夜往く君と猫は一緒に……
それは何度も繰り返し見る夢。
小さな黒猫は尻尾をゆらりゆらりと揺らし、周囲を見回しながら真っ赤な和傘を差す誰かと夜を歩く。季節は何度も移ろう。でも猫は雨も雪も関係なく、どんな事があっても、どんな時でも、その人と一緒に歩いて行く。
泥濘の道も、猛炎の道も、それこそ死屍が転がる道ですらも――。
だけどある日、和傘を差していた人が血を吐きながら倒れた。猫がその人の周りを歩き回るとその人は何かを囁いた。
くるっと猫がこっちを振り返った。
そこにはもう倒れた人はおらず猫しかいなかった。次第に猫も暗闇の中に消えていく……。金色の目だけが光る。その目と目が合うと猫は真っ赤な口を大きく開いて――。
にゃーと猫の声がした。
「猫屋、ボーッとしないで」
「あ、はい。今行きます」
視界の端で黒い猫が横切ったような気がして緩やかな坂道の途中で突っ立ていると、意気込み強く張り切っている友人の園田に呼ばれた。
あれでおっとり草食系小動物の可愛い紗良ちゃんとみんなに人気の美少女である。
率先して我先にと歩き出す園田の後をゆっくりと追いながら、こっそり溜息を零す。
今、私たちが歩いているのは、少し小高い丘の上にある隣町へと一本道でつないでくれる道路だ。
この丘には道路に沿うように墓地があり、その墓地は大人の男性くらいの大きさの生け垣に囲まれている。
園田の話を聞きながら、辺りの静けさに若干の薄気味悪さを感じる。
そもそも、此処のお墓はお寺が管理している墓地なので、隣には延々寺と言うお寺が建っていて住職もいる。しかし、申し訳程度に点く薄暗い電灯や、道路を挟んだ反対側の鬱蒼とした雑木林、加えて民家がない故に人気もない。
それに、この暗がりを利用した犯罪が、昔起こっていたと言う話もあるので、夜になるとほぼ人が通らなくなる。
とはいえ、隣町に行くのにショートカットが出来るのでゼロではない。
八月の蒸し暑い夜――と言うには、今はまだほんの少し明るい時間。
墓地の入り口付近にある水汲み場の桶や柄杓なんかが置かれている所に、既に私と園田以外の人たちが集まっていた。玉砂利の歩きにくさを感じながらそこへ向かう。
自分を含めて男女六人。
私たちはこの墓地に肝試しをしに集まっていた。
私を誘ってきたのは主催者ではなく、友人の園田 紗良。その園田は好きな男子に誘われ、その男子が主催の男友達に誘われたらしい。
まぁ私は普通に夜、家を出るのが嫌だったので断ったのだが、園田にアシストしろと脅された為、仕方なくやって来たと言う次第である。
……いや、嘘をついた。
待ち合わせ場所に行かなければいいやと一旦は了承して、バックレようとしたのだが、そんな私の行動を先読みしていた園田が、家まで迎えに来て捕まっただけである。
まさか、母を使ってくるなんて思いもよらなかった。
おもむろに携帯を見た母に、荷物が届いてるから取りに行ってくれと言われたのが運の尽き。
玄関先で可愛らしいキャミワンピを着た園田が待ち構えていたのだ。ハーフパンツに白のTシャツと言う適当な部屋着姿にビーチサンダルで出たが最後、私の意志などなくそのまま連行されたと言うのが本当である。
ちなみにその時の私に許されたのは、シューズボックスの上に置いてある懐中電灯を取りに戻ることと、園田が持ってきた虫除けスプレーを吹きかける事だけであった。
そこまでされて一緒に来たというのに、その園田は既に意中の相手である東堂君を見付けると、いつの間にか「東堂君、あの、こんばんわ……。よろしくね」と可愛く笑いながら彼の側にそっと立っていた。
顔を赤らめて「うん、よろしくね」と言う東堂君もまんざらでもなさそうではある。
何と言うか、この状況を見る限り一体何のために私は連れて来られたのか不明である。
どう見ても両片思いにみえるのだが、なんのアシストが必要なのだろうか?野次馬的に付き合えよって言えば良いの?だとしたら配役ミスである。
