4日目
朝。ふかふかの座布団で寝ていたところをロボット掃除機がごっつんこして、目覚めも完璧だ。こう、ロボットとの触れ合いというのも、これはこれで心踊るものだと思う。撫でようとしたらオウチカエルされたが。
完璧な目覚めのまま優雅にお風呂をしていたら、チャイムがなった。なんとこの家、玄関にチャイムがついている。それだけではない。チャイムを鳴らしたら録画までしてくれるという。使い方はよくわかっていないが、未知のスゥパァテクノロジィである。
「はいはいほ〜い、っと」
まだ温まりきっていない体から盛大に水を振り落としながらごわごわするジャージに袖を通し、急いで表に出てみてる。が、誰もいない。ふぅむ。ちーちゃんあたりが訪ねて来たかと思ったのだが、通りには犬を散歩させてるご婦人がいる以外に、痴女っぽい姿は見えない。犬は犬で、ポチやタロウっぽい犬ではない。もっと、こう、なんというかジョセフィーヌっぽい。ジョセフィーヌっぽさを振りまきながら歩いている。おはようジョセフィーヌ。
ふとドアノブを見ると昨日行ったスーパーのビニール袋が掛かっていることに、ようやく気付いた。
「昨日はなかったよな?」
中を覗いてみると、柿、栗がいくつかと、何かの葉っぱ、そしてきっと釣り上げられてそう時間の経っていない魚の姿があった。
そういえば冷蔵庫があるといいかもしれないな、なんて思いつつ、ガスで火あぶりにした魚を朝食にした。かがくのちからってすげぇ。ガスが止められてない家ってすげぇ。
焼かれた魚を食べて気分を良くした俺は、今日の予定に思いを馳せる。
とくに予定、なし! 真っ白だ。思いを馳せる必要、なかった。
それにしても、やりたいことって、こんなに思いつかないものだっけ?
俺には諭吉たちがいる。諭吉達の力を合わせれば、わりとなんでもできるはずだ。でも、なぜかやりたいことが浮かんで来なかった。
首を傾げつつ、やることもないので大学に顔を出してみることにした。
俺だよ!
数日ぶりのマミーだよ!!
大学の門をくぐり、講堂をぶらぶらし、食堂をぐるりと巡り。
こうして見ると、誰も、何も変わらないように見える。喫煙禁止の看板の下でタバコをふかし、笑い声をあげる者たち。バイクがほしい、カノジョとライブ、バイトだりぃ。皆、変わらない。変わったのは俺ひとり。死んだのも、俺ひとり。たぶん生き返って諭吉まみれになってるのも、俺ひとり。そっと首に触れてみても、そこには継ぎ目っぽい感じはない。
話しかけてくる者も、こちらから話す者も、いない。なんのために大学に来たのだろう。ただ来ただけで、やることなんか、ない。いや、授業に出ればいいのか? それも、なんだろう。面倒だ。
人のいない、小ぢんまりとした図書室を巡り、なんとなく救急医療の本なんかをパラパラとめくってみちゃったりなんかしてみたりする。明日はなんかすごいものが降るかもしれない。UFOとか。自慢じゃないが、ほとんど本なんて読まないからな!
こんな大学ではほとんど誰も読まないのだろう、新品同様に綺麗な本のページをめくる。人工呼吸のやりかた、心臓マッサージのやりかた。どこにも首と胴体が離れた人間の蘇生方法なんて、載っていなかった。俺は一体、なんなんだろう。このやる気のなさは、なんなんだろう。
諭吉ならあるのに、ひとしきりパァッとお金を使ったあと、とくに何がやりたいのかが、わからなくなってしまった。
結局、大学で何もやりたいことは思いつかず。
ぶらりとどこへともなく向かった足は、公園へと辿り着いていた。
いったい、なにをやっているんだろう。なにがやりたいんだろう。
これからのことなんて、ゆっくり考えたこと、なかったかも。
大学を出て、働いて。
そもそも大学だって、何がやりたいからというわけでもなかった。みんな行くし、働くの嫌だし、それだけ。ただそれだけだった。
俺の頭は、そう、そんなに良くはない。なら、できることも、稼げる額も知れたものだろう。きっと、死ぬまで働いたところで、ちーちゃんにもらった諭吉たちを超える金銭は、一生しんどい思いをして働いたって、たぶん稼げない。
じゃあ俺は、なんのために生きているのか。
死なないために生きているのか。寿命のぶん生きる必要ってのは、一体なんなのか。
公園のベンチでひとり、鳩を眺めて。いつの間にか、うとうとしていたらしい。
こどもたちが遊び回る声が聞こえる。超必殺なんとかビーム。公園で必殺技を使うのはいい。だからお店では絶対に使っちゃダメだぞ、おにーさんとの約束だ。
「んん〜っと、おお?」
