そして、世界が変わった。

「……」

各員良好な反応を示したことに安堵したのか、女は嬉しそうに歩幅を弾ませながら木々の隙間を縫っていく。

これまで闇に隠されていた景色が見えてくる。

緑、緑、緑。

木々に覆われた草木、草木に覆われた大地、大地に刻まれた小川、小川から繋がる大河、大河にまたがる巨大な滝。圧倒的な光景だった。

空に上がる月の存在は、今の今まで暗視ゴーグルの色彩仕様によって覆い隠されていたものであり、やっとのことで見えたそれが欠けているのは、彼女らの左側に聳え立つ崖が原因だろう。押し潰されてしまうのではないかというほどの迫力を放ち続けるそれは、上から飛び降りれば破裂して死骸を撒き散らすことは必至。死体だと判別されれば奇跡。それほどに先の見えない、途方もない高さだった。

自分たちの右に流れている大河も、例外ではない。もしこの流れに攫われて、そのまま消えて行ってしまえば、体はバラバラに、やがて人間であったという証拠すらも流されて、なくなって、存在ごと消えてしまうだろう。

それこそ、2555日間を待つ必要すらないほどに。

がしかし、彼女らが見なければならなかったのはそんな陳腐な自然の光景ではない。彼女が見せたくて、影たちが見なければならない。というより、影が模した彼女たちが見なければならないものは。

「は、はじめ……まして……っ、突然、ごめんねぇ……?」

やけにオドオドとした口調で、しかし、その瞳の暗視ゴーグルから覗く双眸は酷く歪んで、女はそれに許しを請うた。

そして同時に、あってはならない冒涜に手を染める。


「淫魔、フェルモアータちゃん……」


しぶく。

異能発電が、嘶いた。

わんわんと喚き散らすように、いや、怒り散らすように。轟々と弾け飛んで、大河を歪ませて、水流を断ち切って、それでも、それでも消えることのない怒りを咆哮として夜闇に吐き棄てて、そして、そして。


ぐちゃぐちゃの巨人が、動いた。


人類の生存領域を国一つ分ほどに縮小させた大災厄。人口を八億人にまで減らした、地獄。ダーカーストレンジ。その中で、唯一友好的であったそれが、初めて牙を剥いた。人類に、牙を向けた。

それでも、女は動じることがない。まるでそれが当然の権利であるとでもいうように達観して、しかし、それを詫びても曲げる気はなくて。


「アスト・ペクトちゃん。名前は、【全象器】(ばんしょうき)。」


引き裂かれた眼球が、断末魔を上げる。



緑が揺れたのは、突然だった。

日が落ちて、夜に喰われて、そして、世界が眠りに就くとき、ただそれだけは、目覚めたのだ。

世界というとてつもない規格の中で、自分のみの反旗を、堂々と翻したのだ。巨大な、咆哮と共に。

揺れる照明とかき鳴らされる食器の音、なにより、地面を踏み荒らす振動に、リュカとイルフェリータは目を覚ました。

ワイシャツに生足、申し訳程度の短い靴下とローファーのみの準備をして、イルフェリータは揺らがぬ心で収納をまさぐる。

着心地には満足していないものの、デザインは及第点といえるパーカーを召して、リュカは脱出口確保のために扉の類に隙間を託す。

二人が二人、一切の動揺もなく、その事態を受け止めた。

ここでの生活が始まってからまだ一日も経っていないリュカがそこまで冷静だったことが意外だったのか、完全に外出モードに切り替えたイルフェリータは驚いたように少年を見据えた。

しかし、呆けている時間はない。

今は既に止んだが、少なくとも数歩、衝撃は確かにこの大地を食んだ。もし、もしあそこまでの衝撃をこのワンルームに届けられる一歩があるとしたら、考えられるのは最新鋭の軍事兵器の類。爆発だろうと衝撃波だろうと、起こせるとしても可笑しくない。

ただ、そこには理由が付随しない。いたずらに大災厄であるダーカーストレンジを刺激して、些か劇的すぎた人口削減に拍車をかけることになれば、痛手を被るのは人類だ。人間がわざわざ兵器を使って攻撃を仕掛けてくるはずがない。

とするならば、一歩を刻んだのは、衝撃の正体は。

「ぐちゃぐちゃの、巨人……?」

にわかには信じ難いことだが、突然地面を揺らした衝撃はそれに足る威力を持っていた。思わずといった様子で呟いたリュカの言葉も、あながち馬鹿にはできないほどに。

「あれは、人類に利益をもたらす唯一のダーカーストレンジだ。だから当然、人間との関わりも、多少ある。」

「じゃあ、人類がぐちゃぐちゃの巨人に、何かをした……?」

「可能性としては、なくはないかもな。」

不穏な気配に表情に陰を落として、イルフェリータはリュカの託した隙間を抜けて、扉を押し開いた先へと進む。夜闇の支配する涼しい夜に、轟音の途絶えた不気味な夜に、遥か先、眠る巨大な肉塊のもとに。

