天井から腕が
ねえ、天井から腕が生えてきたんだ。だからさ、見に来ない?
そうなんだよ。どこの家にも生える可能性があるって聞いていたけどさ。よりによって、まさか家の天井に生えてくると思わなかったよ。
もうびっくりするでしょう。未だに信じられないもん。
なんで生えてきたのかって、うーん。
あ、いま、時間大丈夫? 長くなってもいいのかな?
そっか。ありがとう。ね、明日が休みなのってうれしいよね。なんかもう、わたしはこの世でいちばん幸せだって思いきり叫びたくなるよ。
ああ、あなたもお酒飲んでるんだ。梅酒ロックっていいね。かっこいい。
へっへへ。わたしもビール飲んでる。おうちビアガーデン。あ、でも、クーラーつけてるから、ビアホールかな。
今日のおつまみ? わたしはいか天柑橘風味。これ怖いよ。食べ始めたらやめられなくなるんだよね。おお、あなたはポテチの梅塩味食べてるんだ。梅好きにはたまらないよね。
ねえ、最後に会ったのって何月だったかな。予約したお店に行く途中すっごく寒かったから、冬だったのは覚えてるんだけど。ああ、そっか。二月だったよね。ちょうどバレンタインくらいだったっけ。そうそう。あのときデザートで食べたフォンダンショコラ、おいしかったよね。熱々のとろっとしたチョコレートと冷たいアイスがすごく合ってて。
ね、また行きたいね。もう八月だから、あれから、ええと、半年くらい経ったんだ。本当、早いね。
あー、うん。あのときの彼ね。うん。結局手作りのチョコレート諦めて、試食しまくって、おいしいチョコ買って渡したよ。でも、あれは、うん、もう、別れた。
――ありがとう。
もう、大丈夫。だってさー。六月に別れたんだもん。
でも、天井から腕が生えてきたのは――そうだね。たぶん、そのせいなのかな。だから、大丈夫だけど大丈夫じゃないのかもしれないね。
それでさ。まだ言ってなかったけど、実は私、今、S市にいるんだよね。びっくりした? 先月こっちに来たばかりでさ。
打診があったのは六月だったんだけど、S市の支店で急に欠員が出たから行ってくれないかって言われちゃって。
今の支店も五年目だったけれど、あの困った先輩がいたしね。異動の日まで嫌味言われちゃってびっくりしちゃった。最後くらい笑顔で送りだしてくれたらいいのにね。私がいなくなったら、誰に嫌味言うんだろ。ああいう人って、誰かを攻撃しないと気がすまないんだと思う。あの先輩の家にこそ、天井からの腕が必要なんだよ。
それでさ。急いで荷物まとめて引っ越すことになったんだ。まあ、準備が大変だったけれど、引っ越し費用は会社負担だったし、今住んでるところもね。会社の借り上げのマンションだから家賃もすっごく安いんだ。天井から腕が生えてくる程度には古いけれど、その分広いし、きれいにリフォームもしてあるから、すっごく快適。さすがにオートロックじゃないけど、住宅街で静かだし、周りに街灯もあるし、なんたって、駅から近いのがいいよ。終電でも帰るの怖くないもん。
そうそう、あの海のきれいなS市。そっちからだと電車で一時間もかからないよ。最近、お洒落なお店やカフェが増えて話題になってるでしょう。雑誌やテレビでもよく特集されてるみたい。
私もお休みの日は近所のカフェにモーニング食べに行ったりするんだ。そこのトーストとコーヒーがすごくおいしいの。海の見えるカフェでゆったり過ごすのっていいよ。
ねえ、だから、今度泊まりにおいでよ。ゆっくり話したいしさ。天井から生えてる腕も見せたいし。
そうなんだよ。ついに天井から腕が生えてきてさ。でもね。これ、気づいたのって、ここに越してきて2週間くらい経ってからなんだよね。
もちろん、今流行りのオブジェじゃないよ。雑貨屋でよく見るよね。手やら足やら天井にくっつけて楽しみましょうって。
でも、オブジェじゃなくて、本当の腕だよ。正真正銘の本物。
うーんとね。動いたりしないけど、なんか時々手だけがグーになったり、パーになったり。さすがにチョキはないかな。チョキもあったらじゃんけんできるのにね。
ああ、やっぱり笑うよね。私も最初見つけたときはありえなさすぎて笑ったもん。だって、腕だよ。腕。天井から腕。もうシュールすぎてさ。笑うしかないって。
涙が出るほど大笑いした後に、とうとうわたし、失恋で頭がおかしくなったのかと思って、かなり焦ったよ。
だってさ。いくら最近よくあることだって言っても、実際にこの目で見るまではぜんぜん信じてなかったんだよね。ニュースで見たってオブジェにしか見えなかったし、今の時代、画像加工なんていくらでもできるでしょう?
まあ、そうは言っても生えてきたものは仕方ないから、とりあえず、ネットで検索してみたんだ。
だって、何度見ても、そこに腕があるんだもん。
そこに山があるから上る。
でも、そこに腕があるからって言っても、どうしたらいいのかわからないでしょう?