そんな、無邪気に遊びまわる声で目が覚めた俺が伸びをしていると、公園を突っ切り、涙を湛えた女子高生が走っていくのがちょうど目に止まった。
鞄も持たず、唇をきゅっと歪めて。二本に結んだ髪を振り乱して必死に走っていく。目があった。昨日の女子だ。
そしてたぶん、今朝うちに魚を置いてった、その女子だ。
「紳士のおにーさん! わたし、わたし、どうしよう……!!」
女子はついに涙が欠壊してしまったようで、崩れ落ち、ベンチに座る俺の前で膝をついた。子供を遊ばせていたおばさま方が、こちらを見て口々にひそひそやりだす。なんだよ、紳士のおにーさんだぞ。
「おち、おちつ、おつつけ」
「えぐっ、ぐすっ。おにーさんが落ち着いてっ!」
大粒の涙をぼろぼろと零しながらも、鋭いツッコミが返ってくる。
心なしか、おばさま方のひそひそが強まっている。ちょっと男子ぃ、女子泣いちゃったじゃん〜、という幻聴が聞こえるようだ。マミーは女子の涙に弱い。帰りの会で糾弾された経験があるもののサガというやつだ。
「それで一体、なにがあったんだよ」
「ひぐっ……おかあさんがっ、おかあさんがっ……!」
要領を得ない女子に手を引かれ、そのまま公園を離れ、住宅街へと連れ去られる俺。おばさま方の目線がスゴイ。ひそひそもスゴイ。でもしょうがないじゃないか! 泣いてる女子の手を振り払うなんて、俺にはできない。
やがて到着したのは、小さなアパートだった。
外観は若干傾いている気さえする。どこかで幼子の泣く声も聞こえるな、と思っていたらそれが女子の家だった。
「うっ」
軋んだ音を立てて開いた扉の向こうは、玄関口に積まれたゴミ袋、暗い室内、郵便受けから覗く家賃滞納への怒りのチラシ。
なんだろう。胸が詰まるようだ。悲しみのせいか、それともひどい匂いのせいかもしれないが。
「おかーさん!!」
靴を脱ぐのも煩わしいとばかりに、女子が転げるように家内に入っていく。
薄暗う室内の幼子が号泣する傍に、蹲ったまま動かない女性の姿があった。やせ細った、小さな背中。
女子はその背中を強く揺するが、女性はなんの反応も返さない。
ぶわっと嫌な汗が吹き出る感覚。
「と、とにかく救急車!」
玄関口にある電気のスイッチを押してみても、部屋の明かりはつかない。電気が止まっているのかと察して、ポケットから携帯電話を取り出すと110を素早く入力。
待つことなく、電話はすぐに繋がった。
『警察です。事件ですか、事故ですか』
「間違えました!!」
ほんとに間違えた。いたずら電話じゃないんで逮捕は勘弁してください。
今度こそ119を正しく入力し、電話を女子に投げて渡す。
「救急に電話した、ここの住所わかんねぇ! あんたが伝えてくれ!」
びっくりした顔をそのままに、こくこくと小刻みに頷く女子の側、蹲ったままの女性の様子を見てみる。
中学か高校生くらいの女子が母と呼んでいるのだ、それなりの歳ではあるのだろう。が、やせ細り、薄暗い室内でも顔色が最悪でマジヤバなことがわかるくらいにはヤバい感じになっているマジヤバイ女性は、見た目から年齢がマジヤバくわからない。
俺の背中をじっとりとした嫌な汗が伝う。公園で眠る少し前に見た記憶が呼び覚まされた。
図書館。新品同様の本。――救急医療。このとき、俺の脳内はこれまでにないほど冴え渡っていた。
呼吸、なし。脈、あるかないかわからない。
「このへんにAESはないか!?」
「共通鍵暗号アルゴリズム!? なんで!? ないよ!!?」
「ふえぇぇぇぁぁぁああああ、ぇぇぇぇえええ〜んん!」
真横の幼子の鳴き声にも負けじと女子が声を張り上げて応える。
それを取り付けてスイッチを押すだけとかいうお手軽装置があるらしいのだが、ないなら仕方ない。
あとやること、ええと、ええと! 気道確保、心臓マッサージ、人工呼吸! さらば俺のふぁーすときっす!
「ごぶっ、ごふっ――!」
「おかーさん!」
「ふえぇぇぇぇえええ! かぁたん!!」
何度目かの圧迫のあと、女性は勢いよく咳き込んだ。
すかさず、女子と幼子が両脇に縋り付く。
ちょうどそのタイミングで、サイレンを引き連れて救急車が到着した。
どかどかとやってきた救急隊員は手早くタンカを運び込むと、まだ意識のない女性を手早く乗せていく。
てきぱきと女性を運んでいく救急隊員を、不安な表情で見守る子どもたち。
「ご家族の方?」
「いや、通りすがりの紳士です!」
俺がこの場での一番の年長者だということで声を掛けられたのだろう。
びっくりして叫びかえした内容に、救急隊員は困惑した。ええい、一番の年長者だからといって一番話が伝わると考えた、うぬが不覚よ!
