0日目
不定期連載、4話くらいで完結予定です。
長期連載の息抜きで書いたときに更新します。
主人公はバカです。
「遅刻遅刻ーッ!」
今時聞かないそんなセリフを認識したのを最後に、俺は死んだ。
夜の防波堤だ。こんな時間に遅刻とは、どこに行く気だいマドモアゼル。だなんて考える間もなく俺は死んだ。完膚なきまでに死んでいた。即死だ。
なにせ頭が首から落ちた。首が落ちて死ぬ場合、自分の首から下の姿が一瞬見えるという新発見をした。この発見を誰かに伝えたい気もしないではないが、残念ながら俺の携帯電話は林檎マークのすごいやつではなくパカパカする昔気質のやつだ。硬派なのだ。
胴体と頭がさよならバイバイ状態では写真すら取れない。残念だ、林檎マークのやつだったら撮れたのに。たぶん。
あ、でも写真撮っても見せる相手がいねぇや。死亡なぅ、とでもやるしかないのか。さすがに林檎マークのすごいパカパカしないやつでも、なぅの使い方を覚えてる時間はなさそうだった。
そしてこの物語は終了だ。残念ながら店じまいだ。人間は誰だって自分自身が主人公で、その主人公が死んでしまえば、物語は終了なのだ。
俺の短い人生は終了で終焉で終末を迎えたのだ。完。
「あのぉー。もしもーし、聞こえていますかぁー」
事故を起こした相手方だろうか。
この場にそぐわない、若干間延びした呑気な声が死体となり終了した俺に浴びせられている。
聞こえているが、死んだ人間に話しかけると変な子に思われる。可及的速やかにやめたほうが良いよ。
人間だけでなくゾンビすら、首が胴体から離れていたら死ぬんだから。いや、ゾンビって元から死んでるのか? どうなんだあれ。死んでからわからないことが増えるというのは、なんとも気持ちの悪いものだ。死んでまで気持ちの悪いのは嫌だなぁ。死後さばきにあう、というのはこういうことだったのか。
「っかしーなー、首も魂も、ちゃんと繋いだんだけど。
これ以上問題起こしたら最悪クビだよ、勘弁してよもぉー」
そりゃ奇遇だな。俺もこんなところで死ぬ予定じゃなかった。ぶっちゃけちょっと勘弁してほしいと思ってる。
白ご飯とモヤシだけの食卓に彩を加えるために、夜釣りに繰り出していただけの善良な苦学生、それが俺だ。俺だったものだ。
クビが飛ぶってんなら、仲良くお揃いってやつだろう。
それにしても、首が飛んで、即死して、こんなに意識ってのは残るものなのか。
もしかして、俺ってば地縛霊ってやつになっちまったんだろうか。
嫌だなぁ、地縛霊。何が嫌って音の響きが嫌だ。なんか爆発しそうだし。
「えいっ」
ふに。
俺がつらつらと高尚なことを考えているのもお構いなしに、ふいに柔らかい何かが頬に触れる。
「えいえい」
ふにふに。
「ええい、人の頭をふにふにふにふにと!
