7.次の段階へ【てる】
嫌だったわけではないと言えばいいのだが、そこで再度泊まりに誘われたらどうしていいか分からず、気まずさと気恥ずかしさで勝利と目が合わせられないまま昨日1日が過ぎた。
家に帰ってからまた自己嫌悪に陥る。
それでも、勝利が好きだ。一緒にいたいのだ。
それだけは自分の中に確固たる思いとしてあることに、てるは気付いた。
とにかく一度、話したい。そう思い、翌日に機会を窺うも、勝利の仕事がなかなか忙しく、プライベートな話をするのは憚られる。
てるは、最近ぐっと増えてしまったため息をまたひとつ、吐くのだった。
・~*~・~*~・~*~・
この間も、同じだった。
てるはぼんやりそんなことを思った。
違うのは、前回は総務に行く途中に声をかけられ、今回は帰ってきたときに声をかけられたことか。
目の前に立つ、今日も可愛らしいふわふわな格好の麻里瑛を見て、ばれないように、こっそりため息を吐いた。
「佐藤てるさん。ちょっと服装を変えたからって、あなたが赤家課長の隣に立つのにふさわしいと思ってるの?」
この間も言われたことだ。そしててるは深く傷ついたのだが。
もう違う。他人にどう言われようと、関係ない。てるが、勝利の隣にいたいのだ。
「今現在ふさわしいかは分かりませんけど、隣に立てるようになりたいと思っています」
「なっ・・・おこがましいにもほどがあるんじゃない!?あなたみたいな普通の社員、赤家課長には釣り合わない!」
「そうかもしれませんが、この場所を誰かに譲るつもりはありません。課長が、私のことを大切にしていてくださる限りは」
「自意識過剰なんじゃないの!?あなたなんて、すぐに飽きられるわよ!」
「それは、」
「勝手に人の気持ちを決めつけないでいただけませんか」
急に聞こえてきた低く響く声は、怒気をはらんでおり、自分に向けられてものではないと思っても、てるの身を竦ませた。
それに気付いたのだろう。勝利はいつものように、柔らかく話しかけてきた。
「今度は、間に合いましたか?」
「・・・はい」
「それはよかった。さて、一課の佐藤さん?私に関する話なら、直接私に言ってくださいませんか?」
「赤家課長・・・!課長はこんな女のどこがいいんですか!?こんな、どこにでもいそうな女・・・!」
ふわふわの見た目とは裏腹に、きつい言葉で麻里瑛はてるを睨みつけている。
激昂している麻里瑛とは対照に、勝利は冷静な声で言った。
「どこにでもいそうだと思ったことなど、一度もないのですが。仮に、彼女がどこにでもいそうだとしても・・・世界中に、この佐藤てるは、一人だけだろ?」
「・・・!」
『この』を強調された言い方に、勝利の本気を感じたのか、麻里瑛は言葉が出てこない。
「分かったなら、さっさと仕事に戻ってください。佐藤さん、行きますよ?」
てるはと言うと、動けなかった。
勝利の言葉が嬉しすぎて。
普通になりたい、そう思っていたが、好きな人の【特別】になることがこんなに嬉しいことだと、てるは知らなかった。
「佐藤さん?」
「あ、今行きます」
勝利のもとに向かおうとした時、目の端に何かが動いているのが見えたが、それが何か、てるは判別がつかなかった。
分かったのは、一瞬あと。パシンという音と共に頬に熱いような衝撃を受け、次第にジンジンと痛みが広がってからだった。
「てるっ!」
「ふざけないでよ・・・こんな女のどこが・・・!」
「てる、大丈夫か?」
いつの間にか目の前に来た勝利に肩を持って軽くゆすられ、てるはようやく目の前の状況が認知できた。
どうやら、麻里瑛に叩かれたらしい。
「血が出てる・・・爪が当たったのか?てる、痛みは?」
「あ、大したことないです。びっくりしただけで・・・」
「大したことないわけないだろ。血まで・・・ちょっと待ってろ」
「あ、ちょっと待、」
そう言った勝利の次の行動に気付き、てるは止めようとしたが遅かった。
ねろり。
二人の間では、もうすっかり当たり前になってしまった『舐める』という行為だが、傍から見ていたら大きなインパクトがあったようだ。
「あ、赤家課長!何して・・・!」
「うるさい。黙れ。お前のせいでてるの顔に傷が残ったらどうする気だ」
うろたえた様子の麻里瑛を無視して、もう一舐めしようとする勝利を、てるは必死に押しとどめた。
「課長!多分、冷やした方がいいんじゃないかと思うので、私、医務室に・・・」
「分かった、連れていく」
そう言うが早いか、てるを横抱きに抱え上げた勝利は、麻里瑛の方を見もせずに言った。
「これ以上、てるに何かあるようだったら・・・社長の親戚だろうが関係ない。どんな手を使っても、社会的に抹殺するからな」
その声は、いまだかつてないほど怒りに満ちており、麻里瑛は一目散に逃げだした。
・~*~・~*~・~*~・
医務室はがらんとしており、勝利は備え付けの冷蔵庫に入っていた保冷剤をタオルでくるむと、ベッドに座っているてるに手渡した。
「横にならなくていいのか?頭が痛いとか、気持ち悪いとかないか?」
