記憶無き依頼人
それはそうと——
「何です? 白夜さん」
『私の事を“白夜さん”なんて他人行儀で呼ばないで』
と、その台詞を言い終えると同時に彼女は通話を遮断した。
なるほど、最初の“間違えました”、と、淡々とした口調で言っていたのは僕のその呼び方が気に入らなかったという事らしい。
因みに彼女のプロフィールに清楚系美女、名探偵、とここまで言葉を並べてきた僕だけれど、僕とした事が、更に一つ、絶対に備え忘れてはならない彼女のプロフィールを忘れていた。
だから改めて言い直そう。
彼女は白夜叶愛、僕と恋人関係に至ったのはつい先日の話で、細かい日付を言うならば4月23日である。
彼女が先の電話で「10日も経たない内に——」などと言っていたが、実のところ、一週間すら経っていない。
清楚系美女の代名詞とでも言わざるを得ない容姿端麗さを備え、白夜探偵事務所所長という肩書きを持つ一城の主で、博学多才にして頭脳明晰の名探偵であり——罵詈雑言も去ることながらの超毒舌の持ち主。
これを言い忘れていたのだ。毒舌。
これが——これこそが、正確な、本来の正しい彼女のプロフィールである。
——所で。
僕はスマートフォンを片手に、書きかけの小説をそのままにしてパソコンを閉じ、ふと独り言を呟いた。
「何の用事だったんだろう?」
まさか、こんな口論をする為に僕に電話をかけてきた訳じゃあるまい——それこそ6日ぶりに。
急に電話をかけてきて、急に切られたのでは話が全く見えない。
僕は名探偵じゃないのだから。
先にもさらりと言われたが、出来の悪い脳を所有している身なので、この後に、これからどう対処すればいいのかも分からない。
頭を抱えるばかりだ。
その時、再び僕のスマートフォンが振動した。
“白夜叶愛”の表示。
ん? 何がしたいんだ、この人は——なんて恐れ多い事は口が裂けても本人には言えないが、僕は再び通話ボタンをタップし、耳に当てる。
「もしもし……」
『……』
何故かは分からないのだが、彼女はいつも電話に出た後、一言目を喋らない。
こちらが二言目を喋ってから返事が返ってくる。
「白夜さん?」
『まだ白夜さんって呼ぶつもりですか?』
と、こんな風に。
それはさて置き——
「あ、ごめんなさい、じゃあ何て呼べば?」
『名前で……』
「名前? あぁ、叶愛って事?」
『それ以外に私の名前があるなら教えてください』
「分かりました、はい、じゃあこれからは叶愛……さんって呼ぶようにします」
『何故さん付け?』
「いやだって僕達付き合いだしてからまだ一回しか会ってないんですよ? 流石にまだ呼び捨ては——」
馴れ馴れしいと言うか……、と言いかけて思い留まった。
そう言えば彼女、叶愛さんは僕を呼び捨てで呼んでいるのだから、そんな事を言ってしまえば、叶愛さんに向かって“馴れ馴れしい”と言っているようなものだ。
そんなの失言以外の何物でもない。
どんな毒ある言葉が返ってくるか分かったもんじゃない。
『そうですか、呼び捨ては馴れ馴れしいからまだ嫌だ、と』
僕の言いたかった事など彼女にはお見通しのようで、思考を完全に先回りされていた。
「いや、そういう訳じゃ——」
『いいのいいの、じゃあ私も呼び捨てはやめる事にするから。これからは尚君と呼ぶ事にするわ』
いや、それはどうだろう?
呼び捨てより更に馴れ馴れしくなっているのではないだろうか?
なんてツッコミを入れた所で、この探偵は僕の発言など簡単にスルーしてしまうのだろうけれど。
こうなれば、言うだけ無駄だ。
『所で尚君』
「は、はい、何でしょう? 叶愛さん」
どうもやり辛い。慣れない。
尚君と呼ばれる事、叶愛さんと呼ぶ事、どちらがと言うか——どちらもである。
『私が電話した用件なんですが——』
「あ、はい」
『いい加減、我慢出来ないんです。会いたいんです、と言う事で会いに来なさい今すぐに』
「はい?!」
僕が声を返した頃には通話の切断音が鳴っていた。
全く——聞く耳持たずである。
まぁ電話してくれない、会いに来てくれないと怒っていた位だからここ数日、叶愛さんは僕からの行動を待っていたという事だろう。
僕はと言えば——僕の方こそ、電話もしたかったし、出来れば会いにも行きたかったのだが、きっかけと言うか、こういう所で奥手なので受け手に回って彼女からの次なるコンタクトを待っているしか出来なかったのだ。
結果、図らずして恋人を焦らす事に成功した彼氏みたいな図になってしまった。
名探偵である彼女に、彼女から、コンタクトをとらせる事に成功した形になってしまった。
うん、それに関しては凄く申し訳ない事をしたと思う。
彼女の探偵としての名誉を守る為にも、ここは正直に白状しておくが、今回に至っては僕の根性無しの性格が偶然たまたまこのような形を運んで来ただけである。
さて——とは言ったもののだ。
僕はこれからどうすればいいのだろう?
いや、まぁ、普通に考えると今すぐにでもこのボロアパートの一室を出て、駅二つ跨いだ先にある彼女の探偵事務所がある町に出向くべきなのだろう、普通なら。
だが、時間が時間なら、そんな普通も常識的問題によって180度ひっくり返る。
僕はチラッと部屋の壁に掛かった時計に視線を当てた。
何を隠そう——元より隠しているつもりもなかったが、今は午後9時、つまり夜なのだ。
そうなると話が変わってくる。
日中ならば普通に考える行動も、夜になればただの非常識だ。日中には日中の、夜には夜の“普通”がある。
社会人にもなれば、これは当たり前に守らなければいけない常識だ——社会人じゃなかったら守らなくてもいいとは言っていない。
確かに、1時間もあれば彼女の事務所に辿り着く事は可能だが、1時間後と言えばもう10時である。
アナログ風に言うなれば22時だ。
いくら恋人とは言え、そんな時間に男一人でうら若き女性のもとを訪ねるというのはどうなんだろうか?
そもそも、僕は叶愛さんの自宅というものの存在を叶愛さんの口から聞いた事がないのだけれど、僕が訪ねる先は(訪ねるとすればだが)白夜探偵事務所でいいのだろうか?
あの建物が自宅兼事務所として使われているなどという話は聞いた事がない。
個人的な部屋——叶愛さんや叶愛さんの助手を務めている桜井結が言うには“プライベートルーム”と呼ばれる限られた人間しか出入り出来ないフロアに存在するそれぞれ従業員の個人の部屋——が秘密裏に存在している事は知っているし、叶愛さんの部屋に限っては以前に一度だけ色々と事情があり、入った事もあるけれど、そこを生活スペースにするには流石に無理があるだろう。
少なからず、僕が見た限りではそう思う部屋だった。