俺の頭を低反発まくら扱いしていると、あれだ! 怒るぞ!」
「ふわぁっ!」
低反発まくらではないという矜持のもと、高反発してやった。どうだ。
叫ぶと共に体を起こすと、俺の頭をふにふにしていた謎の存在が、勢い良く転がり落ちていく。肌色が、でんぐりでんぐりして停止する。
「あたたた。なんだよもー。なんなのよもー。
——あー、でもよかった。ちゃんと生きてるねー」
「え、あれ。俺死んだんじゃないの?」
謎の声の言うように、俺はどうやら生きているらしい。
首は胴体と繋がっており、ちゃんと声が出る。ハローハロー。
ぺたぺたと首を触っても傷らしきものすらなく、服もズボンも血痕一つ残っちゃいない。
ざざーん、ざざーんと寄せては返す波の音が聞こえ続けているので、異世界転生したとするなら海辺スタートらしい。やべぇ、初期パラメータ何に振ろう。
「あー、えーっと、うん。チッ、覚えてるか……。
死んでたね! めんごめんご」
俺の疑問に応えたのは、先ほどから聞こえていた声だ。若い女のような、声。
そして軽い。人の死がスナック菓子のように軽い。ピザポテト万歳。
言うなれば、この声は神か。いや、女なら女神というやつか。この声の主が俺を殺して異世界転生させたやつなのか。魔法は風と光の二属性でお願いします。
「あんたは……えっ」
なんの気なしに、ごろりんと転がっていった女神と思しき存在をちらりと見た俺の視界に飛び込んできたのは——痴女だ。痴女がおる。女神どころじゃない。あかんやつだ。あかんやつだぞこれ。
身長はさほど高くない。そうだなぁ、俺の見立てだと120センチから180センチの間ってところ。
浅黒い肌に、真っ黒にぴっちぴちのボディスーツのようなものが太もも、下腹部、胸、あたりのぎりぎり年齢制限が課されそうな部位を際どめに覆い隠しており、それ以外の部分は完全に剥き出しだ。寒そう。
肩も小ぶりな下乳も横乳もおへそも全開で、実にお腹が冷えそうだ。それに、目のやり場に困る。俺は紳士なので、ガン見するが。先ほど落とされたばかりの首をフル活用して、できる限りガン見するが。
ふわりと靡くウェーブがかった赤紫色の髪と、同じ色の痴女の目が、俺の方をちらりと伺っては逸らしてを繰り返す。
名乗られていないので何者かは依然としてわからないが、痴女のちーちゃん(仮名)ということにしておく。
「それで、ちーちゃんは俺に一体何の用なのかな?」
「あー。まだちょっと頭が不調っぽいなぁ。うーん、うーん。
まあいいっしょ、生きてるし。うん、個性の範疇、個性の範疇。
いけるいける。がんばれ、アタシ。まだ帳尻は合わせられる。負けるな、アタシ」
「おーい、もしもーし」
ちーちゃんはひとりでぶつぶつ言って、ほぼ丸見えのお尻をくねらせる。寒そう。
「アナタこそ、こんなところで一体何をしてんのよ。自殺の名所らしいよ、ここ」
「何だかんだと聞かれたら!」
高らかに宣言したら、ぽかんとした顔をされた。
答えてあげるのが世の情けだと思っていたのだが、残念ながら世界は非情だった。世知辛い、のじゃぁ。
最近の若い娘は過激なカッコをしつつも、ものを知らないとみえる。
ごほん。
「自殺の名所?
どおりで餌つけてなくても魚が釣れるわけだ」
ドーモ、いつもお世話になっております。苦学生です。
どうやら俺は異世界に転生したわけではないらしい。死に損である。あたりを見渡してみると、よく見知った防波堤、その先端部分だった。
ここはよく魚の釣れる穴場なのだ。
俺の住んでる、いい具合にボロけったアパートからも、けっこう近くて便利ときた。
しかも、いつもほとんど人がいない。もし他に人がいても、俺を見るとそそくさと帰っていってしまうことがほとんどだった。
ごく稀に、高校生くらいの女子がいたりして、話し掛けるでもなく一緒に釣りをして、ぺこりと会釈をして帰って行くことが何度かあったくらいである。今時珍しい二つ括りの黒髪で、俺の中ではロップイヤーと呼んでいる。
そして今日はいつも通りに先客も後客もおらず、一人夜釣りを楽しもうとした矢先の、『遅刻遅刻〜』による突然の死! であった。
「ほら、これ」
俺は、すぐ側に落ちたままになっていた愛用の釣竿をかかげて見せる。
山で拾った手頃な木の棒に、釣り場に落ちていた針と糸を括り付けたお手製の相棒。こいつで三代目だ。
三代目釣り人ブラザーズの初代は折れ、二代目は波に攫われジョニーになった。死んだ俺が言うのもなんだが、どこかで強く生きていてほしい。
「そうだ、俺、死んだよな?」
「え? またそれ? さっき答えたよアタシ!?
