飢えた塊
強い衝動に苛まれた一つの塊が、水の中を行く。
それは飢えていた。
成長した肉体に釣り合うだけの食物が、住処とするここには無い。
餓死を迎える可能性も、無い。
飢餓が行き着くところまで行けば、肉体の一部が熱量へと還元されていき、適切な体格へ変化する。今この環境で得られる食物で、維持できるだけの体格へ。
塊の肉体は、均一で簡素な構成をしている。故に食物に恵まれれば容易く成長し、栄養状態が悪ければ縮小する。
また肉体と同様に簡素ではあるが、塊は知性を持っていた。
記憶、学習し、判断することができる。
本能が飢えという形で警告を発して食物の摂取を促すように、それの知性もまた一つの行動を塊に促していた。
体躯に適した環境への移動。より多くの食料を得られる、新しい住処を探せと。
肉体が維持できないほどに成長するのも、新天地を探して移動をするのも、これが初めてではない。
これまでに何度か同じことが起こり、その度に移動は失敗している。
住処の上は、住むに適さない。
滋養に溢れた食物が稀に落ちてくるので、そこで活動できるならば、おそらく飢えることはない。現在よりはるかに大きな肉体も維持できるだろう。
だが、この肉体は温度の低さに耐えられない。失敗の中の何度かは、上を目指し体温を奪われた結果だった、と塊は記憶している。
横方向に移動して「住むに適さない場所」へ行き着くことは今までに無いが、「そこで食料が多く手に入る」ということも無かった。
塊は、これまでに居た場所の全てを記憶している訳では無い。だが、既知の場所とそうでない場所の区別はつけられた。
今目指している方向も、塊にとっては未だ未知の場所。そこには飢えを満たし成長の糧となる十分な食料、あるいは活動を脅かし停止させ得る脅威がある、かもしれない。
いずれにせよ、より多くを求める塊に保留という選択肢は無かった。
塊が、これまでに無い刺激を感知したのは新天地を目指す移動の最中だった。
他の生物の活動を、それは熱や振動として体表で感知している。
今回の振動が、明確にこれまでの物と異なるのは、その強度と継続時間。この場所に住む生物としてはありえないほどに、継続して激しい動きを続けている。
もし喰らうことができれば、今までに捕食した何よりも多くの熱量を得られるだろう。今の体格を保ったまま、より遠くへ向かうこともできるかもしれない。捕食する側になれた場合の話だが。
体に伝わる振動は、時間と共に強くなっていく。それを発する者が近づいてきている、ということだ。
それを受けて塊は、自身の肉体を周囲の壁面へ這わせ活動を抑制する。接近する相手に自身を感知されないため。熱量の消費を抑え、少しでも多く攻撃に使用するため。
感覚の全てを振動の発信源へと指向させ、彼我の距離を測り好機を待つ。
標的の移動速度は、塊自身と比べて速い。不意を打って捕らえられなければ、二度と捕捉することはできないだろう。だからこそ、相手にとって最も致命的な瞬間に攻撃しなければならない。
すぐ近くまで来ている。だがまだ届かない。
あと少し。もう少し近く。……今!
