侵食
はじめは、気づかないほどの違和感だった。
放課後の教室。
光が斜めに差し込む。
結羽は結音の隣に座っていた。
「ここ、こう?」
「うん」
ノートを寄せる。
肩が触れる。
そのとき。
胸の奥で、わずかに引っかかる。
小さな糸が、どこかで絡んだような感覚。
結羽は一瞬止まる。
「結羽?」
「……大丈夫」
結音を見る。
笑う。
いつものように。
でもほんのわずかに遅れる。
結音は気づかない。
でも境界では変化が起きている。
結羽の核の外層。
そこに、薄い影が触れている。
澱。
まだ形はない。
だが意志のような方向がある。
核へ。
寄る。
触れる。
離れる。
また触れる。
探るように。
結羽は胸を押さえる。
痛いわけではない。
でも何かが違う。
この感覚をうまく言葉にできない。
「どうしたの?」
結音が覗き込む。
結羽は首を振る。
「なんでもない」
言いながら、少しだけ確信がない。
帰り道。
夕方の風。
二人の影が並ぶ。
結羽は歩きながら、胸に意識を向ける。
いつもはそこにある。
あたたかい光。
結音とつながる場所。
でも今日は。
そこに、冷たいものが触れている気がする。
影のような。
湿ったような。
形はないのに、ある。
結羽は胸をさする。
結音が見る。
「まだ変?」
「……ちょっと」
正直に言う。
「いたい?」
結羽は考える。
痛みを知らない、怪我をしない身体。
でも。
「……わからない」
言葉を探す。
「ここ、なんか変」
結音は不安になる。
「家帰ったら休もう?」
「うん」
結羽はうなずく。
そして歩く。
結音の隣で。
存在理由の場所にいることが、一番安定だから。
その少し後ろ。
電柱の影。
志那らいかが見ている。
境界視で。
結羽の核外層に、澱が接触している。
付着開始。
侵入試行。
らいかの内部で警告が最大に近づく。
(侵食段階:初期)
澱は核を求める。
形を得るために。
結羽の核は、理想的な足場になる。
純粋で。
安定していて。
願いの密度が高い。
そして今。
結羽は無防備。
自覚がない。
防衛構造もない。
らいかの指がわずかに動く。
固定術で遮断可能。
だが。
観測倫理。
干渉禁止。
侵食が致命段階に入るまで、原則不介入。
らいかは動かない。
ただ見る。
結羽の核外層に、影が薄く滲む。
帰宅後。
結音の部屋。
夕焼けがカーテンを染める。
結羽はベッドに座っている。
胸に手を当てる。
結音が隣に座る。
「まだ変?」
「うん」
結羽は目を閉じる。
内部へ意識を向ける。
いつもは感じる。
結音との結束。
あたたかい線。
光。
でも今日は。
そこに、別のものがある。
冷たい。
重い。
ぬるい影。
触れてくる。
核に。
結羽の中で、糸がわずかに乱れる。
初めての感覚。
痛み。
それは鋭くない。
鈍い。
でも深い。
存在の芯に触れる不快。
「……あ」
声が漏れる。
結音が身を寄せる。
「結羽?」
結羽は胸を押さえる。
痛みが少し強くなる。
影が入り込もうとする。
核の縁に触れる。
糸がきしむ。
結羽の思考が揺れる。
ぼくは。
結音のために。
いる。
でも。
影が囁くような感覚がある。
言葉ではない。
だが意味はある。
なぜ。
結音。
なぜ。
役割。
存在。
結羽の中で、はじめて疑問が生まれる。
「ぼくは……」
結音が手を握る。
「結羽、大丈夫」
その温度が核へ届く。
結束線が光る。
侵入影がわずかに退く。
痛みが少し弱まる。
結羽は息をつく。
だが言葉が残る。
「ぼくは……結音のため……」
結音はうなずく。
「うん」
信じている。
完全に。
その信頼が光になる。
だが結羽の中では揺らぎが残る。
理由。
役割。
存在。
影がまた触れる。
核に。
糸が軋む。
結羽は初めて思う。
「ぼくは……結音のため……?」
疑問形。
それは侵食がもたらした歪みだった。
結音は意味を理解しない。
「そうだよ」
当然のように言う。
その言葉は光になる。
影を押し返す。
だが完全ではない。
影は残る。
結羽の核外層に。
侵入を待つように。
夜。
結羽は結音のベッドで眠る。
いつもの位置。
腕の中。
ぬくもり。
核は安定する。
だが深部では。
影が薄く絡みつく。
糸の間を探る。
入り口を探す。
志那らいかは窓の外から見ている。
境界視で。
侵食進行を。
結羽はまだ知らない。
自分の存在が今、揺らぎ始めていることを。
役割と存在の境界が、
静かに崩れ始めていることを。