ハァ……本格的に頭がアレしちゃったかなぁ」
ちーちゃんは失敬な痴女である。頭の上でくるくる、と指を回すジェスチャーをしやがる。
俺は元々こんな感じの紳士であるし、小さい頃から『やればできる子なのに』と言われて育ったのだ。Zランクの大学に通う今でも、道理はわきまえている。
ちなみにZランクとはFランクを遥かに超越すると地元で恐れられていた大学で、そこに通う者たちはZ戦士として畏怖されていた。今では俺もそのひとりというわけだ。死んだけど。
「Z戦士の末席を汚すこの俺を倒すとは……」
「あー、あー。何言ってんのかわかんなーい。わーかーんーなーいー。わーかーりーたーくーもーなーいー。
——要件だけぱぱぱっと言うね。
ちょぉーっと事故って、事故があって、事故に巻き込んで、アナタは死んだ。
首が飛んだ。そして死んだ。ここまではOK?」
「オフコース」
ちょっと今の返し、紳士的で頭良い感じがしたんじゃない?
痴女のちーちゃんもびっくりしちゃったんじゃない?
しかし、ちーちゃんは動じなかった。心なしか、つとめて反応しまいとしているようにも見える。
ちろりと犬歯の覗く、ぷりてぃめな口の端がぴくぴくと痙攣しているように見えるので、反応を殺し切れてはいないが。体は正直だぜぇ、ってやつだ。
「それをアタシが繋げて、魂も繋げて、アナタは生き返った。
これもいい?」
「いいですとも!」
一言で反応を隠すのを諦めたらしいちーちゃんは、頭痛がするかのように、軽く頭を押さえる。ウェーブがかった赤紫の髪が揺れた。大丈夫か、ちーちゃん。
生き返っといてこんなに手応えない相手は初めてだよ……と呟く声が力無い。なるほど。痴女のちーちゃん、俺が初めての相手、ってわけかい。そういうのはアレだよ、もうちょっと段階を踏んでからのほうが俺はいいと思うね。
俺の内心を知ってか知らずか、ちーちゃんは続ける。
「そんでまぁ、メーワクかけたわけだし、アタシも鬼ってわけじゃない。悪魔だし。
きちんとスジを通すつもりだよ」
「え、いまなんでもって言った?」
「言ってない、一言たりとも言ってない」
言ってなかった。
ちーちゃんは痴女だがツッコミはしっかりこなすタイプらしい。
「ますます気に入った!
ちーちゃんは次に『なんでもしますからぁ』と言うッ!」
「ちーちゃんじゃないし、言わないし」
言わなかった。
ちーちゃん(ちーちゃんじゃない)は痴女だがその場のノリには流されないタイプらしい。
「うそでしょ……話が全然進まない。
なんなのこの人間……」
「俺は桐常雅臣だ!
親しい者は俺のことを敬愛を込めてマミーと呼ぶ!」
なお親しい者などいないので、呼ばれる場合はもっぱら桐常だし、そもそも名前を呼ばれることなどほとんどない。たまに水道代払えってお手紙が来る。電気はすでに止まっている。ガスは動いていたことがない。
「そりゃご丁寧にどーも。でもお生憎様。人間には興味がないの」
未来人とか宇宙人なら興味があるのだろうか。
気取ったふうに返されるが、俺は一向に気にしない!
「ちーちゃん、あんたの名は?」
こちらが名乗ったのだ。
ちーちゃんも名乗り返してくれるものだと思ったのだ。
「ちーちゃんじゃないっつぅの。どっから出てきたのよちーちゃん。
ごめんなさいね、悪魔はそう安易に名乗らないのよ。——契約に縛られるからね」
「あ、悪魔……?」
「そうよ? 悪魔。あ・く・ま。
人を生かすも殺すも思いのままの、本物の悪魔なのよ、アタシ」
「つ、つまり……」
「あら。今さら生き返った実感がでてきたのかしら?