「猫屋さん」
「……瀬名君、だ?」
ボーッと両片思い状態の園田と東堂君の背中を見ていると、ひょろりと背の高い、髪も黒ければ黒いカッターシャツに黒いパンツ姿のトータルコーディネートが真っ黒すぎる男の子に後ろから声をかけられた。
ビクッとして振り返った先にいたのは、クラスメイトの瀬名君だ。
私同様にこういう行事に参加するメンバーとしてはとても珍しい人である。
それにしても、いくらなんでもまだ完全に暗くはないが、場所が場所だし、ぼぅ……と背後から出て来られたら顔とか出ている腕が生白いのもあって若干怖い。
「うん、瀬名君だね。僕が猫屋さんとペアみたいだよ。あっちもホラ、なんかもう決まっててね」
「あぁー……なるほど?」
園田たちの向こう側に、罰当たりにも携帯のカメラで墓地をバックに動画を撮る男女二人がいた。きゃいきゃいと楽しそうにしている。
普通に罰当たりだし、倫理観終わってる。
女の方が動画撮影に満足したのかカーディガンのポケットに携帯電話をしまうのをみながら……まぁ、その肝試しメンバーである私も同罪か、と不可抗力とは言え悲しくなった。
しかし瀬名君の言う通り、どう見てもあの二人はペアだ。その上で園田と東堂君を一緒のペアであると考えると、私と瀬名君は必然的に残り物同士でペアになる。
数合わせ要員の相手になってしまった瀬名君に同情を込めて見上げると、視線に気づいた瀬名君が東堂君の方を指差して口元にその指を持ってくるとニンマリと猫のように笑みを浮かべた。
なるほど、そちらの意味でも同士だったようだ。
しかし、既に二人の感じを見る限り、私と瀬名君はマジで要らない。
私たちは数合わせ兼援護射撃要員ではなく、ただの数合わせ(むしろいてもいなくてもいい)要員となってしまった。
本当に何のために私たちは来たのだろう?
「瀬名君と東堂君って友達だったんですね。二人が一緒にいる所を見たことがないですし、なんて言うかジャンルが違うので交友関係にあるのは初めて知りました」
「ジャンルって。面白いこと言うね」
高校に入ってから二年間、何気に瀬名君とずっとクラスメイトをやっているが、関係値があまりないので彼の事は皆が知っている事ぐらいしか知らない。
気まずさを緩和させようと園田と東堂君を見ながらそう聞くと、瀬名君は細い指先を口元に当てながらクスクスと上品に笑った。
色白い肌に耳元辺りで切り揃えられた黒髪が風に吹かれる。吹いているのは生暖かい風だと言うのに、まるで清涼な風が吹いたが如く髪は涼し気に揺れ、キツイ印象を与えない程度に少し釣り上がった目が楽しそうに細まった。
暑さを感じないのだろうか?
密かにじっとり汗をかいている自分とは違って、汗の「あ」の字も暑いの「あ」の字も見えない。ずっとシュッとした感じの美人顔である。
この雰囲気だけでも東堂君と系統が違うなと思う。
対して東堂君は短髪に茶髪の爽やかな所謂スポーツ少年だ。
曰く、背はそんなに大きくないけどバスケ部でレギュラー入りをしていて、いるだけでチームの空気が良くなるムードメーカーみたいな存在で、どんな体勢でもシュートを決めるし、アクロバティックな動きが凄い!!と言う人らしい。
此処に来るまでの道すがら、園田が目をキラキラさせて口早に言っていた情報である。
対して瀬名君は部活には入っていないようで、いつも直ぐに帰ってしまう。たまに授業後の教室に一人でいるが、その時は大概本を読んでいたり、音楽を聴きながら外を見ていたりして、ひとりの時間を謳歌しているようだった。
そんな二人がどうやって友達同士になったのか気にはなったが、私と園田も瀬名君と東堂君と同じで、さっきの私が言った言葉で言えばジャンルが違うので人の事は言えない。
「猫屋さんはお化けとか幽霊はいるって思う?」
そんなことを考えていると、瀬名君がそう話しかけてきた。
