プロローグ
この物語は『例えばシリーズ』を足して割った作品です。
少年——ナインは死にかけていた。
その年頃の男子よりわずかに低い背丈。少々長めの黒髪に、幼さの残る中性的な顔立ち。背丈と顔立ちが相俟って、女の子扱いがネタにされることもある少年だった。
夜の帳が降りた森は気味が悪く、ナインには魔の巣窟にしか見えなかった。
草木が擦れ合う音、獣の唸り声にナインは何度も大げさに反応し、その度に引きつった笑みを浮かべた。それが空元気なのは、彼自身がよく分かっている事だった。
羽織ったマントの裾は擦り切れ、所々に土や血痕が付着している。逃走ではなく戦闘を繰り返し、ナインの服装は見窄らしい格好へと変わっていた。だが不思議と、肉体的疲労と言うものは感じていなかった。
疲労は無いが、消費はあったが。
「まずい、な」
木に背を預け、ナインは手を胸元まで持ち上げる。そして、遠くを見るように焦点をずらしその手を見つめた。一見無意味に見える行為だが、決して無意味ではない。
《魔術師》ならばその手を中心に陣を構築、《超能力者》ならば手を掲げる事でイメージを明確にし、異能の力を発現させる事が出来るのだ。ナインも、それを真似して手を掲げてみたのだ。
だが、何も起こらない。
「……くそ。魔術師や超能力者でないのが、こんなに恨めしい時が来るとは思わなかったぞ」
ナインのその行為は、何も生み出さない。
魔術師でも超能力者でもないナインに、その手を掲げる行為は一見無意味に見えて……やはり無意味でしかなかった。
「回復アイテムも無し、HPも残りわずか……MPに至っては皆無と来てやがる」
だが、手を掲げる行為にこそ意味は無かったが、その手を見つめる行為には意味があった。
ナインの目には、焦点がずれて二重に見える手の代わりに、文字と数値が見えていた。
その文字と数値が表すのは、彼が危険であると言う明確な情報だったが。
「どうする? ……使うか?」
呟き、ナインは懐から一枚の羽を取り出した。十五センチ程のその羽は、月明かり照らされ純白の輝きを放っている。
けれどナインはすぐに頭を振り、それを懐に戻す。不敵な笑みを浮かべ、ナインは再び歩み出した。
「この程度で弱音を吐いてどうする。世界はそんなに甘くないんだ」
目指すはエデン、始まりの地にして、この世界で唯一の安全地帯だった。
「甘くはないな……本当」
歩き出して数分、彼の目の前には、二メートルにも及ぶ巨大な獣が立ちふさがっていた。
《魔物》だ。
その魔物、魔獣ロックベアーは、岩のように硬い肉体を持つ、二足歩行可能な熊だ。鋭い爪は鋼鉄製の盾を簡単に引き裂く。その重量のある巨体で突進されれば、骨は砕け、肉は飛び散ると言われていた。
「グォオオオ!」
「よりにもよって、お前と遭うか! 出来れば今は遭いたくなかったぞ」
ロックベアーの雄叫びがナインの身体をビリビリと震わせた。
戦闘は必至のようだった。
「だが悪いな、俺はまだ死ぬ気はないんだ。ナインだけに」
そう言って、ナインは何も持たない右手を素振りする。瞬間、彼の手に握られていたのは、翡翠色の長剣。どこからともなく音も無く、ナインは武器を取り出した。
それはさながら、マジシャンのように。
だが、彼は解っていた。
ロックベアーの振り下ろした爪を剣で受け、その衝撃に顔を曇らせる。
「明らかに……相性が悪い」
超能力者でもなく、魔術師でもないナインは、ロックベアーの硬い皮膚を貫く術を持っていなかった。正確には、持っているには持っているが、今は使えない、もしくは使いづらいのだ。
洞窟に潜ったその帰りの彼には、色々と足りない物が多過ぎた。
MP。
ナインが異能の力を使うには、それが必要だった。そして今、それは皆無である。勿論、回復する道具なども存在しているのだが、生憎それを持ち合わせてもいない。
今のナインには、爪の攻撃をなんとか受け止めるだけの力しか無いのだった。
金属同士が弾け合うような音が何度も夜の森に響く。ロックベアーの爪は限りなく鉱物に近い物質で、ナインの持つ剣に負けずとも劣らずの硬度であった。
「ぐっ!」
互角に打ち合っていた一人と一匹だったが、ロックベアーの爪がナインの肩を強打した事でその均衡は崩れた。
その威力にナインは吹っ飛ばされ、けれど上手に着地してみせた。
ロックベアーの重たい攻撃を何度も受け、彼の剣は次第に爪への迎撃が遅れていた。そこを突かれたのだ。
幸いにも、ナインに怪我は無い。
HP。
森羅万象、全てに対応する万能の緩衝剤が、先ほどのロックベアーの攻撃を防いだ。
