4.課長の珍しい一面
てるが赤家のことを知ったのは、新入社員の時。
初めて配属された先の先輩に、赤家が今までしてきたあらゆることを教えてもらったのだ。
赤家が配属された時、営業二課は不振の一途を辿っていた。それは、当時の二課課長が不能だったからだが、そこでも赤家は腐らずに、地道に営業活動を進めていった。そしてそれと共に、当時パワハラ・モラハラ三昧だった二課課長に証拠を突き付けて降格処分させ(結局退職したらしい)、その後、二課課長補佐から課長に、と昇進していった。
二課課長を断罪するときに言ったという有名な言葉がある。
『会社のためにならない人は、誰であろうと消えてください』
それを聞いた周りの人は若干引いていたが、てるは純粋に憧れた。
この言葉を裏返せば、『会社のためになるならば、誰であろうと居ていいのだ』と言われているような気がしたから。
そう。自分のような、変な格好をした女でも。
だからてるは、入社してからも一層頑張った。
平日の夜や休日には、仕事に関係ありそうな本を読んだり勉強をしたりした。
そして二課に異動になったとき、どんな理由の異動でも、嬉しかった。
憧れの赤家と仕事ができるのだから。
てるは、赤家の仕事を支えていることに誇りを持っている。
・~*~・~*~・~*~・
あまりの痛みに、てるは何が起きたか分からなかった。
頬に触れる髪の毛の感触から、赤家がてるの首あたりに顔を埋めているのは分かる。
そしてその首が、ずきずきと痛むのも。
「い、痛い・・・何?」
てるの戸惑う声は聞こえているはずなのに、上司はそこから動かない。
首に何かが刺さっている。これは、もしかして、噛まれているのだろうか。
怖い。
目の前の人は知っている上司なのに、ずっと見ていた人なのに、何故か別人のように感じる。
「やっ、もう・・・課長!赤家課長!」
てるは必死に呼んだ。
ようやく声が届いたのか、上司が顔を上げる。
しかしその目はどこか遠くを見ているようで、焦点が合っていない。
とりあえず痛みから解放されてほっとし、てるはそのまま崩れ落ち、床にぺたりと座った。
力が入らない。安堵で、目に涙が滲んでくる。
その時、赤家から放心したような呟きが聞こえた。
「俺の・・・俺の長年の苦労が・・・」
先程痛みを感じた首に手をやると、指先に少し血が付いた。
そんなに強く噛まれていたのだろうか。
「あああ!ちっくしょう!今までは大丈夫だったのに・・・!」
放心から一転、突然叫びだした上司の声に体がびくっと震えた。ついでに涙も引っ込んだ。
この人、こんなに感情を露わにする人だっただろうか。
叫ぶ課長。大変珍しい。というより、てるは初めて見た。
「やっぱりマスクなんかじゃダメだった・・・!今日だけは会社を休めばよかったのに!!いやしかし、外せない打ち合わせもあったし・・・それよりどうして我慢できなかったんだ!」
何やら壁に手をついて、頭をごんごんぶつけ始めた上司にどう対応していいか分からず、てるは戸惑う。
そのうちにこちらの存在を思い出したらしい赤家が、ようやくてるの顔を見た。
さんざんぶつけていたおでこは赤くなっている。
おでこが赤い赤家もレアである。きっと、見たことがある人などいないだろう、と妙に冷静にてるは考えた。
「あ、の・・・赤家課長・・・」
「少し待て」
上司は最低限の単語で指示を出すと、ドアを背にしてずるずると床に座った。そしてそのままうなだれている。
てるは床にへたり込んだまま、その様子をぼうっと見ていた。どちらにせよ、赤家がドアの前からどかないとてるは出られない。窓から逃げるという手段がないわけではないが。
赤家は目をつぶって深呼吸をしているらしい。まるで瞑想のようだ。片手で頭を支えていたが、整った顔がちらりと見えた。
てるは外見に興味がないとはいえ、赤家のことは美形だと思う。女子社員が騒ぐのも分かるぐらい、顔が整っている。だがてるはそれよりも、赤家の手腕の方が魅力的に映る。
しばらくして、落ち着いたのだろう。いつものように敬語で、向こうから話しかけてきた。
「申し訳ありません。訴えられても仕方がないことをしました。ただ、もし許されるなら・・・事情を説明させてもらいたいのですが。今夜、時間は取れますか?」
いつもの冷静な上司の顔になった赤家に問われ、てるはこくんと頷く。
驚いたし痛かったが、嫌だったかと聞かれると、正直、嫌ではなかった。
そう、何が起きているか分からないから怖かっただけで、嫌悪感を覚えたわけではない。
それに、ここでてるが騒いでしまっては、赤家が社会的に厳しい立場に立たされることになる。
それはてるの本意ではない。むしろ、率先してそのような要素を排除して回りたいくらいだ。
「すみません。ではまた夜に・・・と、連絡先を知りませんね。教えてもらってもいいでしょうか」
悪用は決してしませんので・・・と弱気に続ける赤家を前にてるは立ち上がり、差し出されたスマホに自分の電話番号とメールアドレスを打ち込んだ。
憧れの人のスマホに自分の連絡先を打ち込んでいる・・・。
夢ではないだろうか。
スマホを返すと、赤家が見て確認している。
「ありがとうございます。・・・ああ、首、大丈夫ですか?下準備もせず思い切り噛んだから、痛かったですよね。本当に申し訳ない・・・」
「あの、大丈夫ですよ、つば付けとけば治るってよく言うし、」
下準備って何だろう?塩コショウでも擦りこむのかなと思いながら、これ以上気にしないように伝えようとしたてるの首筋を、何かが這った。
ぺろり。
「!?」
「これで、少しはましになると思いますが。・・・本当にすみません。落ち着いてから、仕事に戻ってきてください。皆には適当に言っておきますから」
そう言うと上司は何事もなかったかのように、部屋を出ていった。
「な、なめた・・・?」
あとに残されたのは、真っ赤になったてるだけだった。