3.【顔を近付ける→キス】は絶対じゃない
赤家はてるに決して直接仕事を頼まない。
それだけではない。近付くことさえないのだ。
一番近付いたのはたぶん、初めて挨拶した時。それ以降は、必ず2mは離れている。
マスクと同じで、気が付いたらそうだった。
しかし、てるは気にならない。
直接頼まれなくても、他の社員の仕事をサポートすることが二課のため、課長のためになると思っているからだ。
もしかしたら、人としては嫌われているのかもしれないと思わなくもない。変な見た目の女子社員が部下では格好がつかないだろう。憧れの人に嫌われるのは少し悲しいが、そういう私情を仕事に持ち込まない人だと信じているので、こちらも社会人として真摯に対応するのみである。
『人として』はどうでもいい。働きを認めてくれれば。てるにとってはそれだけが価値のあることだ。
・~*~・~*~・~*~・
可愛い甥っ子とたくさん遊んで癒された週末が過ぎ、またいつもの仕事の日々が始まる。
「多佳子さん、これを資料室に戻してくれますか?」
耳に響く低音が聞こえ、てるは顔を上げた。
てるのデスクとは反対側に赤家が来て、多佳子に頼んでいるのだ。
赤家は敬語がデフォルトだ。それは立場が赤家より上でも下でも変わらない。
ただその敬語は、丁寧で優し気と言うより、少し冷たく聞こえる。敬語にすることで相手と距離を取っているのかもしれない。
資料室と聞き、てるはつい横から口を出してしまった。
「課長、私今から資料を取りに行くところなので、一緒に戻しておきます」
赤家はてるの方を見る、が、目は合わない。
「では、お願いします」
そう言って、資料を多佳子の机の上に置いていく。
手を伸ばせば、てるに手渡すことくらい簡単なのに。
いつものことだしと、特に気にせず資料室に行く。
資料室は、別名『魔窟』と呼ばれている。
今でこそデータの資料も多くなったが、紙の資料も未だ多く、しかも整理整頓がきちんとなされていない状態で次から次へと増えていくため、資料1つ探すのも大変な労力なのだ。
課長から預かった資料をしまい、頼まれた資料を引っ張り出す。
いい加減、ここの整頓を本腰入れてするべきだと思う。
「いったー!」
足元に置いてあった資料に気付かず、つまづいて膝を打ってしまった。
てるはよく転ぶ。打つ。怪我をする。だからこんなことは日常茶飯事。
それ故、足はいつでも痣&怪我だらけだ。
二課に戻ってくると、ちょうど午後の休憩時間だった。
「コーヒー飲みたかったので、二課の皆さんの分も入れちゃいました~」
可愛らしい声とともに、コーヒーのいい香りがあたりを包み込む。
一課の佐藤麻里瑛が、二課に堂々と出入りしている。麻里瑛は休憩時間と男性社員へのアピールチャンスを決して逃さない。だから、隣の部署であるはずの麻里瑛は同じフロアのこちらにまでコーヒーを持ってくるのだ。今のターゲットは赤家課長だとか。しかし社長の親戚と言う噂から、他の女子社員からの手出しはないらしい。
今日も女性らしい、ふわんとした袖のトップスに、細かなプリーツが入ったスカート。パステルカラーがとても似合っている。
「はい、赤家課長も」
「・・・どうも」
麻里瑛はにっこりとした笑顔つきでコーヒーを置く。
新入社員であれ、有名課長の【女嫌い】のうわさは聞いていると思うが、それでもアプローチするのはなかなかガッツがあるだろう。
「あ、てるちゃん、この書類なんだけど」
「え、あ、なんですか?」
コーヒーを飲むためにマスクを下ろした赤家をちらっと見ていたてるは、多佳子が差し出した書類の位置を見誤った。
しゅっと音が聞こえ、指先にピリッとした痛みが走る。
「あ」
「ご、ごめんてるちゃん!大丈夫?」
動揺して落ちた紙は、ふわりと舞って課長のデスクの近くに落ちた。
「大丈夫ですよ、ちょっと切れただけです」
多佳子に言い、落ちた資料を取りに行く。しゃがんで拾うと、すぐ近くに人の気配を感じた。顔を上げると、目の前には赤家がいる。
それはそうだ、ここは課長のデスクなのだから。近くにいて当然。
しかし、赤家はいつの間に、しゃがんだのだろう。もしかして、資料を拾おうとしてくれたのだろうか。それにしては、近くないだろうか。
いつにない接近に、てるは心臓が早打ちするのを感じた。
いつの間にか、赤家はてるの手を握りしめていた。
そしてそのまま、切った指先を自分の口許に持っていく。
彼の赤い舌が、傷口に這わされる。
「・・・足りない・・・」
その小さなつぶやきが耳に入った瞬間、てるの体は宙に浮いていた。
「!?」
人間驚きすぎると、逆に声が出なくなるものらしい。
いわゆるお姫様抱っこで、てるは運ばれているようだ。見慣れているはずの社内の景色が、いつもと違う角度で流れていく。
しばらく進むと、人気のない場所についた。
ドアが閉められ、多少雑におろされたかと思ったら、そのままドア横の壁に押し付けられるように腕で囲われた。
「・・・くそっ・・・」
ただの悪態にしては重い響きのあるその声に、てるは答えられない。
いつも冷静で表情の変化が少ない顔が、今は少し赤い。真剣で鋭いその目は熱を帯びており、てるは目が離せない。
その間にも、赤家の顔はてるに迫ってきていて・・・。
え、キスされる!?
どうしていいか分からずぎゅっと目をつぶったてるを襲ったのは、唇への優しい感触ではなかった。
「い・・・ったーーーーい!」