随分とタイムラグがあったものだけれど」
くすくす。
悪魔と名乗ったちーちゃんは、妖艶に目を細めて体をくねらせる。ぷっくりとした赤い唇に指を艶かしく這わせ、どことなく切なげな甘い吐息を洩らし。
ほとんど厚みのない胸が、黒いぴちぴちスーツ越しに控えめな主張をしている。紳士的にガン見する。
ごくり。俺は生唾を飲み下し、恐る恐る問いかける。
「つまり……痴女のちーちゃんじゃなくて、悪魔のあーちゃんだった……?」
「ちょっと待って。待って。――待って。待ちなさい。
アタシ、なんでちーちゃんなんて呼ばれるんだろうと思ってたけど、思っていたけれど。
まさか痴女から取ったものだったの!? あと悪魔と対面しておいて驚きポイントがそこなの!?」
ちーちゃん(あーちゃん)はつっこみが忙しそうである。悪魔というのも大変な職業なのだろう。
ちーちゃん(あーちゃん)は『我慢、我慢よアタシ。挽回の芽はまだあるわ』なんて虚空に向かってぶつぶつと呟く。
黒々として寄せては返す波だけが、彼女に返事を返すけれど、俺同様なかなか寂しい娘なのかもしれない。優しくしてあげようと思う。
「いやまぁそれはどうでもいいんだよ、ちーちゃん。
スジを通すってのは、結局何をどうするつもりなんだ?」
「えっ。けっきょくちーちゃんで行くの!?
痴女呼ばわりを続けられるのはさすがに堪えるのだけれど!?」
「だって名乗ってくれねぇんじゃしょうがないだろ。
それより話が進みやしねぇ」
「アナタにそれを指摘されるのはすごく心外だわ!? 心を持たない悪魔でも心外なのだわ!」
心を持たないとか言うわりには、ちーちゃんはすごく心のこもったつっこみを毎回放っているように思える。
あれか、中二病の痴女ってやつか。つよいな。属性盛りすぎじゃねぇか?
「はぁ……。エルミナよ」
「なにが?」
「なにが? じゃないわよ。なんなのよそのアホ面。ばかぁ。
――コホン。これは、アタシが名乗る必要があるときに使う仮の名よ。
仮の名だから契約に縛られることはないけど。ないけれど。
それでも滅多に名乗るもんじゃないんだけれどね。痴女呼ばわりされるよりはいくらかマシだわ」
「わかった。よろしく、エガちゃん」
「エルミナだっつってんでしょ!? ガはどっから出てきたのよガは!!」
拳を握りしめ、ゼハーゼハーと肩で息をしながら、ちーちゃん(エルミナ)は渾身のつっこみを放つ。
そのたびに、ふよんと慎ましやかな胸が揺れるのだが、俺は紳士なのでガン見をする。あくまでも紳士的に。悪魔でも紳士的に。
冷却タイム。
一旦、ちーちゃんを落ち着かせるためにカップに掬った水をすすめると、『ありがと……』と意外にも素直に受け取ったちーちゃんは、一口飲んで吹き出した。
「海水じゃないのよこれ!?」
「そりゃまあ。ここをどこだと思ってるんだ。――海だぞ?」
「いきなり海の水手渡されたなんて思うかぁーッ!
うぅっ。人間めぇっ……すぐ死ぬくせにっ……マミーのくせにっ……」
「俺のこと――マミーって呼んでくれたのは、あんたが初めてだぜ――」
「『親しい者はマミーと呼ぶ!(キリッ』ってのはなんだったのよぉー!! ばかぁ〜!!」
できる限りのいい笑顔とサムズアップで応えたが、ちーちゃん的にはお気に召さなかったらしい。
それにしても、この短時間で親しいなんて思ってもらえるなんて。感無量だ。人間に興味なんてない、だなんて言っていたのに。ほろり。
愛称で呼んでもらうと、相手が痴女でも嬉しいものだというのは新たな発見である。
「ぐすっ……いいもん。ばかぁ。もう、いいもん。はなし、進めるもん……」
ちーちゃんは半泣きになってしまった。
俺も感極まり半泣きであるので、お揃いだった。
もう一度、冷却タイム。
もう二度と、ちーちゃんは俺からカップを受け取ろうとはしなかった。
「契約よ、マミー。悪魔の契約」
「え、でも俺、魔法少女としてやっていく自信はないな。あ、でも魔法は光と風の二属性で頼む」
申し出は嬉しいのだけれど、俺はノーと言える日本人である。
「誰もそんなこと求めてない。需要もないわ。しかもお茶の間が凍りつくわ。しかも何なのよ、さっきからその拘りは。
あくまで契約って形にしないといけないからってだけで、実質慰謝料支払いの申し出よ」
ちーちゃんが腕を振ると、どこからともなく銀色の大きな鞄が出現した。
ちーちゃんの体の半分以上の大きさだ。つまりでかい。そして……えーと、大きい。
そこからちーちゃんは何かを取り出すと、それを目の前に広げて見せた。
お金だ。紙でひとくくりに束ねられた福沢諭吉だ。それが、3組。
「ひゃっほい」
「わかりやすく現金ね。
目の前でいきなりケースを取り出したってのに、動揺すらしないなんて。
やっぱりどっか頭やっちゃったかなぁ」
「そりゃまあ現金だし、現金にもなるね」
世の中、お金が全てじゃない。
それでも、お金で解決できることは多い。
お金は、お金で解決できないことに専念するために使えばいいのだ。みたいな標語を、バイト先の居酒屋のトイレで見た覚えがある。ちなみに意味はわからない。
「これ、アナタにあげるわ。
ただし! さっきも言ったように、あくまで契約って形にしないといけないの。悪魔だから」
「いいですとも!」
二つ返事で引き受けると、ちーちゃんは顔を真っ赤にしてむきーっと怒った。
「最後まで聞きなさい! ばかぁ〜! アタシには最後まで説明する義務もあるの!
