家出したら美少女幽霊と協力して茶番を演じました
右頬と口内の張り裂けそうに熱い痛みが引いて、じんじんと鈍い痛みになったころ。
血を洗い流し、ようやくまともに喋れるようになった俺は、朱音と向かい合って座っていた。
腹をわって話す為……というより、反省会という意味合いが強い。
だけども、どこから何を話せばいいのか分からん……。
とりあえず、言うこと聞かなかった上に、心配と手間をかけさせてすまんと謝るべきだろうか。
それともまずはお疲れさまとりあえずビールで乾杯と洒落こみましょうかだろうか、それはないな。
そもそも申し訳なさで、朱音の顔を真っ直ぐに見れない……。
朱音には朱音で腹に一物を抱えているのか、目を合わせてもくれない。
最後の会話は、俺が口内洗浄し終わった後の
「もう大丈夫なの?」
「うん」
となっている。倦怠期の夫婦じゃないんだから。
倦怠期……フライドチキンが食べたくなってきたな、クリスピーでも可。
と、俺が空腹を感じて来たときに、徐に朱音が頭を下げてきた。
「……その、ごめんなさい。私のせいで、そんな怪我を……」
「え?いやいや、これは自業自得で、謝るのは俺の方だぜ。朱音の忠告を素直に聞いておけばこんな羽目にはならずに済んだんだし……」
「いいえ、そもそも私が貴方にこんな無茶な頼み事をしなければ、こんな酷いことには……」
「正直に言ってくれ、そんなに酷いんだな?」
「ええ、もうパンっパンに腫れてるわ。野球のボールを口に入れてるみたいになってしまってるもの」
「…………そっかぁ……」
野球のボールときましたか、そうですかそこまで膨れ上がっちゃいましたか。
大の大人に力加減なしにぶん殴られればそりゃ腫れもするよな。
ありゃ多分殴った方の手も痛いどころじゃないと思うぞ、ざまぁみろってんだあの野郎。
人間を騙すには、神様を演じるのはやはりそれ相応のリスクは覚悟していたが、覚悟していたからといって痛みが小さくなる訳でもない。
「痕、残っちゃうかもしれないわね」
「どうだろうな、むしろ俺は歯が折れてないかが心配だよ。保険利かねぇからなぁ……」
恐る恐る舌で模索してみたが、痛いばかりで内部事情はよく分からなかった。
この年で奥歯が入れ歯はいかんせん早すぎるだろ。
「でも、死ななかっただけマシさ。治らない怪我って訳でもない」
「それは、そうかもしれないけど……」
言葉を続けようとして、言い澱む朱音。
いいんだ、俺の事はもういい。首尾よくとはいかなかったが、五体満足で帰ってこれた。
朱音は――まぁ、その、失う身体が御座いませんから?最初っから最終形態といいましょうか?
サイボーグとかになっても真っ二つにされるだけかもしれないからな、ありのままで充分だった。
だが、計算外の重傷人が出てしまった、出してしまった。
もちろんそれは、俺なんかではなく。
「……朱音、その、俺をぶん殴った『案内役』の男に……。どんな罰を下してくれたんだ?」
殴打され、母なる地球と背中合わせにな
った俺は、考えはしても迷うことはないまま朱音に報復を頼んだ。
その場の怒りに任せて、他人に手を下させてしまった。
具体的な内容は告げずに、ただただ罰を下せと、神様気取りで命じてしまった。
衝動に任せた軽率な行動の結果――。
「目を潰したわ。チョキで、ぶすりと奥まで」
「そんなコミカルな表現をしてもやったことのえげつなさは薄れない……」
えげつない、あと男の立場を考えると底無しに恐ろしかっただろうことは少なくとも分かる。
もしかしたらもみくちゃにされた時に村人の誰かの指が入ったと思っているかもしれないが、そうでないとしたら。
なんの予兆も前触れもなく眼球が刺殺され、激痛と混乱の中一生抜け出せない暗闇に放り込まれたのだ。
そりゃ絶叫の一つや二つ上げるだろう。
果たして、あの男にそこまでの罰を受ける罪はあったのだろうか。
確かにあの村の住人は全員大量殺人の犯人であるのは間違いない。
だけど、そう。
そこまでするつもりはなかった――、のだ。
朱音の力だって、俺の行き帰りとジャブとして適当な村人を少し持ち上げて落とす時に使うだけと決めていたのに。
超自然な力だから躊躇したのでも、村人達の罪を軽く見た訳でもない。
命を奪われても、成仏も出来ずにこの村から出れなくなってしまっても。
村の人間に復讐せず、今日という日まで自分の憎しみを押さえつけてきた朱音の、噛み締めた唇から、握り締めてきた拳から血が滲むほど耐えて来た朱音の努力を無為にしたくなかった。
最後まで、朱音には復讐鬼になって欲しくなかったのに――。
命じたのは俺であっても、村人が『ヒナタリ様』の怒りだと捉えようと、結果だけ見れば朱音は怨霊になってしまった。
朱音は、それについてどう思っているのだろうか?