「え?……あー、そうですね。いないのでは?仮にいると言われたとして、私は見たことがないものは信じないので、この目で見ない限りはいないと思ってます。瀬名君はいると思っている派ですか?」
「いるよ」
「あ、そんなハッキリといる派ですか?意外ですね」
「うちの学校にもそういう霊とかの話があるよね」
「あぁ、そう言えばありますね七不思議……。だったら学校にして欲しかったですね。その方が家から近いですし。何故わざわざこの墓地で肝試しなのでしょうか?」
「さぁ、なんでだろうね?」
七不思議と言う身近な肝試しスポットがあるというのに、わざわざ墓地を選んだ理由が分からない。
学校の方が坂もないし、家から近いと考えていると、罰当たりカップルである大野君と橘さんが腕を組みながら此方にやって来た。
「ペア決めすんぞー。ってなんだ、お前らももうペア決まってたのか」
「なら丁度よかった!順番決めしよー!」
「も」ってなんだ「も」って。
せめて誰もあぶれない様に、誰も気まずくならない様に最初からカップル同士の友人を誘ってくれ。クラスメイトとは言え、ほぼ他人の私と瀬名君が可哀想だと思わないのか。
……いや、この場合の戦犯は園田と東堂君か?私を誘ってきたのは園田だし、瀬名君を誘ったのは東堂君だろう。
「白々しいなぁ」
「え……」
「男子たちがジャンケンして、もうちょっと暗くなったら負けた順に出発ね!」
「おっと呼ばれた。行ってくるね」
白けた目で橘さんたちを見ていた私にしか聞こえない大きさで、ボソッと呟いた瀬名君に驚いていると、橘さんが男子たちに集まる様に声をかけた。
彼女の一言に瀬名君がするりと前に出て、東堂君と大野君とジャンケンを始めると、数度のあいこの末に順番は私たち、園田ペア、最後に橘さんペアに決まった。
「あー、負けちゃった。僕たちが一番目だね」
「え、あ、はい。早く終わって良いと思いますよ」
瀬名君はごめんね?と全く悪そうに思っていない感じで、手のひらをヒラヒラと振りながら戻って来た。勝敗を決めたパーの手である。
「よし、決まったね。じゃあ信一、あの話して」
「オッケ―。俺が最近経験した話なんだけどな――」
そう言って大野君はおどろおどろしさを演出するように、スッと表情を消して静かに話し始めた。
「先々週の日曜に俺の親戚ん家で集まりがあってさ、まぁ理由は法事だったんだけど、親たちがめちゃくちゃ話し込んでてホントは昼飯食って終わる所が結構遅くまで居たんだわ。俺ら子供はさ、ぶっちゃけ親たちほど話す事なんかなくてさ……だから先に帰る事にしたんだわ。
親戚ん家はこの丘の向こう側でさ、俺ん家はちょうど反対側のコッチ。行きは親の車で来たんだけど、この丘を突っ切って行けばさっさと帰れるわけ。
んで俺は一人で帰り道を歩いて帰ったんだけどさ、その時間はちょうどサラリーマンとかが帰る時間帯みたいでさ、仕事帰りの男とか女が結構歩いていたんだよ。
そいつ等、車が来るとか関係なく道に広がる様にバラけて歩いて邪魔でさぁ。俺はさっさと帰りたかったからそいつ等を左右に避けながら抜かしてったんだよ。
そんで何人か追い越して、ふとおかしいなって思って。
だって、夜じゃん?この墓地の側ってさぁ電灯の明かりが暗いし、そもそも電灯自体の本数が少ないだろ?んで近くに人ん家もねぇし横は墓だし、昔はヤベェ事件があったっていうし。学校とか親とかから危ねぇから夜に行かない様言われてんじゃん。
俺もあの状況じゃなきゃ通んなかったんだけどさ。
なのに今日はこの道を通る奴がやけに多いなって。
ソレが気になったら、急にそいつ等が聞き取れねぇくらいの声でボソボソ言ってんのが耳に入ってくんだよ。だんだんボソボソ声からワケ分かんねぇ音に変わってさ、それが気持ち悪くて耳を塞いでんのに貫通して大音量で聞こえんだよ。
音が反響して頭も痛くなってくるし、暑ぃのか寒ぃのか分かんなくなってくるし、しかも呼吸もしづらくなってきてさ……。気付いたら俺、歩くの止めてんだよ。
