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(夏のホラー2025)真夏の雨は鉄錆の匂いと共にやってくる

作者: 架月ひなた

 真夏の深夜に近い時間帯の雨の日には、思い出す匂いがある。


 熱気の籠った地面が水を吸って立ち上がる雨の匂いと、目の前が真っ赤に染まるような鉄錆の匂い。


 それは二十年経った今でも忘れられないくらいには、記憶に刻みついていた。

 




 二十年前。

 仕事が終わり帰路を辿っていた時だった。

 もうすっかりと日が暮れ、外には真っ暗な帳が降りていた。ビルや飲食店のネオンや明かりが闇世を照らしている。


 今日は蒸し暑かったにもかかわらず、夕方からずっと雨が降っていた。


 駅周辺なのもあり、街の明かりやネオンのおかげで、夜の十時を過ぎていても安心して歩けるくらいには明るかった。


 ——たまには違う道から帰ろうかな。


 そう思ったのは単なる気まぐれだ。

 仕事に行って同じ道順で帰って寝るだけという生活に物足りなさを感じていたからだ。


 新しい飲食店や居酒屋を見つけたい気持ちもあって、普段はあまり通らない道を通って帰路につく事にした。


 駅の近くにある時計台の下に、携帯電話を耳に押し当てたサラリーマンらしき中年の男性の姿が視界に入りこんでくる。


 降りしきる雨を意にも介さない様子で、時計台をジッと見上げていたのでやけに気になった。


 ——傘もささずに何をしているんだろう。


 時計を食い入るように見つめているのを考えれば、誰かと待ち合わせをしているのかもしれない。


 でも、ずぶ濡れたまま待つだろうか?


 男性の腕には使われていない傘がぶら下がっているのに気がつく。


 ——変な人だな。


 ちゃんと傘を持っているのにささない理由が分からなかった。


「そうですね……ああ……はい……分かりました……」


 一メートルもない距離まで来ると、通話中の男性の声が聞こえてきたので、つい興味を惹かれてしまい耳を澄ます。


「見つけた……そうです……見つかって良かったです……では」


 どれくらいの時間をこうして雨に打たれていたのだろう。


 男性のスーツは雨水を吸い込み過ぎて水が滴り落ち、革靴も見事なまでに変色している。


 風上にいる男性の方からフワリと優しい風が吹いた。


 熱気の籠った雨の匂いに混ざって、微かに鉄錆臭い匂いが香った。


 ——怪我でもしているのかな。


 不思議には思ったけれど、その日はさして気にも止めずに通り過ぎた。




 ——あ、またいる……。


 それから日をあけずに何度も同じ男性を見かけるようになった。


 遭遇する場所は毎回微妙に違う。とはいえ、初めに見かけた公園から数メートル前後する程度なのだが。


 夜遅くに帰宅する時には、きまって例の男性がいるのだ。


 三日に一回、二日に一回という風に頻度も上がっている。


 雨も降っていないのに、フック型になっている傘の持ち手部分を腕に引っ掛けているので、有り体に言えば男性はとても目立つ。


 もう一つ変わらないことと言えば、相変わらず携帯電話を耳に押し当て「ああ、担当は○○でお願いします……、はい、はい、分かりました。申し訳ございません」と何事かやり取りをしている事だ。


 人の会話に聞き耳を立てる趣味はないけれど、声を顰めているわけでもなく寧ろ堂々と喋っているので嫌でも耳に入る。


 私はその男性を尻目に、その後ろを通り過ぎて家に帰るだけ。視線さえも交わした試しがなかった。




 ——あれ? あの人確か……。


 一カ月もすると職場近くの公園近辺だけではなく、今度は私の家の近くにある定食屋で見かけるようになった。


 商品の看板と睨めっこしているくせに、携帯電話は片時も手から離さない。よっぽど仕事が忙しい人らしい。


 いつも理由を説明しているか言い訳か謝罪の言葉を口にしているので、クレーム対応をしているようにしか見えなかった。


 サラリーマンて大変なんだな。そう思って足早に男の横を通り抜ける。


 この繰り返しの日常にも段々と慣れてきていた、二週間あとの頃だった。


 ——え?


 自分の目を疑って、思わず足を止める。一人暮らしをしているアパートの数メートル先にあるコンビニに、男性がいたせいだ。


 ——こんな偶然ってあるんかな?


 ここにきて初めておかしいと疑うようになった。新手のストーカー?