「……もしかして、気に病んでる?」
「あぁ、いや……。何というか、後味が悪いっていうのか。その、汚れ役を押し付けちゃったなって思ってんだ、正直なところな」
「汚れ役だなんて思ってないわ、言ったでしょ?物足りないって。私だって聖人じゃない。自分が殺された上に、危険を顧みずに協力してくれた人を傷つけられても手を出さないほど、私はお人好しじゃないの。今だから言うけど、私はあの男を殺してやろうとまで思ったんだから」
「……そこまで怒ってたんですか」
予想外だ、まさか朱音があの時そんなに見境なくなるまで激昂していたとは。
堪え忍んでいた分、ぶり返しが強かったのかもしれない。
「だって、端から見たら貴方死にそうだったんだもの。ろくに起き上がれないまま、口から血が止まんなくて、息も絶え絶えで……。よく考えれば、死ぬわけないのだけれどね。……うぅ」
なんだ、最後の方段々ボリュームが小さくなっていったぞ。
頬が赤らんできてるし、風邪でも引いたのか。
え、幽霊って風邪引くの?確かに年がら年中透けてたんじゃ身体も冷えるだろうけど。
あなたの風邪に狙いを決めようにも身体が無いんじゃあ青だろうと何色だろうと効かないだろうに。
「そういやあの時のお前、俺の事名前で呼んでたよな。『白谷君、死なないでぇっ!』とか言ってたっけか」
「わ、私そんなフラミンゴみたいな声じゃないわよ!」
俺の裏声はフラミンゴに似ているようだ、鳴き声聞いたことないけど。
「今思い返すと可愛い取り乱しようだったなぁ、おい。心配してくれたのはありがたいけどよ、死なないでってのはオーバーだったよなやっぱり」
「だ、だって……。すごい音したのよ、生々しいっていうか、西瓜割りみたいな。取り乱しもするわよ……」
あぁ、なるほど。さっきは風邪とかじゃなくてあの時の自分の失態を思い出して恥ずかしくなってたのか。
これは辛いぞ、夜寝る前にふと思い出して布団の中で暴れる位のトラウマになってしまうだろう。
笑い話になっただけめっけものだが。
「もう!いいのよそれは!とにかく貴方はあの男の人なんてもう気にしなくていいの!私が殺りたくて殺ったんだから、どうこう言われる筋合いはないの!例えそれが謝罪でもね!」
「…………そうかいそうかい、そこまで言うならこの事はもういいさ。だけど、これだけは言わしてくれないか?後生だからさ」
「何よ、早く言いなさい」
「ありがとう、朱音」
「………………うん」
小さく頷いた朱音を見て、言ってよかったと心底思った。
ま、ああ言ったって人から感謝されることは嬉しいだろうな。
なんともこそばゆい沈黙が流れ、なんだか今目を会わしたら何らかの勢い余って愛の告白をしてしまいそうな気持ちになってきたので。
「それより、だな。神話についてだけども……。あれ、どう思う?」
と、巧みに話題をずらした。
これには劇的ビフォーアフターもびっくりの技だろう。なんだっけ、なんてこったい!だっけか。
けど、何の考えも無しに適当な話題を出した訳ではない。
きっとあの神話の中で、俺達が一番ひっかかった箇所は。
僧の姿をした『ヒナタリ様』でもなく、摩訶不思議アドベンチャーでもなく。
「きさらぎ……、という鬼ね。私もただの架空の存在だと思うけれど……」
「なんつーか、さ。点と点が繋がりそうで全然繋がらねーよな。話聞く限りじゃこの辺に一番詳しそうな古郡の爺さんもあの駅については知らなさそうだったし」
「あのトンネルの向こうには行ってはいけない事になってるからでしょうね。なんでか言ってなかったけど」
「本当に……あの駅の存在だけが、異様だよな。比奈村とは関係がなさそうで、でも名前からして深い因縁がありそうで……。人間の狂気なんかは及びのつかない何かが関わってそうで……」
もし、俺達の茶番が功を奏して腐り切った風習が終焉を迎えたとしても――。
あの駅は変わらずに、誰かを誘い続けるのではないだろうか。
どこまでも、あの線路は続き続けるのではないだろうか。
そう、思えた。