そんで今度は追い越した奴らが止まってる俺の横を追い越してくんだ。
追い越されて行く時にさ、顔が見えるんだけど、そいつ等の目が皆ガンギマっててさ。
男も女もみんな音もなく、そのまま真っすぐそこの入口から墓地の中に向かってくんだよ。当たり前みたいみんなゾロゾロと。
こんな時間に墓場だぞ?変だろ。
兎に角こいつ等に俺がいるって認識されたらヤベェことだけはなんとなく感じてさ、やり過ごさねぇとって思ってその場に座り込んで、ジッと息も止めて奴らが居なくなるのを待ってたんだよ。
最後の奴が入って行ったのを見て、やっと色々感じてたのが消えて息が出来るようになったんだけどさ、俺、ビビッてたみてぇでその場から動けなくてさ。
そのままジッとしてたら、いきなり生け垣の方から誰かに二の腕を掴まれたんだよ。
バッてそっちを見たら生垣の中からやけに長ぇ青白い手が出てんの。慌てて振り払おうとしたら、今度はその手と反対側の俺の肩口にさ、目とか鼻とか口からドロドロとした血を流して笑ってる首だけの男が出て来て俺に言うんだよ。『イッしョにイこうカ?』って――」
普通に怖い話が始まって終わった。
それにしても、再現度とその時のリアル感を出すためなのか、最後の首を傾げながら笑って目を見開く姿が普通に怖かった。
話が終わった途端にあっさりと普通に戻った大野君は「ホラこれ見て見ろよ」と左側の半袖の裾を捲りあげた。彼の二の腕には確かに何かに圧迫されたような跡が残っていた。
瀬名君が興味深げに少し腰を折ってじっくり見て。スンッと鼻を鳴らした。
「……いこうか、って言われて大野君はどうしたんだい?」
「ん?いや、今度こそ振り払ってめっちゃ逃げた。怖い話とか別に苦手じゃねぇけどよ、そん時は流石に叫んだわ」
とカラカラ笑う大野君に、橘さんが「凄いよね!怖い話だったでしょ!私たち何回も見に来たんだよ!」と笑顔を浮かべた。
納得の罰当たり系カップルである。
何回も来てるとか、何がそんなに彼女たちを掻き立ててるんだ。さっきも動画を撮っていたし、「幽霊が出るお墓でホントに出るまで撮ってみた」とか言う検証動画でも上げる気だろうか。
ちなみにだが、その時の園田は、東堂君の半歩後ろで橘さんと大野君に対して物凄い顔でドン引きしていた。東堂君に見られたら百年の恋も冷めるレベルの顔だった。
しかし、心配した東堂君が「怖くない?」と振り返ると、一瞬で目を潤ませて怖がっているか弱そうな女の子に変わっていた為、東堂君はその顔を見ることはなかった。流石に女優だった。
「じゃ、そろそろイイ感じに暗くなって来たし、肝試し始めよっか!」
パンッと手を叩いた橘さんの場違いなほど元気な声に、腕時計をしていた瀬名君に時間を訊ねると時刻は19時40分だと言う。
月は雲に隠れ、辺りは肝試しに最適な暗さになり、ずっと点いていた光源の薄い電灯の明かりよりは懐中電灯を点けた方が良いくらいになった。
みんなで懐中電灯を点けて、それぞれ足元や周りを照らしだす。
そして、私と瀬名君は橘さんに背中を押されて一番近い墓石の側まで連れて行かれた。
「ルールを説明するね。ルールは三つ。これから墓地を一周してもらうんだけど、一つは四つ角ごとに一本、此処に来る前に花屋で買ってきた白い生花が置いてあるからその花を持って帰る事。二つ、ズルをして道を逸れない事。三つ、時間を必ず守る事。これを破ったら罰ゲーム。懐中電灯は二人で一本。猫屋さんのは預かっておくね。次に行く人は前の人が帰って来てから。時間はそうだね……一番目だし余裕を持って猫屋さんたちの時間は、きっかり三十分……なんてどう?」
「いいよ」
「え?」
「それじゃ……よーい、スタート」
私の懐中電灯は橘さんに有無を言わさず没収されて、その流れで制限時間を言い渡された。
それにしても三十分なんて一周するには十分すぎるくらいの時間である。ゆっくり行って帰って来いって事だろうか?