これがある限り、ありとあらゆる攻撃はナインに届かない。それこそ炎や氷の刃、銃撃だろうと完璧に防いでみせるという、万能な防御壁。唯一の欠点は、小石が飛んで来た程度でも消費されてしまうと言うことだ。
そんなHPも今の一撃で消滅、もう後が無い状況へと陥り、ナインは苦悶の表情を浮かべる。
「冗談きついぞ」
ナインがロックベアーと生身でやり合おうと思えたのも、まだHPが残っていたからだ。HPが無くなった今、ロックベアーのような重量級の魔物の攻撃は、全てが致命傷となる。
だが、ナインは不敵な笑みを浮かべる。この絶望的な状況を、これが好機だとでも言いたげに。
「俺がこんなところで死ぬ訳が無い! ここで死ぬようなら、俺に生きる意味は無い」
傲岸不遜、大胆不敵。
それは誰がどう見ても、ただの強がりでしかなかった。
だがそれでも、ナインには『逃げる』という選択肢は無かった。
こんなところで意地を張った所で、一体何が変わると言うのだろうか。
「って……」
ロックベアーが突進して来ていた。迎撃が間に合わない事は明白だった。
彼がその時見たのは一体なんだったのか。
自分の愚かな行動の後悔か、言葉の通じない熊相手に懺悔か、それは解らない。
ただ、走馬灯のように過去の記憶が流れるような事は無かった。
何も、無かった。
そして、鋭い一撃が深々と肉に突き刺さった。
肉を引き裂く音が耳にこびり付き、赤い体液がぶちまけられた。
けれど、痛覚はない。
その代わり、とでも言うように。
「大丈夫?」
鈴のようにやけに耳に心地よく響く声が、ナインの耳に届いた。
先ほどまで殺し合いを繰り広げていた場所に不似合いな、少女のもののように思われる柔らかな声。
目の前まで迫っていたロックベアーの巨体から、紅色の刃が突き出ていた。ロックベアーは音をたてて崩れ落ち、その声の主がナインの視界に入る。
「——っ」
ナインは息を飲む、という過剰な反応しか出来なかった。
炎を思わせる幻想的な赤色。
《Garden》の世界に来て初めて見た、紅の髪を持つその人物に、ナインは驚きを隠せなかった。
形の整った桜色の唇が妖艶な、顔立ちのくっきりした美少女。
少女はごく自然な動作でロックベアーから刀を引き抜く。実に手慣れた手つきで血振りを済ませ、少女は腰に吊った鞘へと刀を納めた。
「あなた、名前は?」
凛とした態度の少女に、呆気にとられつつも、ナインは何とか返答する事が出来た。
「名前は、ナインだ」
「……ん? え? 名前、無いの?」
困ったような顔をする少女に、普通はこういう反応を見せるよな、とナインは苦笑を浮かべる。
まさか、これの真逆の反応をされたから、ナインと名乗っているとは言えない。
「いや。ナイン、っていう名前だ」
そう言って、ナインは剣を杖代わりに立ち上がる。
「助けてくれてありがとう。……えっと、名前は?」
「どういたしまして。私はユウノよ。それで、えっと……」
不意に、ユウノと名乗った少女は声を詰まらせた。まるで、チャックが開いてますよとか、鼻血が出ています、と言った言い難いことがあるように。
そんなユウノの様子に気付かず、ナインは握っていた剣を粒子へと分解した。粒子は彼の体内へと吸い込まれるように消えて行く。
「っ!」
それを見て、耐えかねたようにユウノはナインに尋ねた。
「もしかしてあなた……《魔法使い》?」
ユウノの突然の質問にナインは一瞬驚いたが、苦笑いでそれに頷いた。
魔法使い、別名『十三人の愚か者』。
世界初の仮想現実、それを実装したのがRPG、《Garden》。
そこで地雷と呼ばれた存在、それが《魔法使い》だった。
「ああそうだ。だが、違うとも言わせてもらおう」
「っ!?」
先ほど死にかけていたとは思えない強気な姿勢を見せ、ナインは笑みを浮かべた。次の瞬間、ナインはユウノの肩を掴み、ぐっと引き寄せた。そして、右手を突き出す。
その動きをユウノは捕える事が出来ず驚き、ナインの突然の行動に狼狽し、
「貸しは返したぞ」
すぐ背後に現れていた別のロックベアーを見て、呆気にとられた。
硬い皮膚を貫き、その胸に突き刺さっているのは、先ほどの翡翠色の長剣。
「助けてもらっておいてなんだが、別に助けてくれなくとも俺は無事だったぞ?」
ロックベアーの死体を蹴飛ばし、その剣を再び粒子へと分解するナイン。
同様に、倒したロックベアーも手で触れる事で粒子へと分解していく。その様子をユウノは呆然と眺めていた。
初めてみた《魔法使い》に、ユウノは驚きを隠しきれなかったのだ。
そんなユウノへと振り返ったナインは、不敵な笑みを浮かべ、こう言った。
「俺は《勇者》だからな」
☆☆☆
この出会いを、ユウノは後にこう語った。
「助けなきゃ良かった」
と。