だから、「天井から腕が生えてきてます。どうしたらいいですか?」って、検索してみたんだ。
そうしたら、出るわ、出るわ。いっぱい回答が出てきてびっくりしちゃった。本当によくあることなんだね。
――うーんと、そうだね。
えっとたとえば、ちょっと待ってて。
「腕が生えてくるなんて、珍しいことではありません。古い家ならよくあることです。家は築五十年ですが、古いせいか腕より先に頭が天井から生えてきてしまっています。夜中に目が合うと、今でもびくびくしてしまいます」
とか
「腕が生えてきているということですが、腕の臭いはいかがですか。家では足が生えてきているのですが、臭いがひどくて困っていました。あまりにも臭い足なので毎日直接足に消臭剤と芳香剤をかけていたら、ついにあの悪臭が消えて、フローラルな香りになりました。今では逆に芳香剤代わりになってくれていて、便利です。よろしければお試しください」
とか、みんな、苦労してるんだなって思ったよ。確かに回答は何の解決にもなっていないけれど、私の家なんて腕だから、まだまだましだと思った。だって、さすがに足は嫌じゃない? すね毛だらけの足なんか、毎日見たくないし。しかも、臭いとか最悪じゃない?
あと、そうそう! これはちょっとだけ怖いなって思ったんだけど、
「腕が生えてきたのなら、ぜひ、あなたも手を伸ばしてみましょう。握手をしたら引っ張りこんでくれるんで、あなたも天井の住人になれますよ。私も晴れて天井から腕を出すことができるようになりました。今は天井からこの回答を書いています」
ってさー、これ、怖くない?
この天井の住人ってなんなんだろうね。天井から腕の出すのって、ちょっと嫌だよね。
うん。さすがにわたしも手は伸ばしてないよ。だって、嫌じゃん。人の家から手やら足やら出して生きていくのって。
え? 嘘! あなたの家にも指が一本だけ生えてきたの?
おお、写メもあるの? すごい! 携帯に送って、送って! ねえ、これってこれから増えるのかな。ってことは、もしかして、私の家の腕も少しずつ出てきてたのかなあ。ああ、うん。私も送るね。
せっかく出てきてたのに、気づかないからこの腕だってやきもきしてたのかもね。
ねえ、物事ってさ。自分では気づかないうちにいろんなことが起こっているって思っていたけれど、もしかしたら、この腕みたいに見えているはずなのに見えていなかっただけっていうことも結構あるのかもしれないね。
うん。そう――彼のこと。
本当はね。なんとなくわかってたんだ。ゴールデンウィークだってね。泊まりは無理でも日帰りでどこか温泉でも行こうって約束していたんだ。それで、「どこに行く?」ってメールしても返事がなかったり、結局実家に帰るから行けそうにないって、休みの前日に連絡があったりして。彼から電話もなくなってて、こっちから電話しても声がそっけなくて、落ち込んじゃったり。
そうこうしてたら、五月の終わりくらいに隣の部署の新卒のかわいい子と付きあってるって噂が流れてきてさ。それで、どうにか彼に連絡取って確認したら、実はそうなんだって言われて。仕事が忙しいからって、その頃はほとんど私とも会ってなかったし、もう終わってたようなもんだろって言われて。
もうさー。だったら早く言えって感じだよねえ。「他に好きな人ができたんだ」って、私に言えばいいだけの話でしょう。それを何? 連絡ないんだから悟れって? 私はエスパーじゃないっての。
――私ね。
彼と付きあってることは会社では内緒にしてたんだけど、それって彼に言われたからなんだよね。もちろん、私も変に噂されたり、それで仕事に支障が出るのが嫌だったからよかったんだけれど、その子と付きあうのは隠さないんだ、隠さなくていいんだって思ったら、なんだかもう立ち直れないくらいに落ち込んじゃってね。
引っ越す前から、家の真っ白な、何にもない天井を見ていたら、ぜんぜん眠れなくなっちゃって。会社でも彼とその子が二人でいるところを見るのがとにかくつらくって。
それでなくても、先輩の嫌味もひどくなってきていたし、もう転職しちゃおうかなって思っていたときにこの異動の話が出たから、すぐに飛びついちゃった。
でもね。こっちに引っ越してきても眠れなかった。仕事が忙しくなれば寝られるだろうって思っていたのに、ぜんぜん眠れないんだ。
目を閉じていても、何にもない天井が見えるような気がして、いつも横ばかり向いてたの。
でも、いつだったかな。あるとき、ふっと天井を見たら腕が生えていたんだ。
最初は確かにびっくりしたよ。
それで、とにかく、笑って、涙が出るほど笑って、なんだかすっきりして――ああ、これでよかったんだって思えたの。
あれって、すごく嫌な気分を吸い取ってくれて、形にしてくれるって本当だったんだね。腕を見つけてから、毎日ぐっすり眠れてるんだ。おかげでご飯もビールもおいしいのなんの。せっかくやせたのにまた太っちゃった。
――だからさ。
あなたも、もしかして、何かあったの?
そっか。うん。もちろん。遊びに来たときにゆっくり話して。
え、あれっ!? あ、ごめんね。急に大きな声出して。
いや、なんか、腕の手のひらが急に開いたり、閉じたりしてさ。もしかして、ビール欲しいのかな。一本、渡してみようか。
えー、ちょっと怖いな。引っ張られたらどうしよう。
あ、受け取ってくれた。
おお、すごい! 引っ込んでまた手が空になった! で、なんか、ええっすごい。こう、ぐって親指立てて喜んでくれた。グッジョブ! みたいな!
ねえ、これ、写メ撮ってもいいかな。あ、いいみたい。またぐって、こう、力強く、グッジョブもらった!
そうだね。腕が消えてなくなる前に今度の休みにでもこっちにおいでよ。腕でも見ながら、ゆっくり話そう。
うん。――うん。待ってるから。
――ありがとう。じゃあ、おやすみなさい。