記憶無き依頼人
〜〜1
記憶——それは、誰もが普通に暮らす日常の中で、当たり前のように所有していて、無意識に忘れたり、意識的に呼び起こしたりするものだ。
そんな自分の記憶が無くなる事を誰も危惧してはいないし、そんな未来を予想もしていない。
出来る訳もない。
仮に出来たからと言って、いざその時、それに対する万全な対処が取れるのかと言われれば、それもそうじゃないように思う。
例えば、自然災害に備えて色々な物を用意しておいても、いざ災害に見舞われると用意していたものがどこまで役に立つのか——それが正確に分からないのと同じである。
危機的状況への予想など、その場凌ぎにはなっても、現実をやり過ごすには実に頼りない力だと、僕は思う。
当たり前の事だけれど、僕に言われるまでもなく、誰もが知っていて、思っている事なのかも知れないけれど……、予想と現実は違う。
思い描いた終着点に僕達の物語が辿り着いてくれないのと同じように、現実というのは僕達の予想をことごとく振り切り、目まぐるしく変化する。
僕の恋人であり、自分は世界屈指の名探偵であると自負して豪語する清楚系美女の白夜叶愛は今回の事件の結末を“後味の悪いごっこ遊び”と評し、締め括っていたが、その責任は少なからず僕にもあるように思えて仕方がない。
この物語を思い出す度に、僕は、この事件で知り合った一人の18歳の少女が言っていた言葉を思い出す。
“——私が私である事に変わりがないなら、私はこのままの私で生きたかった”
その言葉が示す彼女の気持ちに——もしくは、彼女が僕にずっと送ってくれていたSOSに、僕がもっと早く気付いてあげられていたのならば、この物語の終着地点は、もとい結末は、違った筈である。
僕、新橋尚弥と、この事件をきっかけにして出会った18歳の彼女、遠藤優理の今回のこの物語を、僕は恐らく永遠に忘れる事は出来ないだろう。
これはそんなゴールデンウィークのお話だ。
それだって——ある日突然記憶がなくなる事など全くもって危惧していない、そんな無責任な発言なのかも知れないけれど。
〜〜2
4月29日。
昭和の日——僕にとってはこの日が何の日でゴールデンだか何だか分からないウィークの始まりが世間的にあった所で、何一つとして嬉しい事もなければ、楽しい事もなかった。
新人小説作家として、さして話題性あるデビューを果たした訳ではないこの僕が、それでも一応“俗にプロと呼ばれる作家”の仲間入りを果たしているその身としては、小説家であり続ける為にも、休みも返上して小説を書き続けなければならないのだ。
書き続けなければならなかった、筈なのだが。
その意志は一本の電話により、ことも簡単に砕かれる事になった。
机の上に開いたノートパソコン。
その横に置いてあった僕の携帯電話——スマートフォンが震える。
画面には“白夜叶愛”の表示が出ている。
僕はスマートフォンをすぐに手に取り、通話ボタンをタップして耳に当てた。
「もしもし? 白夜さん?」
『……』
「あれ? 白夜さん?」
『あ、間違えました。恋人の電話にかけたつもりでしたが、どうやら違う人にかけてしまったようです、すいません』
いきなり聞こえてきた彼女の声は、淡々とした口調で、いかにもと言わんばかりにあざとかった。
言っておくが、間違ってはいない。
僕、新橋尚弥こそが今まさに電話の向こう側に居るであろう清楚系美女(僕の立場からの引け目を無しにしても)の名探偵、白夜叶愛の恋人である——と、自分で明言するのも至極恥ずかしい限りで、釣り合わないにも程がある、自分の身の上を弁えていない発言のようで心苦しい事この上ないのだが——
「いや、僕であってますよ? 白夜さん」
『…………』
「あの、聞こえてます?」
『いや、分かってますよ? 名探偵であるこの私が恋人である貴方の声を聞き違える訳ないじゃないですか。馬鹿にしてるんですか?』
今度はいきなり御立腹である。
自分の事を自分で名探偵と言ってしまう辺りが実に彼女らしい。
そして、そのまま早口で言葉を繋げる。
まくし立てるように、反論の隙を与えないように。
『まぁ、交際日以降あれから連絡もしてくれなければ会いにも来てくれないので声を忘れていたとしても不思議ではないかも知れませんが私は貴方みたいな出来の悪い脳を所有している訳じゃないので10日も経たない内に声も忘れてしまうような事はありませんと言うかそんな簡単に声を忘れてしまえるような相手ならそもそも交際をお願いしたりはしませんよ、所で尚弥ねぇ尚弥あのね尚弥ちょっと貴方に言いたい事があるんだけど、いいかしら?』
見事な早口だった。
滑舌が良い以前に噛まずにスラスラこれだけの言葉を並べられる事に感心する。
句読点の入る余地すらない完璧な早口言葉である。