「大丈夫ですよ。そこまで力も強くなかったですし。それより、舐めちゃだめじゃないですか。普通の人間は、傷が一瞬で治ったりしないんですよ」
麻里瑛からは見えていなかったと思うが、てるの頬のひっかき傷はほとんど消えている。
「腫れも、舐めればおさまるんじゃ・・・」
「だから、ダメですってば。腫れくらい、少し冷やせば治りますから」
しょぼんと項垂れた勝利を見て、てるは笑いだしたい気持ちになる。
この人は体は大きいのに、こういう表情をしていると飼い主に叱られた犬のようだ。
「課長。来てくださって、ありがとうございました」
「運がよかったよ。多佳子さんからてるが総務に行ったと聞いて、迎えに行ったら話し声が聞こえたから・・・。でも、あれは嬉しかったな」
「え?」
「『この場所を誰かに譲るつもりはありません』」
自分が言った言葉なのに、勝利から言われると恥ずかしくなり、自然に下を向いてしまう。
「あれは、だって・・・」
「てる。俺はずっと、隣に立つのは、君しか考えていないから」
「課長・・・」
近くにあるイスを引き寄せて座った勝利は、てるの顔をじっと見つめた。
そして、ゆっくり口を開く。
「この間は、悪かった。てると『おやすみ』と『おはよう』を言い合って、一日の終わりと始まりを一緒に過ごせたらと思って、泊まりに誘ったんだ」
「え・・・」
では、深く考え過ぎていたのは自分だけだったのかと、顔が赤くなる。
「・・・ごめん。嘘つくのはダメだな。最初は、下心から誘った。でも、そういうことをするのはてるの気持ちが整ってからだ。・・・何もしなくていい。ただ、朝まで一緒にいてほしい。それも嫌だったら、今回は諦めるよ。まだまだ、時間はたくさんあるんだから」
「課長・・・」
「まあ実際てるが泊まりに来て、絶対手を出さずにいられるかというと・・・努力する、としか言えないな。俺は前例もあるし」
自嘲している勝利の【前例】は、初めての吸血の時だろうとてるにも察しがついた。
そういえばあのときも、てるは怪我をしたのだ。
「なんだか、初めて吸血された時を思い出しますね」
「うん?」
「だってほら、あの時も私は怪我をして、課長が傷口を舐めて、横抱きで運ばれて・・・ね?その後は違いますけど、結構似た状況じゃないですか」
「ああ、そう言われてみれば」
「『足りない』って呟かれて、何のことだろうって思ったんですよ。まさか、血の量のことだとは思わなかったけど」
「・・・今日も、足りてないけどな」
小さく呟いた声は、静かな医務室ではてるの耳までしっかり届いた。
「あ!明日新月だから、衝動が強いんですか!?えっと、今すぐ飲みます?あ、でも仕事中・・・」
「違う。今日足りてないのは、こっち」
そう言うと勝利は、てるの顎を親指と人差し指で持ち、軽く上を向けさせた。
少しずつ近付いてくる勝利を見ていられず、てるはぎゅっと目をつぶる。
「てる。キスしていい?」
「い、今更聞くんですか!?」
お互いまであと数センチなのだろう。話すだけで吐息がかかる距離のまま、勝利が問いかけてきた。
てるは目を開けられないまま答える。
「もう、無理矢理するようなことはしたくない。てるが嫌なら離れるよ」
つまり、てるにすべて委ねられているらしい。こんな距離のまま止まっているなんて恥ずかしい。
しかしそれ以上に。
「ずるい!これ、『いい』って言うの滅茶苦茶恥ずかし、ん!」
言い終わらないうちに、唇を塞がれた。
触れては離れていくキスは、柔らかくて心地よくて、もっともっととねだりたくなってしまう。
次第に時間が長くなり、触れ方も軽いものから、しっかりと重ね合わせるようになってきて・・・。
「か、課長、ここ、職場です・・・!」
「あ・・・悪い、忘れてた。これだから、てるに信用してもらえないんだよな」
苦笑しながら頭を掻く勝利の手をてるはそっと握った。
「課長、やっぱり明日、泊まりに行ってもいいですか?」
「・・・無理しないでいいんだぞ?」
「無理じゃないです!泊まるだけなら・・・私も、一日の終わりと始まり、課長と一緒に迎えてみたい、です・・・」
尻すぼみになるてるを、勝利はその大きな体で閉じ込めた。
「もちろん、喜んで。ありがとう、てる」
・~*~・~*~・~*~・
「すみません、遅くなりました」
勝利と共に二課に戻ると、多佳子がにこにこと「こっちは大丈夫だよー」と言った。
「それより。頬大丈夫?」
「え?何で知って・・・?」
「さっき、『隣の佐藤さん』が自分で言いに来たよ。『自分のせいで怪我させちゃったから、医務室に寄ってから帰ってくると思う』って。何か微妙に怯えてたけど・・・」
それはおそらく、勝利の本気の怒りを浴びたからだろうとは思ったが、てるは言わなかった。
それより、明日である。
自分から言い出したとはいえ、緊張はする。
忘れ物をしないようにしなければとか、荷物は何に詰めていこうとか、そんなことを考えながらも、いつも通り、仕事の手は休まず働くてるだった。