部屋の電気を消して慌ててイルフェリータを追うリュカ。そんなリュカに、夜闇でも目立つ白髪を抜けて何かが投げつけられる。

見れば、それはイルフェリータの手にも握られていて、同じような道具であることが理解できた。

「あの、これは?」

「マルテュリオン、マテリオルでも通じるらしい。」

意図を問うたリュカに、手にした道具を弄るイルフェリータは片手間に告げた。

少女が手にした道具は、円柱。形状だけで判断するならば、あのワンルームの中に多数設置してあった挿入口と同じ規格。

つまり、シャワールームをはじめとする日常生活の基盤に、そのマルテュリオンだとかマテリオルだとかいう道具は食い込んでいるのだろうか。

「対応した機械に挿入して使う、最先端の技術らしい。」

人づてに聞いたような語り草なのは、実際に彼女が人づてで聞いたからだろう。

そもそも、人類の生存領域があるのにも関わらず、わざわざ大災厄と称されているこの森に住んでいること自体がおかしいのだ。人間の暮らしからかけ離れているのは確かだろう。


どこか不満げな顔をしながら機械から円柱を引き抜き、ボタンを押して再び挿入する。それに倣ったリュカ共々、瞬いた光が夜闇を劈いた。

所謂懐中電灯のようなものだろうか。最先端技術というくらいだ、おそらく、そこに電池交換という経済活動は必要なく、電池を生業としていた存在への配慮というのもなくなってしまったことが予想できる。

その証拠に、懐中電灯より遥かに強い光を放ちながら一切の熱を持たないそれには、マルテュリオンの挿入口以外に何かを入れられる場所はなく、無駄のない冷ややかな曲線が、どこか不気味に見えた。

「キミ、本当に付いてくるのか?」

「あなたが、心配です。こんなに暗くて、それに、あんな音までしたのに……!」

無視しようとしたのか、零れ落ちたように問いかけたイルフェリータは、結局無視できなかった良心に任せてリュカを睨んだ。

それに怯むことなく闇を力説するリュカに、もはや手は付けられないと、たった数時間前の自分が証言している。イルフェリータは諦めたように悪態を吐く。

「どこの誰とも知らない奴の心配なんていらない。アタシが受け取ってやるとしたら、キミの心配だけだ。」

言われたリュカも、変わらぬ答えをまた返す。

「これは、ボクの心配です。」

無言で歩き出したイルフェリータ。不機嫌そうな表情は、何よりも語る背中から確認できた。



轟音の牛歩から数分。眼球の炸裂から数瞬。おびただしい量の血液に侵された森の中、女は満足げにそれを眺めた。まるで地面を切り裂くようにして叩きつけられた血液の赤は、何よりも鮮やかで、量的にも、美しさにおいても、人間数人分では到底足りない。

女は、眼球を持っていた。

巨人のものにしては小さいが、人間に当てはめてみると驚くほどピッタリ合う。そんな、矮小な眼球を。

まるで感謝するように女が見上げた先、巨人は、何食わぬ顔で直立して、元居た場所へと回帰していた。

まるで、怒りを忘れてしまったかのように。その源泉を、失ってしまったかのように。

暗視ゴーグルに組み込まれているマルテュリオンの機能。それに視覚を補助されたのは、影の中の過半数ほど。それ以外の影は、最初から道を見渡していた。

つまり、その影が思慮していたのは、己の視界不良ではなく、その横で視界に苦戦する仲間の視界不良。

現在、その部隊の中で視界に苦しんでいるものは一人としていない。

「っ!うぅ……ちょっと派手に動きすぎちゃった……?怒らせちゃったみたい……」

そんな万全の状態の中、隊長格で眼球を弄んでいた女は、その恍惚の表情から一転、突如噴出した気配に対して、全身全霊での失念を口にした。

そしてただ一つ、それを退けるための手段として、徹底抗戦を宣言する。

「戦える……?礼華(れんげ)ちゃん、LLちゃん。」

踏みしめられた草木が、くしゃり、くしゃりとかき鳴らす。

黒い戦闘服。纏った全員が頭部保護のために装着しているヘルメットを、呼ばれたうちの一人、礼華だけは、要していなかった。代わりにあるのは、申し訳程度の暗視ゴーグルと、両の側頭部から伸び、後頭部にて接合する、Cの字型の特殊な機巧。