うんもすんもなく送り出された私たちはズラッと並ぶお墓を見渡す。瀬名君が腕時計で時間を「今は41分だね」と確認して、私たちは右に曲がり懐中電灯を頼りに生け垣に沿うように敷石の上を歩き出した。
「さて猫屋さん、さっきの話どう思った?」
「大野君の怖い話ですか?」
「そう」
「演技が迫真でしたね。普通に怖かったです。大野君の顔が」
「あぁ……そう言う風になるんだ?」
「え?」
「ん?」
ニコッと笑顔で首を傾げる瀬名君に空耳かと前を向き直すと、何処からともなく、また、にゃーと猫の声が聞こえた。
反射的に周りに視線を巡らすが、いつも通り猫の姿は見えない。今日は猫の声がよく聞こえる。
「どうしたの?」
「え?あ、すいません。猫の声が聞こえた気がして……」
「そう?」
「いえ、空耳ですから、気にしないでください」
「……猫屋さんは猫が好きなの?」
「好きと言うか、ただ猫が気になると言うか……。小さな頃から黒猫だけは目で追ってしまうんですよね。けれど、声が先にした時はいつも姿はちゃんと見えないんです」
「……そっか。もしかしたらソレ、猫の幽霊かもね?」
空耳と言いながらも名残惜し気に猫を探してしまったせいで、ありえない冗談を言わせるという気の遣わせ方をさせてしまった事を申し訳なく思い、猫の事は頭から追い払い彼の冗談に乗ることにした。
「なるほど幽霊」
「そうそう。猫屋さんは《動物憑き》って知ってる?」
「《動物憑き》って名前から察するに……犬とか猫とか動物の幽霊が憑いてる人ですか?」
「そう。そう言うモノがついている人間は、奇怪な出来事や不幸な出来事を引き付けて自身が巻き込まれることがあるって言われてるんだけど」
「ヤバいですね。お祓いとかでは祓えないものなんですか?」
「祓えるよ。けど、そういう憑くような動物の中でも猫とか狐とか、あと蛇とかは一度憑いた人間からは離れない事が多くてね。万が一、一時的に離れたとしてもどんな形であれ必ず傍に戻って来るんだ」
「なんですか、ヤバ怖い話ですか?ヤバさが倍増しましたけど。あれ、もしかして私がそう言う系の幽霊に憑かれているって言いたいんですか?」
「でも実は憑かれてるっていうのにも色々あって」
「……え、急に私の声が聞こえなくなった感じですか?」
「中には何かしらの力が欲しくて自らが望んで憑いてもらうっていう人間も居るんだよ。まぁ、犬神って言うと分かりやすいかなぁ。富をもたらすが災いももたらす、みたいなね?力を持つって言うのは危険が伴うって話だよ。そのせいで命が狙われたりするしね。要は力と引き換えに難が降りかかると言うことだね」
と言うことだね、ではない。
あとなんか詳しいな。お化けとか幽霊がいる派の人間はそう言うのに詳しいのだろうか?
そんな話をしながら一つ目のポイントに到着すると、角に設置されている墓石の階段みたいになっている所に、供える様に三本の白い菊の花が並べて置かれていた。
少し左寄り気味だが等間隔に並んだ三本の菊の花はしっとりと濡れていて、花が接地している階段の所には小さな水溜まりが出来ていた。水から上げる時に花から滴ったと思わしき水跡が、それらを並べる時にも落ちたのか、並んだ花の横にもいくつか落ちていた。
それにしても選んだ花のチョイスどうなってんだ?
