記憶無き依頼人
こうなれば仕方ない。
病院の消灯時間だったり、面会時間だったり、そこら辺のシステムがよく分かっていない僕だけれど、どのみち行くしかなさそうだ。
問答無用とは正にこの事である。
僕は素早く身支度を済ませ、ボロアパートの一室を後にした——病院とだけ聞かされては流石の僕も若干急ぎ足である。
——1時間と30分後。
辿り着いた病院の駐車場で、タクシーから降りるなり、僕をそこまで迎えに出て来ていた真っ白な可愛らしいネグリジェ姿の叶愛さんに、着いたらこれだけは真っ先に言おうと思っていた事を早速切り出した。
「どういう事ですか、叶愛さん! 僕何も聞いてませんでしたよ?! 病院に入院してるなんて!」
僕の問いただしに、目を丸く見開いて、左手の人差し指を自らの、控えめに煌めく淡いピンクのルージュが引かれた唇に当てながら、実に素っ頓狂な反応を見せてくる。
「当たり前じゃないですか、言ってませんもん。まぁ——訊かれない事には答えられませんしねぇ、悪しからず」
悪びれる様子などは毛頭ない。
この人はそういう人だ。
たった今見せていた表情だってすぐ様変わり、今度は、流れるような光沢を放つ艶やかな長い黒髪を左手で後ろに弾きながら微かな笑みを浮かべつつも澄ました表情を取ったりする——それこそ、流れるような動作で。
それにしても、相変わらず全身を真っ白に包んでる叶愛さんの服装の上では、この黒髪が絶妙によく映える——見栄えする。
「て、って言うか、もう10時半過ぎですよ? どうして外に出てこられるんですか! 病室に居なきゃダメじゃないですか!」
言いながら、どうして彼女の親でも、ましてや、医者でもない僕がこんな注意をしているのだろう? とか思ったが、当たり前のように病院という施設である以上、消灯時間、そして、面会時間もあるはずだ——僕がそのシステムをあまり理解していない身とは言え、それが夜の10時以降であるとは到底思わない。
そんな事を言いだしてしまえば、本当に彼女に病室に居られた場合、こうしてこの時間に会えたかどうかも相当怪しいのだけれど。
そもそも今更だが、この時間に僕が会いに来る事、彼女が外に出て来てる事は普通に考えれば、普通じゃない。
病院という施設上、常識外れ——あり得ない事とまでは言わないが、少なからずカップル同士が会いたいから会いに来て、会いたい時間に会える場所ではないはずだ。
せめて彼女が今現在危ない状態に陥っているだとか、それならば話が違ってくるのかも知れないが。
それも不謹慎極まりない発想である。
「あら、尚君、私の事を心配してくれるの?! う〜れ〜し〜い〜」
自分の両手を合わせて指を絡め、腰を左右に振るといった、ぶりっ子を思わせるような動作をしながら、信じられない位の棒読みが彼女の返答として返ってくる。
なんだ、その下手くそな小芝居は!
口に出したら大喧嘩確定のツッコミ文句を危うく飲み込んだ所で、咳払い。
「叶愛さん、フザけるのはやめてください。どうやって出て来たのかは知りませんけど、やっぱりこんな時間にこんな所で会うのも非常識なんじゃないでしょうか? 取り敢えず病室に——」
「紳士ぶっちゃって。つまんない人ですねぇ、あなたは」
いきなりしれっとした口調が返ってきた。
僕の台詞が終わる前に、ピシャリと強制的に終わらせるような——そんな口調で。
僕なりに丁寧に、やんわりと言っていたつもりだったのだが、どうやらお気に召さなかったらしい。
「男性たるものもう少しワイルドでいなければモテませんよ。真面目ぶった紳士気取りの偽善者がモテる時代はとっくの昔に廃れました。やはり今の男性には安定した収入とある程度退屈しない危うさのような魅力がなければいけません」
「はぁ。それはまた随分と個人に偏った恋愛観のような気もしますけど——」
「まぁ、あなたは今のままで、モテる必要性なんて1ミクロンたりともありませんが」
それはそれで酷い言われようだ。
と言うか一体全体なんの話をしてるんだ、僕達は。
叶愛さんにうまく話を逸らされている感が否めない——とは言え、それに応対してしまうのも僕なんだけれど。
「いや、1ミクロンたりともって……」
「あら、モテたいんですか?」
「そりゃあまぁ僕も一男性ですからね、モテるという程ではなくても、誰かに好かれたい願望位はありますよ」
「“誰か”に好かれる必要も、不特定多数にモテる必要もありません」
きっぱり言いきられる。
僕の意思が、意思とは関係ない所であっさり遮断される。
あぁ、そう言えば、まだ忘れていた彼女のプロフィールがあったっけ。
彼女本人が言うには——なのだけれど、叶愛さんは恋愛に対し、人並み以上の嫉妬を燃やし、束縛を行うらしい。
誰もが羨む絶世の美女は、誰もが煙たがるような独占欲の持ち主でもあるという事だ。
「絶対に浮気はしないでくださいね。
私が貴方を愛している」
——それだけで満足しなさい。
と、彼女は顔を伏せながら、小さな声で、言った。