――だから、使用には条件が付くんだけど。この300万円、一週間で使い切ってね」
「使い切れないと、どうなる?」
「アナタの寿命が減るわ」
簡潔だった。簡潔に完結した。
ちーちゃんが詳細に語ったところによると、こうだ。
一つ。期間は一週間。
二つ。諭吉300枚、使い切れなかった1枚につき、寿命から1年減らされる。これは期間を終えたタイミングすぐに発動する。23:59ではなく0:01でもなく、一週間後の0:00きっかり、ちょうどに発動する。
三つ。使わないとダメ。所有権を移すのが肝要。たとえばそこらへんに置き去っただけじゃ所有権は移ってないから、そのまま誰も拾わなければ、手放していても自分の寿命が減る。
四つ。分散して使うことをおすすめする。俺の手から離れても諭吉の魔力は有効だから。
「まあそういう性質の魔道具だと思ってよ」
「まどーぐ?
あ、あれか。ゆどーふ的な」
「一文字たりともカスってすらいないわ。
あれ、この世界、魔道具ないの? そんな未開なとこになんでアタシが……。いやいや、泣き言を言うんじゃないわアタシ、頑張れアタシ。
こほん。一週間後、期間の最後に所有してる関係ない人の寿命が100年とか減っても後味悪くないなら、それでもいいけどねぇ。
分散して使えば、そういうのも防げるのよ。1年やそこら寿命が削れても、大したことないでしょ」
「そんなもんかー」
「そんなもんよ」
五つ。鞄を手に取った段階で契約成立とする、後から返すってのもできないからねー。
「だいたい、こんなもんかな。なにか質問は?
質問に答える義務もあるから、答えられるものに関しては答えるわよ」
「はいはーい」
「どうぞ」
「パンツ何色?」
「黒よ。次からは契約に関係のある質問にしてもらえるかしら!?」
ちーちゃんの浅黒い肌の、にっこり笑顔に、うっすら青筋が浮かぶ。
「その札束を俺に託すことで、300年分の寿命とやらはどのみち確保できるわけだな」
「ご明察。これを契約に基づいてバラ撒けたらアタシらはそれでいーの。それで損はしないのだから。アンタ、阿呆のわりに変なとこで鋭いわね」
「あァ――!? 誰が鋭いだって!?」
「怒るのはそっちなのね。もう相手すんの疲れてきたわ……。
言ったでしょ、契約だって。アタシたちにリターンがないようなことは、基本的にできないのよ。
まあアタシ個人からのゴメンネの気持ちとして、多少、イロは付けとくからそれで勘弁してよ」
問答してる間に謝意はかなり薄れたけれど、と続けて呟くちーちゃん。
謝意。謝罪。ゴメンネの気持ち。
事故で俺を殺してしまった、罪滅ぼしとしての契約。
鞄はジュラルミンケースってやつだ。知ってるぞジュラルミン。俺はお前を知っている。名前がなんかかっこいいからな。
それは、見るからにごとりと重そうだった。
「アタシがここに居たら受け取りにくい?