確かな接着がされているわけでもないのに、礼華の動きに付き従うそれは、異色の戦闘部隊の中ですら頭一つとびぬけて不可解であった。

そして、その背後で二丁拳銃を構える黒い戦闘服が、おそらく呼ばれたLLという影だろう。

面倒な能力補助装置によってゴツゴツとした輪郭になってしまう部隊員たちの中で、LLは全くと言っていいほどその影響を受けておらず、誰よりも自然体であった。

ともすれば、部隊のリーダーと同じほど華奢なその肢体も、戦闘服の前では着ぶくれせざるを得ないが。

目前、闇の中を、微かな光がチカチカと劈く。

「任せてくださいッス!!」

「……。」

戦闘服が、空気を吸入して解き放たれるように剥がれ落ちた。鬱陶しいほどにごちゃごちゃと固められていた能力補助の演算装置も、何十kgとある重過ぎる防御性能の根幹も、まるで内部のそれらを信じるように、秘めた彼女らを放つように。

「やっぱり、天使ちゃんと魔女ちゃんは、二人で戦った方がいいもんねぇ……ふふっ」

緊迫した状況とは思えないほどに楽観的な女の笑みを経て、可憐な少女二人が、解き放たれる。

そして、突き刺される。

「ぇ」

礼華を無視して、LLを躱して、そして、影の数人を素通りして、ただ一点、女のみを狙った何かが、握りしめた枝を突き刺したのだ。

「ぁぁあッ?」

痛み、というには少々満たされなかっただろうか。しかし、それでも満足とでもいうように、何かは嬉しそうに女の頭蓋に二回目の小枝を突き刺した。

たった一瞬のそれに意識を喰い荒らされていた影たちは、やっとのことで自分の役目を思い出し、礼華を筆頭として何かに向かっていく。都合八人の吶喊、しかし、その猛攻足り得る総力は、思わぬ場所からの妨害によって攻勢足り得ぬ微力へとなり下がる。

「あちちッ!!な、なんスかッ!?」

何かに辿り着く一瞬。己の隊長に牙を向けた好敵手候補に、頂点の剣を突き立てる一瞬、礼華の眼前に展開された何かが、少女の吶喊を所詮跳躍へと押しとどめた。

「蒸気……?」

突如自分を焼いたそれに対して、心底理解できないとでもいうよう、に整った顔立ちを闇に透かす。しかし、礼華は両手に装着したガントレットを振り、三日月のように豪快に笑った。

「パラベラム・【天死体】(アマシナズ)ッ!!」

キィン、と、まるで刀の弾かれたような音が闇夜に響き渡る。どこまでの染み渡っていく剣戟の音に、礼華以外の影が咄嗟に飛び退いた。それは、礼華と同じく女から命令を受けたLLも同じであった。

自分たちの隊長である女を見捨てる。命令違反。それら蟠るごちゃごちゃとした柵を取り払い、そして、切り裂く。それが、【天死体】、天剣礼華てんけんれんげの力。

彼女の異能だ。

「今助けるっスよ!!」

跳ねた少女の躍動する血肉は、遥か上空、鬱陶しい木々を飛び越えて、立ちふさがる蒸気を跳ね超えて、羽が生えたように空を舞う。

そして、眼下、少年の刺突によって切っ先を煌めかせる小枝と、守るべき女が見えた。

回る。自由落下によって加速する礼華の体が、その加速に満足していない礼華の肢体が、まだだ、もっと速くと、どこまでも貪欲に加速する。

「せいヤッ!!」

視認は、一瞬だった。

女を刺し殺す寸前、少年の視界に一瞬写り込んだ何か。それこそ、礼華だった。

がしかし、少年が現在目にしているのは、礼華ではない。礼華によって呼び起こされた破壊痕。痛々しく抉られる、憐れな木々たちの姿だ。

では、木々への暴虐者はどこへ消えた?