 思考を巡らせるも、好意を向けられた事がないどころか会話をした覚えも、それ以前に視線さえも交わしていない。


 私が一方的に、尻目に見やる程度だった男性だ。


 ——きっと家か職場が近いだけだよね……。


 それでも気味が悪くて、もう男性には一切視線を向けずに足早に家に帰った。


 そんな日を二か月近くは続けている。


「見つけた。いましたよ……ああ……はい……そうです」


 ——また居るんだ、あの人。


 すっかり男性の声まで覚えてしまった。


 無機質な機械みたいな声音は妙に耳に残る。それに何より、晴れているのに雨の匂いと鉄錆の匂いがするので、その男性が近くにいるとすぐに分かるのだ。


 昼夜も関係なくなっていて、心なしか距離も近くなっている気がする。益々気持ちが悪くなった。


 そこで大人しく引き下がっていれば良かったのかもしれない。


 残念ながら、そんなか弱い性格はしていない。単に怖いもの知らずだったせいもある。


 ハッキリとしないモヤモヤ感が何よりも嫌で、十メートルもない距離の後ろを歩いている男性を振り返った。


 正面からジッと見上げる。


「あの、もし違っていたらすみません。この二か月の間、毎日お見かけしますし、後をつけてきていますよね? 私に何か用でもありましたか?」


 もう数年以上は今の住所に住んでいたけれど、これまでにこの男性を見かけた事はない。


 偶然にしては頻度が高く、あまりにも出来すぎていて、つけられているとしか思えなかった。


「……」


 男性は無表情だった。そして私の問いかけに答えも返ってこなかった。


 ——何、この人?


 どこかおかしい。モヤモヤしていたものが膨れ上がり、やがてちょっとした憤りから、訳のわからない居心地の悪さが不安に変化していく。


「ああ……あああ〜……」


 電話がかかってきた様子もなかったのに、男はうめき声のような声を上げながら、怠慢な動作で携帯電話を耳に押し当てはじめた。


「いい……。いい……。はい、はい。実は、そうなんです。ええ……もう今すぐにでも」


 また電話……。しかも今日はやたらと上機嫌みたいだ。


 ストーキングされているのかもしれないと思っていたのは杞憂だったのかもしれない。


 ——まあそれなら良かった。


 自意識過剰になりすぎていたのだろう。


 ホッとしたのと同時に恥ずかしくなってきて、男の元から逃げるように足早に去り職場へと向かった。




 ——え、何でっ!?


 仕事から帰宅すると、住んでいるアパートの出入り口に例の男性が立っていた。


 やはり気のせいでも自意識過剰でもない。この人は何やらの理由で私に纏わりついている。


 ただ、好意を向ける普通のストーカーとはどこか違う。


 向こうから話しかけてくるわけでもなければ、好意を伝えてくるわけでもないからだ。


 男性の前を走って通り過ぎて、エレベーターに乗り込む。急いで閉ボタンを連打し、早く扉が閉まるのを願った。


 ここのアパートは古いのもあり、エレベーターの操作反応や動きが遅い。


 普段は何も思わなかったのに、今日は気が急いているのもあっていつも以上に遅く感じた。


 ——早く早く早く!


 ゆったりとした革靴の独特な足音が近付いてくる。


 ——嫌だっ、早く閉まって!


 心臓が壊れそうなくらいに脈を打っていて、頭の中で心音が聞こえているかのようだった。


 ようやく扉が閉まっていく。しかし……。


 ——ああ、マズい。


 目の前には扉ごしにあの男性が立っていた。


 喉を嚥下させ、瞬きもせずに扉のガラスごしの男性を見つめる。無言で携帯電話の受話口を向けられた。


『午後十時三十一分四十秒をお知らせします』


 ——え?


 受話音量を最大にしているのか聞こえてきた内容に耳を疑った。そこから流れてきたのは時報だったからだ。


 ずっと会社か取引先の人間と話しているものだとばかり思っていたのに違っていた。


 男性はずっとこの時報に向けて、一人淡々と喋り続けていたのだ。


 ——この人……普通じゃない。


 気持ち悪さが限界を迎える。急に吐き気さえ込み上げてきて、片手で口元を覆った。


 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。


 感じたことのない悪寒が全身を駆け巡り、うなじから後頭部にかけて毛が逆だった。


 まるで首筋に生暖かい吐息を吹きかけられたような不愉快さが込み上げている。


 エレベーターを飛び降りるなり、全力で走って借りている部屋の室内に駆け込む。


 ——何いまの。何いまの。どうして時報!?