この肝試しの為だけに白い菊の生花を買うとか、本気が過ぎて逆にコレはこの墓の主に供えられている物じゃないかとすら思う。
「……ふむ」
「供え……らてます、よね?コレ」
「いや、墓の状態から見てもこの故人の家族が訪れた感じじゃないし、参加している組数に合わせてこんな風に並んでるから僕たちのだと思うよ」
「わざわざ菊の花を用意します?しかも生花」
「まぁまぁ。花自体は縁起の悪いものじゃないし。まぁ、石の上に直置きとか、枯れかけているっていうのはいただけないけど」
瀬名君がひょいっと持ち上げた菊の花びらからぽたりと水滴が落ち、瀬名君は色んな角度から菊の花を見て、見る?と菊の花を私に渡した。
確かによく見れば花びらが何枚も茶色くなっている。
そんな菊の花を何とも言えない気持ちで受け取りながら、次の場所へ向かって瀬名君が照らす先の懐中電灯の光を見る。
電池が切れ気味なのか懐中電灯の光がさっきより少し薄い気がする。瀬名君もそう感じているのか、暗いなと私と同じ場所を見て呟いた。
「さっさと次に行こうか」
「そうですね」
次の経由ポイントに向かう最中、何気なく視線を巡らせて私たちの横に並ぶお墓をチラッと見る。
一基、二基といくつものお墓の横を通り過ぎていく際に、それぞれのお墓の状態にも目が行く。
最近手入れされたのか綺麗にされて花が供えられているお墓もあれば、放置されているのか雑草が生えているお墓もある。
特にそれらを見て何を思うという訳ではないが、ちょっとだけその差に故人への感傷の差を感じる。
そんなことを思いながら、懐中電灯の明かりを頼りに進んでいくと、段々と場所的に陰っているのか暗くなっていき、それに伴って熱いとも感じていた空気も次第にひんやり涼しくなっていく。
こんな時間に墓地になんて来たことなんてなかったから、こうも涼しいものだと思いもしなかった。
むしろ、少し肌寒いくらいか?と腕を擦る。
「なんか涼しくなってきましたね……。そう言えばこの花、買ったばかりと橘さんが言ってましたがこうも早く枯れるものなんでしょうか」
「そんなことないよ。菊は割と長持ちする花だし、濡れている所を見ると結構直前まで水につけていたと思うから枯れない為の処置はしていたんじゃないかな。それに、買ったばかりなら猶更枯れないでしょ。例え花屋にある時点で少し痛んでいたとしても数時間で此処までにはならないよ」
「そうですよね」
じゃあ、なぜこんなに枯れているんだ、とまじまじと見ていると菊の花からはらっと枯れた花びらが散り落ちた。
「さ、着いた」
「なんか置いてある花の間隔、おかしくないですか?」
「うん……」
「風で転がってしまったんですかね?」
さっきと同じように階段のようになっている所へ供える様に置かれている菊は、三本が綺麗に並んでいる訳ではなく、一本だけ風で転がってしまったようで、花と花の間隔が一本分空いた状態で並んでいた。
見下ろすようにその並びを見ていた瀬名君はスッとその場に屈んで菊に手を伸ばした。
そのまま菊の花を拾うのかと思ったら、その不自然に空いた何もない御影石の部分を触れるか触れないかの位置で、撫でるように指先を横に滑らせた。
何してるんだ?と撫でている場所に何かあるのかと同じように屈んでみるが、花から伝い落ちたと思われる水滴が残っているだけで、当然その部分を撫でた手をひっくり返した瀬名君の指先がほんの少し濡れただけだ。
「瀬名君?」
濡れた指先がどうしたのだろうか。
瀬名君は他の菊の花にも目配せすると、ため息交じりによいしょと立ち上がり、次のポイントの場所の方角を見て目を細めた。
「猫屋さん」
「はい」
「猫屋さん今回はどう?見える?」
「今回は?」
私が見やすいように、瀬名君は懐中電灯の明かりを次に向かう方向へ向けた。
光に誘導されて立ち上がりながら視線を移動させた先は、どうしたことか、さっきとは比べ物にならないくらいに暗く、なんと言えば良いものか、懐中電灯はきちんと点いているのに光が吸収されてモノを反射しないと言うか、暗い所を見ていると目が慣れて辛うじてその形だけが分かる、みたいな感じになっていた。
しかも勘違いじゃなければ、なんかいた。
アレは何だろうか。なんだか人影が暗闇の先にスーッと消えていった気がする。
しかも消えていく最中、本当に私の気のせいじゃなければ丸く光る白い何かが二つ、一瞬見えた気がする。
アレが俗にいう火の玉というものだろうか。
「……」
「通って来た所も見てごらんよ」
いや、気のせいか……と、思っていると瀬名君が今度は懐中電灯を反対へ向けた。