全身を瞬時に活性化させ、全周から標的目掛け飛びかかる。
捕らえた手ごたえ。散らした肉体を収束させ、文字通り全身全霊の力で標的を壁へと叩きつける。
掴んだ箇所から伝わる動きが鈍ったことを感じ取り、塊は獲物へ食らいついた。
そしてすぐに理解する。この獲物は「可食部がほぼ無い」と。
その理由もすぐに理解できた。
獲物の肉体を構成する物質は、自身のそれと大きく異なる。これまでに喰らったどの生物ともかけ離れた、異質な存在だった。
わずかにだが、摂取して熱量に変換できる部分はある。根気良く『咀嚼』し続ければ、他の部位も取り込むことは可能、かもしれない。
だが、今最も必要なのは「より遠くへ行くための活力」だ。無理に取り入れる必要性も無ければ、それを実行する余裕も無い。
逆襲されることの無いよう、これの活動を完全に停止させ先を急ごう。
そう判断した塊は、獲物の急所を探る。
「自身と比較して体の構造が大きく異なる」という点では、これも今までの獲物と同様だ。どこを破壊しなければならないかは、実際に確認しなければ分からない。
直感、本能に任せて急所を探ると、未知の刺激が加わる箇所が見つかった。ここが急所の一部だと、本能は言っている。
その未知の刺激は熱を伴う。強い物理的衝撃とも似ているが、違う。
それが何なのかは重要ではない。重要なのは、塊がこの刺激を「熱量に変換できる」ということだ。
歓喜の声を上げ、塊はその刺激を貪り始めた。
――――
金属製のトレー上に、破損した一台の機械が置かれている。
カメラを備えた撮影用のドローン。
何と衝突したのか、プロペラ部分が根元からもげている。その他ボディの細かな傷に加え、汚れもひどい。濁った粘性の高い液体に塗れている。
上から伸びた金属のアームが、その粘液を採取しシャーレへと移す。
シャーレの培地へと垂らされた粘液。透明度の高かったそれが、徐々に濁っていく。同時に粘りも弱くなり、液はシャーレ全体へと広がった。
シャーレの中に、先ほどとは別のアームがある物を置く。市販されている鶏肉の、ほんの一かけ。
置いて間もなくシャーレ内の液体に溶けていき、全てが溶け終わるとほぼ白色だった液の色に赤みがかかる。
続けてもう一つ、肉片を置こうとするアーム。液がそこに、絡みついた。
触手のような形を取り、肉片をアームごと引き寄せようとする。アームの側が肉片を放すと、液も肉片のみをシャーレの中へと持っていき、すぐに溶かしてしまった。
別のアームが2本、上から降りてくる。形状は先の二本に似ているが、全く異なる機能を持っていた。片方の先端に火が灯り、液へ向けて炎を浴びせる。
液は炎に怯んだように一瞬震えるが、怯むどころか逆上したかのように炎を吹き出すアームへと向かっていく。巻きつき、締め付け、噴射口を体で塞ぎ、ついには炎を止めてしまった。
もう一本のアームが端子から放電し、火炎を放つアームに巻きついた液を引き離そうとする。だが液は電撃も受けつけない。こちらのアームも端子部に絡みつかれてしまう
「……もう良いか」
装置の外部から、この光景を眺めていた者が一人。大きなボタンを押して、装置内に冷却剤を散布し液の活動を停止させた。
液の凍結を確認したその人物は、ポケットから取り出した電話をどこかへとかける。
「……ああもしもし、僕だよ。例の生きものだけど、大分まずい変異をしてる」
「地下水路に放ったドローンは壊された。液状の体のまま、運動能力を相当発達させている。それに、ついさっき確認したことだけど、火や電気にも耐性を獲得しているみたいだ」
「……分からないのかい? 今あいつらを地下に閉じ込めているのは、寒さだけだ。もっと暖かくなったら、絶対に地上へ出てくる。地下で手に入る以上の食料を得るために」
「そうなったら、次はどうなる? 有機物ならなんだって食べられるあいつらは、何を食べようとする? ……人間を含む、地上の生物だ。冬眠明けのクマみたいにね」
「クマと違って、あいつらは捕食する対象を体で包み、生きたまま溶かす。生半可な火や電気じゃ怯みもしない。もしそうなったら、多くの人がろくな抵抗もできず、苦しい死に方をすることになるだろう」
「僕もそういう映画は嫌いじゃない。けど、実際に起こるとなったら話は別だ。つきあいの長い君が言うから様子を見てきたけど、もう我慢できない。気温が少しでも高くなったら、地下のあいつらは駆除させてもらう」
「それが嫌なら、君がどうにかするんだ。もうデータは送った。それを使って、今度こそ確実に駆除できる薬剤を作ってくれ」