それとも悪魔の契約ってのが怖いかな。アタシら悪魔から君らにモノをあげるには魂絡めた契約って形にしないと、制度上めんどくてねー。
ほら、それに言うじゃん? タダより高いものはない、ってね」
ぺろんちょ、と舌を小出しにしてちーちゃんは笑う。
悪魔的な笑みというやつだ。でもタダは安いと思う。
「ゴメンネの気持ちってのにしては一週間って限定されるのか。
たとえば、一年とか、一ヶ月とかにはできないのか」
「うっ。そこは……ほらぁ、あれよ。あの、ね。
そこはその魔道具……いまは諭吉ってオッサンになってるものの特性っていうかぁー。
ほら、それに言うじゃん? 悪銭身につかず、ってね。こういうのはパパーッと使い切ってナンボのもんなのよ」
ちーちゃんの目が少し泳ぐが、それにあわせて胸も動く。
俺の紳士的な目線はそちらと、ほとんど丸出しのおしりに釘付けだった。
黒のパンツを穿いてるらしいが、ほとんど紐なんじゃなかろうか。
「死に方はどうなる?
ほら、悪魔なんだろ? りんごしか食べないみたいな死に方するのか?」
「なにそれ。まあ使い切りゃ問題ないって。
でもまー、契約に関する質問を受けたら正しく答えないといけないからちゃんと答えるとね。
普通に寿命が尽きて死ぬんだから、老衰がデフォだよ。
なんか希望があんなら聞こうか? 聞ける範囲でねー」
「おおマジか!
そりゃ助かる。
俺さぁ、死ぬときくらい目立って死にたいんだよなぁ。
こんな暗い海とかじゃなくってさぁ」
ざざーん、ざざーん。
寄せては返す、黒々とした波。
この堤防は、自殺の名所だという。
「ゴメンってば」
「ああいや、嫌味じゃあねぇ。
もし選べるなら、こう、ガツーンと印象に残るような死に方、あるだろ?」
「いやアタシそういう願望はないから」
ちょっとわかんないや。
ちーちゃんは首をひねる。胸が揺れる。ガン見する。
「そうなのか。悪魔ってのも案外常識ってやつに縛られてんのかね。ハー、世知辛い世の中だぜ」
「そんで。肝心の死に方っていうのは?」
「あー、んー。そうだなー、それじゃ、あれだ。自由の女神だ」
「なんそれ」
「知らんのか」
「こう、なんか本持っててさ、でかくてさ」
雑誌で見たことがある、例の女神のポーズを取りながら雑な説明を繰り広げる。
「なんかよくわかんないけど、そういう像がどっかにあんのね。それで?」
「突き刺してくれ」
「ハァ!?」
「自由の女神に、突き刺してくれ。
――できないか?」
「いやー、できないってことはないと思うけどぉ。意味不明っていうかー」
「考えるんじゃない、感じるんだ」
それが全てだ。
なにせ、自由の女神に突き刺さって死んだ人間なんて、今のところ居ないだろう。たぶん。少なくとも俺の知る限りでは、ない。とはいえ、俺の知るところはとても狭いけれど。
「なんかあのへんいま物騒らしくってさぁ。さいやく? だっけ?
こりゃ生きてるうちに行く事ぁねーなと思ってたところに、死んでからでも行く機会があるなら、いっちょ伝説作っときますかってね」
そもそも海を渡る金もねぇので、物騒も何も関係ないっちゃない。
いや、金なら今貰えんのか。
「なんかよくわかんないけど、あんたがそう思うならそうなんでしょ」
そう。俺ん中ではな!
「他に質問は?」
こめかみのあたりを押さえながら、ちーちゃんは俺に尋ねる。
心なしか、会話をはやく切り上げたいようにも見える。たぶん気のせいだろう。
「遅刻ってのは、もう大丈夫なのか」
「ん? 遅刻?