俺達のやった事なんて、所詮人間の、それも子供の三文芝居でしかない。
生きていたって死んでいたって、演じたって偽ったって、俺達はどうしようもなく人間だ。
その中でもろくに現実とも向き合えなかった俺のような人間には一生かかっても手に負えない謎。
結局俺は、俺達人間は何かの掌で滑稽に踊らされただけではないのだろうか。
あぁ、どうしたって俺達が演じたのは茶番に過ぎなかったんだ。
出過ぎた真似すら――出来なかった。
果たして俺は、これからの誰かを救えたのだろうか。
一人の狂信者から信仰を奪っただけで、大元の何かは放置したままだ。
今回、俺が生贄になるのから逃れただけであって、これからもそうなるだろうか?
たとえ計画を完璧にこなし、有終の美を飾れたとしたって、朱音の願いは叶えられるだろうか。
神話に深く関わっている、かつてあの村を襲ったきさらぎという鬼。
同じ名前の無人駅は、図ったように儀式の行われる周期に合わせて無関係な人間が誘われ、やがてはあのトンネルから村へと届けられてきた。
本当は無視できない、だけどどうしようもないものだろう、これは。
全てを中途半端に知っているからこそ、無力感に苛まれてしまう。
結果と成果が出るのは……二年後。
それを見届けられるのは、きっと朱音だけ。
俺にも責任はあるが、俺には帰らなければならない、帰りたい家がある。
一度帰れば、きっと二度とここには来られない、来たくない。
最後まで、朱音に肝心な事を任せっきりだ……。きっと俺は、救世主にはなってはいけないのだろう。
「ま、スリリングな家出だったよ。おかげで帰りたくなっちまった」
と、流れていた気まずい沈黙を打ち破るべく、わざと明るい調子でまとめに入った。
いつまでもうじうじしていられない、直に明日が来る。
確かに俺達がしたのはその場しのぎだったかもしれない、中途半端に手を出してしまっただけかもしれない。
だけど、それでも。
「久々に必死になって何かに取り組んだ気がするよ――。こんだけやれりゃあ、もう俺に怖いものはねえってな。幽霊にも慣れたし」
「……そうね、貴方にはこれからがあるのよね」
と、朱音は羨ましそうに俺を見てきた。
「あぁ……、そうか。お前は止まったままなんだもんな……」
「なんだか成仏出来る感じもしないし……。こんなことなら貴方が生贄になるのを黙って見てればよかったわ」
「ひでぇ!それがちょっと前に『しっかりしてぇ!』なんて大声上げてた女の言うことかぁ!」
「だからその声真似やめなさい!」
笑いながら話し続ける俺達。
間もなく訪れる別れの時まで、どうにかしてこの楽しい時間を繋げようと、俺達は色々な話をした。
まるで気心の知れた友達のように。
将来の夢や、思い出すだけで顔が赤くなるような失敗とか、今まで読んだ本の話や、尊敬する人の話を、たわいもなく。
寒さを忘れながら、いつまでも。
だけれど、いつしか話題の種も尽きて。
その時が、やってくる。
「……じゃあ、そろそろ行きましょうか」
朱音はそう言って、座った姿勢からいつもの浮遊体勢に入った。
時間を見れば、既に11時を回っている。
家を出てから4時間……。たった4時間で一生分の不可思議を経験したように感じる。
実は俺は今自分の部屋で不貞寝していて、全てが夢だった……という事になってもなんらおかしくない。
だけど、右頬の痛みも、感じている心の痛みも、紛れもなく本物だ。
「行く、か……。そうだな、盛り上がりもひとしおだが、そろそろ潮時か」
「えぇ、ここからは私達みたいな人外の時間。良い子はそろそろ寝る時間よ」
「良い子……?はて、誰のことやら」
「たかだかカンニングしたって思われただけで申し訳なさから家出した挙句幽霊に唆されてお芝居して痛い目にあったどこかのお人好しのことよ」
「お人好しは欠点だと思うぞ?」
「欠点かどうかは知らないけど、私はそういう人が嫌いじゃないわ」
「それを聞いたらそいつは大層喜ぶんじゃないか?例え唆されて痛い目に遭っていたとしても」
というか唆されたの俺?