礼華の姿が掻き消えた一瞬、女の姿の掻き消えた一瞬、少年の目標が消えた一瞬。

「あ」

拳が現れた、一瞬。

ぶん殴られた。痛みは、通常の殴打では到底感じることができないほどに大きなものだっただろう。

それが礼華の元来の肉体的なアドバンテージによるものなのか、マルテュリオンによって補助されたものなのか、はたまた、彼女の発動した異能によるものなのか。是非を問うことはできないが、もしこの拳を受けたのが普通の人間だったなら、内臓花火が咲き乱れていたことだろう。

「口だけだったのか?あの女は自分がやるって言っただろ。」

「……ぉ、ご、ごめんなさい……まさかあんな凄いのがいるなんて。」

つまり、礼華の拳を喰らった上で、その威力を完全に受け流して、距離まで取って、仲間と合流した少年は、果たして普通の人間ではなかったのだろう。

無かったのだろう。そしてそれは、ともに語る少女も、同じだっただろう。

「逃げるか?」

長い白髪を美しく靡かせる少女が、息を切らしながらぶん殴られた頬をさする少年に問いかけた。

礼華の総合的な能力を、彼女が見て、彼が受けて、そして判断した結果だったのだろう。少女側は、この森に住んでいる者達だ。もし礼華たちと鬼ごっこをして有利になるのは彼女たち。

しかも、礼華たちは頭蓋に損傷を受けた女を匿っている。頭を狙ったとはいえ、流石に頭蓋を砕き切れるわけではない。恐らく、怪我の程度は頭部の肉を抉られたことによる出血に留まっているだろう。

正常な判断を考えるのであれば、両者ともに逃亡が最善の選択肢だった。

逆に、両者ともに、逃亡されないのが、最悪の結末であった。

だから。

「逃げません。ただ、あなたには、ちょっとだけ逃げていてほしいです。」

「だからなぁ」

「わかってますって……他人の意思はいらない、ですよね?」

「分かってんだったら言うんじゃねーよ。」

少年は、逃げないことを選んだ。

もはや定番のようになった感情の所有権の押し付け合いに決着をつけ、どうせ逃げないのであろう少女に最大限の配慮をして、眼前、圧倒的な膂力を見せつけた礼華を見据えた。

倒した態勢は、踊った重心は、しなった鞭のように爆発的な力を生み出す前、嵐の前の静けさだ。

爆発的な筋肉の脈動の果て、それは吶喊となる。

力が、炸裂する。

リュカの疾駆が、礼華へと向かう。

「ちょっと待て。」

筈だった。

体中の全神経が、もう閃光の如き跳躍を確かなものとしていた。何物の介入をもってしても止めることはできないと、爆発寸前のミリ単位の導火線を焦がしていた。しかし、ただ一瞬、吹きすさんだ白愛の音色が、導火線の火をふっと消し去ってしまった。

全ての力を、吸い取ってしまった。

白い少女によって完全に動きを御された少年は、一切の不満も不可解もなく、ただ一点のどうかしたか?という感情のみで振り返る。

「止めたアタシが言うのもなんだが、そういう所が自分の意思じゃないって言ってるんだよ。」

言われた通り止まったのにも関わらず悪態を吐かれる不憫な少年は、確かに自分の意思で止まったようには見えなかった。それは、何かに強制されて、止まらざるを得なかった。そんな様だった。

苦笑する少年の表情に更に苛立ちを募らせた白い少女は、噴出しかけた感情を押さえつけ、過去の己を守るため、どこまでも無表情を貫いた。

しかし、呑み込んだ苛立ちは腹の底で暴れまわり、体を破裂させんばかりにのたうち回っている。

だから。

「ちょっとしゃがめ。」

「?」

疑問符を浮かべながらもなんの疑問も違和感も抱かずに従う少年に、少女は後ろから思いっきり抱き着いた。

「ッッッ!?!?」

今の今までほとんど劇的な表情の変化を見せなかった少年が、たった一瞬の抱擁で整った顔立ちを真っ赤に染め上げる。

もはや訳のわからないほどに心の深いところまで潜り込んでくる心地よい匂いと、背中にぐにゃりと押し付けられている豊満な胸。首元をなぞりながら心臓の前で組まれた少女の腕は、微力ではあるがしかしがっちりと少年を拘束し、すぐには逃げられないように些か肉感に富んだ拘束具となっていた。

その反応に留飲が下がったとばかりに口元を歪めた少女は、慌ててその感情を抑え込む。

そして、最後の仕上げにと爆弾を放り込んだ。

「ちゃ~んと働いたら~、背中に当たってる~、こ・れ。触らせてやるぞ?」

「え……ま?じゃなくて!もっと自分の体を大事にっ!」

全人類垂涎の願い。人の根幹に訴えかける最強の武器『おっぱい』によって、少年は思わずその是非を問うてしまった。がしかし、瞬時にそれを取り繕って叱責へと変換する。一瞬前にそれにまんまと釣られたとは思えない変わり身である。

しかし、もちろんその変わり身を少女が見逃すはずがなく。

「ふふっ、今のは、キミの意思だったな?」

「違いますッ!!」

違わなかった。


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