「えっと、あの」
「紳士さんは! 紳士さんなんだよ!!」
困惑する隊員に、涙を拭いつつツインテール女子が追撃を加える。隊員はさらに怪訝な面持ちとなった。
ようやく搬送された病院。
そのベンチに腰掛け、処置の終わりを待つ。
「……ありがとう、紳士さん」
泣き叫び疲れて眠ってしまった幼子に膝枕しながら、制服姿のままの女子は礼を述べた。
「紳士さんがいなかったら、きっと……」
言葉を詰まらせ、少女は俯く。
小さく肩が震えていて、掛ける言葉に戸惑う。
諭吉はこういうとき頼りにならない。パーフェクトコミュニケーションを連続選択できる力がほしい。
仕方がないので、ああ、とか、うう、とか、いぇぁああ! とか、それらしい意味のない相槌を打つ。
焦りと不安と疲れを滲ませていた少女が、堪えきれなかったというように、ぷっと吹き出した。
「あのね、紳士さん。私、優華。志乃優華。中学三年生」
隣に腰掛けているので、少し低い目線の彼女は俺の目を見上げるように、自分の名を名乗った。
思えば、ほとんど見ず知らずの他人なのだった。救命活動に必死で、そんなことを気にする余裕なんてなかったということにようやく思い至る。
「こっちが妹の華奈。よんさいだよ」
すよすよと小さな寝息を立てる幼子の頬を撫でながら、ユウカ。
聞けば、この子が泣き喚き続けるので、すぐ横の民家に住む大家がユウカの学校に連絡――半ば苦情のような――を入れたという。
異常を察したユウカが急いで帰宅するところで、近道のために公園を突っ切ったことで、この『紳士さん』と再会を果たすことになったのだ。
縁とはどこで繋がっているかわからない。振袖合いはすれ違い通信、とはよく言ったものだ。
「俺は、」
そして、俺もいつまでも『紳士さん』というのもちょっとだけ気恥ずかしい。
だって、ほらあちらこちらを慌ただしく歩いていく看護師さんたちが、ちらちら見てくる。いやん。
だから、いい加減名乗ろうとした――が、それは不発になった。ユウカの母が運び込まれた部屋の扉が開き、医師が手招きをしたからだ。
「ご家族以外の方は、ちょっと」
名乗るタイミングも逸してしまい、不安げにこちらを振り返るユウカを見送る。
椅子に降ろされたことでうっすらと目が開いたカナちゃん(よんさい)に手を振ってみると、椅子一個分横に逃げられた。
部外者な自分がいても、余計な気を使わせるだけか。
もう病院についたのだから、俺にできることなんて何もない。
ここらが、ちょうどいい引き際ってやつなのかな。紳士さんは紳士さんのままクールに去るぜ。よっこいせ。
立ち去るべく椅子から立ち上がったこちらを、カナちゃん(よんさい)はまん丸な目で見つめてくる。
なんとなく目を逸らしたら負けな気がして、ちょっと変顔をしつつ見つめ返す。
じぃー。
「……」
じぃー。
「……」
いかん、目が乾いてきた。
よんさいの目は大きく、俺よりも先に目が乾くはずだ。耐えろ、耐えるんだマミィー!
「あ、むり」
だめ。もうほんとだめ。
普段からそんなに目を見開いき続ける必要に迫られたりはしないので、容易く乾きに耐えられなくなった目は自然と瞬きをしてしまった。
敗北感に、がっくりと膝をつく。
項垂れる俺に、カナちゃんのきゃっきゃと弾んだ声が降り注いだ。
そうこうしている間に、また俺は立ち去るタイミングを逃したことを知る。
「そんな!? なんとか、なんとかならないんですかっ!? おねがいです!」
黒髪ツインテールの中学三年生、ユウカの叫びにも似た声が扉の向こうから響く。
そこから出てきた医師に追いすがるようにして、ユウカは再び半泣きになっていた。
「そうは言ってもねぇ。ウチじゃ手に負えないんです。これ以上の検査ができる機材がない。
もっとも、保険にも入っていないんじゃあ、ウチじゃなくともできることは……おっと」
「でもっ!? お願いです、お願いします。おかーさんを、おかーさんを……助けて……」
「だからウチでは無理なんですってば。
ほら、あの須湖居病院や竹栄病院ならいいんじゃないですか」
「その病院へ行けば、おかーさんは助かるんですかっ!?」
「ウチよりは可能性が高いだろうね。
山を2つ超える必要があるし、まあそれまで持つかわかりませんが」
縋り付くユウカがいい加減邪魔だった様子で、歳老いて頑固そうな医師は軽薄な笑みを浮かべて、そのまま立ち去ろうとする。
へなへなとその場にへたり込んでしまったユウカは、カナちゃんと変顔合戦を繰り広げていたこちらを真っ白な顔で見上げ、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「おい」
「まだ何か?」
俺の横を抜けようとする医師を通せんぼすると、明らかにムッとした顔をされる。
「その須湖居病院ってトコに連絡しとけ。今から行くってな」
「紳士さんっ……!」
こういうときこそ諭吉の出番。人を幸せにしてこそ、福沢というものだ。
俺は携帯の閲覧履歴から、『セレブ御用達』のページを手早く探し出すと、ヘリコプターをチャーターするサービスへと躊躇いなく電話を掛けた。
マミーのキャラぶれがなんとも激しい。