全ての黒幕は朱音だった……?
「ほら、アメリカのコメディ番組よろしくな皮肉言ってないで、こっちに来なさいよ。帰り道案内してあげるから」
「道と呼べる道が無いようなんですが、ガイドさん大丈夫ですか?」
既に俺達がどっから来たのか分からない
までになってしまったのだが。
山の深くまで来てしまった為に、前後左右の風景がほとんど同じだ。
「任せなさい。このインストーラーにかかれば最短ルートを辿ってあっという間に下山出来るんだから」
「お前にはナビゲーションシステムの他にも辞書をインストールする必要がありそうだな」
またもや皮肉を返しながら朱音の後に着いていく。
もう村に向かっていった時のような太鼓と鈴の音は聞こえない。
俺の足音と息遣いだけが、周りに生い茂る木々に吸い込まれていく。
予想に反してほとんど迷うことなく朱音が進んでいくので、何故か焦ってしまう。
言い残したことはないか、まだ何か話しておくべきじゃないのか。
これから朱音はまた一人で、この村に縛り付けられたままいつまでも過ごすんだぞ?
人と話すことも、触れる事も出来る。
もしかしたら、生きている人間よりも好き放題過ごせるかもしれない。
だけど、彼女は死んでしまっている。
停滞したまま、成長することなく、死ぬことすらなくただたださまよい続けるだけ。
俺が家に帰って、まぁ人生をそれなりに過ごしている間も、ずっと。
それを思うと、まだ彼女に何かしてあげられることはないかと考えてしまう。
だけど、俺には朱音を生き返らせることも、どこかに連れていく事も出来ない。
朱音が本当に、無駄だと思っていても望んでいることは、それなのに。
俺には、何も出来ない。
黙ったまま、練り歩くこと10分と少し。
「――ここまで、ね。あとは今貴方が向いている方向にこれまで通り真っ直ぐ行けば大木があるわ。明るければここからでも見えるんだけど……。まぁすぐに分かるわよ。その大木の裏側に回れば登山道に出るから、あとは道なりに進めば山を出れるし、多分携帯も繋がると思う」
「……ここまでってことは、朱音はもうこの辺から向こうには行けないんだな?」
「そうね。……あぁ、だけど帰り道は確かよ。なんていうかその、結界?の壁って村を箱形に囲ってるのよね。だから浮ける高さにも制限があるんだけど、その限界ギリギリからならある程度村の外の様子も見れたりするのよ」
そうか、よくある上空からの映像っていうのを生身(?)で見る事も出来るのか。
見れるだけで、絶対に手は届かない訳だからより辛いだろうけど。
とりあえず、朱音のナビにも信頼性があることが分かったし……。
今まで一度もしたことがない、一生の別れの挨拶でもしよう。
「朱音、ありがとう。最後まで世話になりっぱなしだったな」
「全く、手のかかる家出少年だったわ。だけど、私の願いを叶える為に協力してくれて、嬉しかった」
違う、俺は本当の願いなんて叶えられてなんかいない。
そう言いたかったが、言ったところで空気が悪くなるだけだ。
せめて、ここだけは終わりよければ全て良しにしよう。
「それに――たくさん、色々な事を話してくれた。お陰で私、これから退屈しなさそうよ。思い出も出来たし……」
「あぁ、俺も今夜の事はどうしたって忘れられそうにない。その、なんだ。あんまりそぐわない感想かもしれないけど、寒かったし、怖かったし、痛かったけど――。楽しかった」
「……えぇ、私も。一時はどうなるかと思ったけど……、今思い出してみれば、楽しかったと思えるの。二年ぶりかしらね、楽しいなんて感じられたのは」
「それは、何よりだ」
「だからね、私からも言わせて――。ありがとう、白谷君」
「あぁ、どういたしまして。……全く、手のかかる幽霊少女だったぜ」
「――ふふふふっ」
「かはははっ」
互いに顔を見合わせて、ひとしきり笑って。
そして、最後に。
「それじゃあ、行くよ。……じゃあな」
「えぇ、さようなら。――げんき、で」
俺は朱音に背を向けて、言われた方向へと踏み出した。
振り返っちゃ駄目だ、きっと俺は何か余計な事を言ってしまう。
元気でなとか、またなとか、言ってはいけないのだ。
いいじゃないか、そこそこ締まったろ?