あぁー、うーん。まあアナタには関係ないんだけど……まあ関係ないのに殺しちゃってるからいまさらかな。
いちおう、目的の魂の回収は達したからいいのよ。片手が空いてたからアナタの魂も繋いどいたし」
「ほーん。悪魔ってのも大変なんだな」
「ほんとにまったくその通りよ。
なんでこんな片田舎に神名持ちが発現するやら……。こほん。
とにかく、アタシの仕事は問題を起こさずに指定の魂を持って帰る、それだけなの。アナタに余計な騒動を起こされるわけにいかないの」
なぜかジト目で見られる俺。
なんでだ。俺、悪いスライムじゃないぞ。
「簡単に人を殺せて、簡単に復活できるようなやつが、人の命? たましい? を気にするのはなんか意外だなぁ」
「そんな簡単ってわけでもないのだけれど。
仕方ないのよ」
はぁ……。
心底恨めしそうにため息をするちーちゃん。
「仕方ない?」
「そ。秋の安全強化月間なのよ今」
「安全強化月間」
悪魔にも、なんかいろいろとあるらしかった。
安全が強化されてなければ、俺は死んだまま魚の餌になってたのかもしれない。魚の餌になっては、さすがに林檎マークでも写せまい。
「も一個質問。
この鞄はどうすればいい?」
「この鞄は、そうね。まあサービスみたいなものよ。
現金を素手で持ち歩くのもちょっとヤでしょ。
それなりに頑丈で良いモノだからね、鍵も掛かるし」
見ると、取っ手のほど近くには黒い鍵穴があり、銀色の鍵が刺さった状態になっている。
「至ったり尽くったりだな」
「至れり尽くせりって言うのよ」
ちーちゃんが地面に置いた鞄。
銀色に鈍く光る、重そうな鞄。
ぽりぽりと頭を掻く。
ちーちゃんは動かない。
ただ、見ている。俺がどうするかを、見ている。
ようやく俺が鞄を手に取ると、ニヤリと口の端を吊り上げた――悪魔は、そのまま潮風に溶けて、薄くなって、消えた。
最初からその場には他に誰も居なかったように。まるで、蜃気楼のように。蜃気楼、見たことないけど。
「それじゃ、契約成立ってことで♪」
そんな弾んだ声だけを後に残して。
ぽつんと残された俺と、手に持つ鞄だけが、今のあっさりとした幕引きの光景が夢ではなかったことを教えてくれる。
「じゃあな、ちーちゃん。達者でな――」
なんとなくしんみりして呟くと、かなり遠くのほうで『エルミナだっつってんでしょぉー!? ばかぁ〜!』という声が聞こえた。気がした。
ちーちゃんが去ったあと、ちょうど良い鞄も手に入れたことなので、釣り糸を垂れること数十分。小アジが釣れた。
カップにぽいと押し込んで、防波堤を後にする。っと、いけない、ジュラルミンケースを忘れるところだった。
「よっこい――重ッ!?」
ちーちゃんがわりと軽々と持ち上げていたので油断していたが、ジュラルミンケースはかなり重かった。
腰が。腰が痛い。待てよ? 1円玉はちょうどぴったり1グラムだと聞いたことがある。ということは、300万円ともなると、1、10、100……なんてこった、30万グラム、つまり3トンくらいということではないのか。
米袋いくつか分である。そりゃ重いわけだ。
これを運ぶには本腰を入れる必要がある。少なくとも、片手に小アジの入ったカップを持っていては厳しい。
鍵をまわし、ジュラルミンケースを開いてみる。小アジを中に仕舞えないかと思ったからだ。だが。
「あれ、ちょっとこれ――多くない?」
ぎっしりぎちぎち、みっちみちにに詰め込まれた諭吉と目があった。今にも動き出して「福沢ァ!」とか言い出しそうで怖い。
――パタン。閉じた。
さすがの俺でもわかる。わかってしまう。
これは300万じゃない。300万がいっぱいだ。
イロ付けといたっていうか、これはむしろイロが本体なんじゃないか? というくらいに、大量の福沢諭吉が、にこりともしないで俺を見つめていた。
カップの中の小アジがびちびちと海水を跳ね飛ばしてくる。
夜の防波堤で、ジュラルミンケース。そして中身は札束がぎっしり。
怪しいか怪しくないかで言えば、ぎりぎり怪しい気がする。
片手に釣り竿。
片手にジュラルミンケース。
小アジは胸ポケットに詰め込んだ。びちびちされるし、シャツがしっとり濡れてちょっと気持ち悪い。
「帰るか……」
えっちらおっちら、ジュラルミンケースを担いで夜の道を歩く。
寄せては返す黒々した波が、まるで俺を手招きしているかのようだった。