ぬくもりの崩れ
最初に気づいたのは、結音だった。
朝。
まだカーテンが半分閉じている部屋。
ベッドの中。
いつものように、結羽を抱きしめて目を覚ます。
その瞬間。
違和感が走る。
軽い。
結音はまばたきする。
腕の中の重さが違う。
人の重さではない。
綿に近い。
「……結羽?」
結羽は眠っている。
顔は同じ。
髪も同じ。
でも。
体が軽い。
結音は腕に力を入れる。
持ち上がる。
あまりにも簡単に。
結音の胸がざわつく。
「結羽」
揺らす。
結羽が目を開ける。
「……結音」
声は弱い。
いつもの柔らかさはある。
でも芯がない。
空気の中に浮いているような声。
「おはよ」
笑おうとする。
口角が上がる。
でも頬が少し落ちる。
力がない。
結音は結羽を抱きしめる。
ぎゅっと。
いつものように。
ぬくもりを確かめるために。
――ない。
体温がない。
正確には。
あるはずの温度が薄い。
布越しの温度みたいに遠い。
結音の胸が強く縮む。
「……結羽」
「うん」
「寒い?」
結羽は少し考える。
「……わからない」
自分の身体感覚が曖昧になっている。
境界では、侵食が進んでいた。
核の外層。
澱が染み込む。
光が濁る。
糸がほどける。
結束線が揺れる。
存在密度が低下する。
物理層への定着が弱まる。
結果。
質量が減る。
温度が抜ける。
結羽は自分を触る。
腕。
胸。
でも触覚が遠い。
結音が触れているのはわかる。
でも「触れられている感じ」が薄い。
「……変」
結羽は言う。
「どこ?」
「全部」
結音は怖くなる。
「学校休もう」
結羽はうなずく。
でもその動きも軽い。
重力が弱いみたいに。
午前中。
結羽はベッドに座っている。
背中を壁に預ける。
結音は隣にいる。
ずっと触れている。
腕。
手。
肩。
でもぬくもりが戻らない。
結音は何度も抱きしめる。
強く。
もっと強く。
でも温度は戻らない。
「結羽……」
声が震える。
結羽は笑おうとする。
「大丈夫だよ」
でもその言葉に実感がない。
自分の輪郭が薄れている。
境界では。
澱が核へ侵入を始めていた。
光の表層が侵される。
存在理由の領域に触れる。
結羽の内部で、糸が切れ始める。
結束線が弱まる。
結羽はふと呟く。
「……ぼく、軽いね」
結音の目に涙が溜まる。
「軽くない」
抱きしめる。
「軽くないよ」
結羽は首をかしげる。
自分では軽さを感じている。
でも結音が否定する。
どちらが正しいのかわからない。
昼過ぎ。
玄関のチャイムが鳴る。
結音が出る。
扉の前に立っているのは、志那らいかだった。
無言。
だが目は結音の背後を見る。
結音は少し驚く。
「らいかくん……?」
らいかは言う。
「綿貫」
一言。
結音の顔が変わる。
「……うん」
結音はうなずく。
らいかは入る。
靴を脱ぐ。
まっすぐ部屋へ。
結羽を見る。
境界視で。
核が濁っている。
侵食進行:中期。
存在密度低下。
結束線減衰。
臨界接近。
らいかの内部で判断が下る。
説明必要。
主へ。
結音はらいかを見る。
「結羽、変なの」
声が震える。
らいかは言う。
「知っている」
結音の胸が凍る。
「ほんと?」
らいかは結羽を見る。
そして言う。
「核が侵食されている」
結音は意味がわからない。
「……かく?」
らいかは初めて、境界の語を人へ向ける。
「結羽は」
少し間を置く。
「存在だ」
結音の呼吸が止まる。
「……え?」
らいかは続ける。
「人ではない」
結音の世界が揺れる。
視線が結羽へ向く。
結羽はそこにいる。
いつもの顔。
いつもの髪。
いつもの目。
でも。
軽い。
温度がない。
結音の声がかすれる。
「……なに……言ってるの」
らいかは結羽を見る。
境界視で。
光が濁る核。
糸がほどける構造。
そして言う。
「結羽は願いで編まれた」
結音の胸が大きく打つ。
「星乃」
らいかはまっすぐ見る。
「おまえの」
そして告げる。
「願いだ」
世界が静かに割れる。
結音は結羽を見る。
結羽も結音を見る。
二人の間の結束線が揺れる。
結音は震える声で言う。
「……私の……願い?」
結羽は頷く。
「……ぼく、結音から来た」
いつも。
結音の中に帰る感じ。
結音の胸に戻る感じ。
それが今、言葉になる。
結音の目から涙が落ちる。
「じゃあ……」
声が崩れる。
「いなくなるの?」
らいかは答える。
「侵食が進めば」
結音が結羽を抱きしめる。
強く。
必死に。
でも。
ぬくもりがない。
戻らない。
結羽の身体は綿のように軽い。
温度は失われている。
結音は泣く。
「やだ」
結羽は腕を回そうとする。
でも力が弱い。
それでも触れる。
「……結音」
声が薄い。
存在が揺らいでいる。
らいかは静かに見る。
境界を視る子として。
そして思う。
(間に合わない)
結羽の核は、確実に侵食されていた。
ぬくもりが崩れていく。
存在がほどけていく。
結音は改めて理解する。
ともだちが。
願いで編まれた存在だったことを。
そして今。
初めて知る。
その存在が壊れかけていることを。