今生の別れ方としては、最後に笑い合えた事だし、な。
どうしても後ろ髪引かれる思いは消えないが、もう仕方ない。
俺はもう、朱音が最後に示してくれた道筋の通りに歩くしかないんだから。
まだ10歩も進んでいないのに、時間としては今まで歩いたどの10歩よりも長く感じた。
と、その時。
後ろから、ぞくぞくとした冷たい何かに背中が覆われた。
鳥肌が間もなく全員起立したが、俺はこの感触に覚えがある。
「――ごめん、なさい。身体が、かってに……」
彼女の声は、涙に濡れていた。
いつか俺がからかい過ぎて泣き出したら時とは違った、深い悲しみにくれた声だ。
表情までは分からないけれど……、もしかしたら俺が張り倒された時と似たような顔をしているかもしれない。
彼女の腕は俺の肩から首にかけて回されている。
朱音――。
「ごめん、ごめんね。最後は、えがおで送ろうと思ってたんだよ……?でも、やっぱり無理だよ……」
「…………朱音」
名前を呼びながら、首に回された腕を右手でそっと、けれど力強く握った。
俺には、これくらいしか出来ない。
「嫌、いやだよ……。一人に、しないでよ……。これまでずっと寂しかったのに、またおなじになるなんて……」
そうだ、朱音は精神的には14歳のままなのだ。
そんな少女に、この孤独はどれだけ辛かったのだろう。
守り神と崇められ、怨霊と恐れられ、どちらにせよ距離を置かれて。
両親とも会えず、ただただ時間だけが過ぎていく。
将来の夢も、希望も、叶えられないまま……。
「ごめんね……?わがまま言って。白谷君には、生きていて欲しいし、ちゃんとした人生を送ってもらいたいの、それはほんとうなの、だけど……。行かないで、帰ってほしくないとも、思っちゃってて……。駄目だよね、こんなの」
「駄目なんかじゃない」
もう一度、朱音の腕を握る手に力を、思いを込めて言う。
「それは、当然なんだ。当たり前なんだよ、朱音。そう思うのは駄目なんかじゃない。朱音はわがままを言ったっていいんだ」
「…………で、でも」
「……そうだ。俺は家に帰らなくちゃいけない。待ってる家族がきっといるから。俺は朱音の分も、生きなきゃいけないんだ。だから――お前のわがままは、本当の願いは、叶えられない。……ごめんな」
「うぅん、謝らないで。そうだよ、白谷君には、私の分も幸せになってもらわきゃ……。任せたんだからね?不幸になんかになったら、祟るわよ」
「おう、任せとけ」
嗚咽を堪えながら、それでも必死で明るくしようとする朱音の声に、思わず涙腺が緩みそうになるが、我慢する。
俺は、女の子一人分の人生を請け負ったのだ。こんなところで泣いてはいけないのだ。
「――じゃぁ、さ。最後にもう一つだけわがまま聞いてもらっていい?」
「なんなりと」
「……もう少し、このままで」
俺は黙って頷いた。
朱音は、心ゆくまで俺の背中に抱き着いている。
俺はそんな朱音を、身動ぎせずに、右手だけでなく左手で朱音の頭に見当をつけて、髪を撫でてやった。
いつまでも、子供をあやすかのように。
そして、二度と触れられないことを、惜しみながら――。
ん?
あれ?
「朱音――、あの、結界とやらの壁は?」
「…………あら?」
おやおや?
まだまだ、不可思議は続くのか?