 鍵をかけて玄関先で蹲る。靴を履いたまま茫然とその場から動けなくなった。


 男性の行動が何一つ理解出来なくて、煩わしいくらいに胸が鼓動を打ち続けている。


 ——誰かに……相談してみよう。


 携帯を取り出して友達に電話をしようとした時だった。


 ダン、と力強く玄関の扉を叩かれた。


「っ!!」


 思わず叫び声を上げそうになって、口に両手を当ててすんでのところで止める。


 そのせいで携帯が落ちて、大きな音を立ててしまった。


 背後にいる。


 扉一枚を隔てた向こう側にあの男がきっといる。見なくても分かった。


 ——どうしよう。どうしよう。どうしよう。


 手が震えて止まらなくなった。


 ガチャガチャとドアノブが動き、力任せに引っ張られる音がする度に、脈を打ちすぎた心臓が壊れそうになる。


 歯が噛み合わずにカタカタと震えて小さく音を立てて、全身総毛立っていくのが分かった。


 振り返って、いつ開くか分からない扉をただただ見つめ続ける。


 どうしてこうなってしまったのかもわからない。


 どうして見ず知らずの人に狙われてしまったのかも理解出来ず、頭の中には「何で私? どうして?」と理由を求める言葉と焦燥感だけが増していく。


 本当に意味が分からなかった。


 好まれているわけでもない。恨まれているわけでもない。なのに付き纏われている。意味が分からない。


 気持ち悪くて仕方なかった。


 この男性の行為の根源にある〝ナニカ〟が堪らない程の不安と恐怖を煽る。


 やがて、ガチャン……と鍵の回る嫌な音がした。


 ——う、そ。


 条件反射の如く立ち上がってドアロックを倒す。


 錯乱しそうなくらいに困惑していて助けを呼ぶ声は出せなかった。咄嗟に動けた自分に感謝する。


 開きかけた扉がドアロックに阻まれて間一髪止まった。視界が水でぼんやりと滲んでいく。


 隙間から男の無機質な目が見つめている。


 こちらを見ている筈なのに、私を通り越して、別の何かを映しているような色彩を失った虚ろな目だった。


 目は笑っていないのに、口角だけが持ち上がり嫌な笑みが浮かべられた。


 ドアロックに阻まれた扉の隙間から、風にのって雨の匂いと鉄錆のような匂いが漂ってくる。


「みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた。みーつけた」


 永遠に続くのかと思った。


 抑揚の無い声音で、ひたすらその言葉だけを繰り返す男性はどこからどう見ても異常者だった。


 視線を逸らしてしまいたいけれど、体が固まったまま動いてくれない。


「ああ……残念だよ。運が良かったね、君」


 その言葉を最後に男性は去って行く。響いていた革靴の音がどんどん遠ざかり、やがて消えていった。


 どのくらいの時間茫然自失としていたか分からない。ほんの数分間なのかもしれないけれど、私の中では一時間は経過しているように思えた。


 今でも極度の緊張感に苛まれている。


「貴方大丈夫なの?!」


 異変を察した隣人が通報してくれた時にはあの男はいなくなった後で、呼吸さえもままならずに隣人を見るなり泣いた。


 私は動けもせずにずっと玄関先で立ち竦んだままだ。座るという行動を忘れたかのように体が動いてくれない。


「その男性と面識はなかったんですか?」


「ありません……」


 かけつけた警官に何を聞かれても全て耳を素通りしていく。


 何度も反芻して脳裏をよぎっていくのは、男性の言葉だけだった。


〝見ーつけた〟


 今までに男性が携帯電話に向けて発していた言葉だけが頭の中を占めている。


『見つけた。見つかって良かったです』


 初めて男性を見かけたあの日、確かそう言っていた。


 ——最初に会った日から既に始まっていた?


 あの時点で狙われていたのだと今になって思い知る。これまでの電話の内容も、もしかしたら私の事だったのかもしれない。


『はい、はい。実は、そうなんです』


 男性は受話口からちゃんと返事をしていた。


 電話を通じて私に話しかけてもいたのだろう。


『ああ、担当は○○でお願いします』


 ——何で私? 担当って何の……?


 鉄錆はあの匂いに似ている。怪我をした時に流れる大量の血液。


 男性自身は怪我をしている様子はなかった。だとしたらどうして血の匂いがしたんだろう。


 ——もし電話の内容が、(殺害)担当は○○でお願いします、だったとしたら?


 警官が帰っても寒気が止まらずに、両腕を手で擦り付ける。


 もしドアロックをかけ損ねていたら?


 もし隣人が通報してくれていなかったら?


 何故この部屋の合鍵を持っていたの?


 タイミングが少しでもずれていたら、私は今頃どうなっていたのだろう。


 寒気が止まらない……。


 次の日職場の上司に理由を話してお願いし、会社の寮に入れてもらえる事になった。


 あの男性が捕まったとはニュースでも流れて来なければ、警察にも聞かされていない。


 もしかしたら、今でも私みたいな(殺害対象の)誰かを〝見つけて〟いるのかもしれないと思っている。



『みーーーつけたぁああ』



 真夏の夜の雨の日は今でも思い出す。


 雨の匂いと微かな鉄錆の匂いとあの無機質な男性の声を——。



【了】

 


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