僕と狛犬さんの日常
僕の家は代々、近所にある「怜羽神社」で神主として働いている。それは僕にも当てはまり、現在は神道系の学科がある大学に進むために勉学に励んでいる。成績は中の上くらい、それでも十分狙っていけるようだ。
ところで、どこの神社にも狛犬というものがあるだろう。境内に置かれている、阿形と吽形を持つ獅子や犬に似た一対の石像だ。ある神社では向かい合わせで置かれており、ある神社では参拝客のほうをじっと見つめている。神の使いとも言われている、あれだ。
しかし……怜羽神社には、吽形の狛犬しか存在しない。
正確には、阿形の狛犬は僕が生まれるずっと前に何者かによって壊されてしまったのだという。事故なのか故意なのか、今の僕には何も分からない。
それよりもっと奇怪なのは……
怜羽神社の狛犬は、人の姿になって動き回ることができるのだ。
「おー、やっと帰ってきたか」
学校から帰宅しリビングに向かうと、母親と楽しそうに会話していた少女がこちらを向いた。偉そうな喋り方をする、巫女装束に身を包んだ年端もいかない少女の頭頂部。目を凝らしてよく見るとそこには垂れた小さな犬耳がある。
そう、彼女こそが僕たちが代々切り盛りしている怜羽神社の狛犬である。
「ただいま戻りましたよ、狛犬さん」
彼女には名前は存在しないらしい。というわけで、僕たち家族はずっと「狛犬さん」と呼び続けている。狛犬さんもそれで満足しているらしく、呼び名を変えさせようとは思っていないらしい。
「遅かったな、お前を待っていたぞ!」
「待ってた、ってことは……また何か厄介事押しつける気ですか?」
「心外な! 今回は……じゃない、今回も、お前に用があってわざわざ来てやったのだ!」
椅子の上に立ち、ふんぞり返りながら狛犬さんは得意げに話す。母親は「危ないですよー、狛犬さん」と言いながら微笑ましく見つめていて、僕はとりあえず狛犬さんに背を向けて自分におぶさるよう促す。
「それで? 今日は何の用件ですか?」
「うむ、まずはこれを見てくれ」
僕の背にしっかりとつかまりながら、狛犬さんは腕を回して一枚のチラシを差し出す。そこには、数日前に駅前にできたケーキ屋の開店記念割引に関するお知らせだった。鮮やかな色遣いのせいで目がチカチカするが、チラシに載っているケーキの写真はどれもおいしそうだった。
「…………もしかして」
「連れてけ!」
「ですよね……」
狛犬さんのわがままは今に始まったことではない。深々と溜息をついてから、母親に見送られ狛犬さんとケーキ屋に向かうことにした。
チラシが入ってから数日経っているとはいえ、まだまだ無名のケーキ屋はそこまで混雑していなかった。最初にガラスケースの中からケーキを選び、会計を済ませてからこざっぱりしたテーブル席に移動して食べるという、どこにでもよくあるスタイルだった。
カウンターで注文を受けていた店員は初め、僕たちを怪訝そうに見つめてきた。巫女装束の幼女に、パーカー姿の明らかに兄ではない青年の組み合わせなのだから無理はない。しかし狛犬さんの存在がこの地の住民にそこそこ知られていることもあって、年配の客が数人狛犬さんに対して「巫女様、今日は次期神主さんとお散歩ですか?」などと話しかけ、それを見て警戒を解いたのか普通に接客してくれた。
ガラスケースに並んだ様々な種類のケーキに、狛犬さんは始終目をキラキラと輝かせ、結局注文が決まって席に移動したのは来店してから実に三十分ほど後のことだった。
「狛犬さん迷いすぎですよ。あらかじめどんなのが食べたいか考えておかないと……」
「そう言われてもだな、やはり目移りしてしまうのが人間の性よ」
「…………狛犬さん、あなた人間じゃないですよね?」
「そうやって人の揚げ足を取るんじゃない」
僕のひざに座りながら――どうやらまだ幼児用の足の高い椅子を用意していなかったらしい――、狛犬さんはじとっと僕をねめつけた。はいはいと軽くあしらいながら、フォークを使い慣れていない狛犬さんのためにモンブランを一口くらいの大きさにすくって彼女の口元に持っていく。咀嚼しながら、狛犬さんは僕を見上げてにこっと笑った。
「この、もったりした栗の……何て言ったっけ」
「クリーム、ですか?」
「そうそうそれ、すっごくおいしいな!」
満足したようににこにこと笑う狛犬さんに、つられてこちらも笑顔になる。その口端についていたホイップクリームを指でぬぐってやると、もったいないといわんばかりにかぷりと噛みついてくる。
「行儀悪いですよ」
「いいんだよ、ここにはお前しかいないんだからなっ」
にやりと笑う狛犬さんだったが、僕が携帯を取り出して父親の連絡先を開くと、「連絡だけはしないでくれ!」と捨てられた子犬のような瞳で首を横に振った。
「そ、そうだ! ここのケーキ、雅春や麗華たちにも買っていってやろう! あいつら甘いもの大好きだろ?」
「……前々から思ってたのですが、狛犬さんって父さんや母さんのことは名前で呼ぶのに、僕だけお前呼ばわりですよね。差別ですか?」
半分ふてくされながら投げた問いかけに狛犬さんは最初きょとんとしていたが、そっと不敵な笑みを浮かべると僕のひざから飛び降りて偉そうに腕を組んで胸を張った。
「それはだな……お前がまだまだ半人前だからだよ!」
今日も我が家の狛犬さんは自由奔放で元気いっぱいである。