言われた通りにそっちを振り返って、私たちが歩いてきた道を見ると、まるでそこは最初から真っ黒な空間でしたとばかりに暗闇が広がっていた。
「道がない……?」
「そうじゃないよ。よく見て」
「よくって、え……ッスゥ――――。あの、もしかして、ですが、私たち今……幽霊的なモノに遭遇してる、っていう感じ、ですか?」
よく見るって、と思いながらも言われた通りに真っ黒な空間をジッと見ると、人の形をしているがドロドロとした黒いタールにも似た何かが絡まり合うように蠢いて、その一つ一つが私たちに向かって手を伸ばしていた。
端的に言って不気味で気色が悪いし、叫ばなかっただけ偉い。
アレがなんなのか理解が出来ず、聞いても仕方がないとは思いつつも瀬名君に問いかけると瀬名君は「そうだね」とあっさりと肯定した。
「そうだねって……ガチですか?」
「ガチだね」
「えっ……と、瀬名君的にこの状況はヤバい感じだと思います?」
「うーん、多少?」
「多少?」
「だって言ってたじゃないか。花を持って戻らないと罰ゲームだって。つまり、持って帰れば大丈夫って事だよ」
「それは橘さんが決めた肝試しのルールであって、私が聞きたいのは今起こってるこのガチ幽霊についてなのですが」
「うん、そのガチ幽霊の手先が大野 信一と橘 ユリだから。とりあえず行こうか」
そう言って瀬名君は菊の花を一本拾い上げて、影のような世界になっている墓地の中を迷いなく歩き出した。
慌てて瀬名君を追いかけてその少し後ろを歩き、疑問をぶつ続ける。
「幽霊の手先ってどういうことですか?橘さんたち人間ですよね?」
「うん、普通の人間だね。まぁ、手先って言うのは適切な表現ではなかったかも。何せ本人たちは肝試しをしたいと思って来ているだけだからね」
「それは、幽霊に操られているってことですか?」
「そうだね。自意識はあるし普通に意志もあるけど、無意識下では誘導されているって感じかな?」
「……」
「さっきの大野の話を聞くに、先ずは大野が幽霊と言う名の怪異に遭遇して、その次に大野は橘を連れてそのまま道連れ。そうして主催の二人は墓場周辺から出られない怪異の餌探しのための道具にされたって流れかな」
「はぁ……」
「つまり、怪異に遭遇した時に印を付けられ、印を介して彼らの記憶が覗かれ、その交友関係からお眼鏡に適う獲物を彼らの目を通して物色。そしてそのまま印を付けられた人間は、見つけたその獲物を墓場に住まう怪異のもとへ運んでいく。……うーん、女王蟻と働き蟻の関係に似てるかな?そこに自分の意志がないってだけで」
印を付けられと言った辺りで二の腕をトントンと叩いて見せられ、そう言えば大野君は幽霊に腕を掴まれたと言っていたなと思い出す。と言うことは、瀬名君の言うとおりであれば橘さんもカーディガンを着ていて見えなかったが、恐らく同じように腕に印とやらが付けられているのだろう。
「えーっと、と言うことは、その怪異のお眼鏡に適う獲物が今此処にいて、ソレが私たちの誰かってことですか?でも、私と瀬名君は大野君と橘さんの交友関係から外れてますし……え、まさか、その獲物って言うのは園田?」
「彼女は……そうだな、巻き込まれた身代わりの生贄?」
「は?生贄?」
「んー。印のせいで餌を運ぶ為の人間になったって事は、大きな括りで言えば大野と橘は怪異の関係者でしょ?」
「はい」
「そして、そもそも彼らに誘われていたのは東堂 真人ひとり。つまり、東堂は最初から怪異に獲物として連れて来られた人間。園田さんはそんな事とは勿論知らず、東堂の好意からこの肝試しに誘われて巻き込まれた被害者……と普通なるところだけど、多分、狙われている事を察知して好意を寄せてきている彼女をわざわざ選んだ上で、自分の身代わりにする為に連れてきたんじゃないかな」
「あ?」
「アイツ小賢しいからね」
「小賢しいとかの問題なの?は?人の好意に付け込むとか最低ですけど?」
東堂君の本性に難があり過ぎて口調が崩れたが、それどころじゃないくらいには腹が立った。人を何だと思ってるんだ。
「いや、東堂本人は知らないんじゃないかな?やってるのは東堂に憑いてる怪異だよ。東堂は猿の《動物憑き》だからね。あの猿結構そう言った小賢しいことをするんだよ」
「……猿の《動物憑き》」
「そう。例え低級であっても東堂に憑いてる猿は、言い方は変だけど長生きしてる猿だから知恵が回るんだよ。悪知恵がね。まぁ、そういう長く生きている怪異なら食えばこの墓地で燻ってる怪異も力を手に入れらる、ってことで狙われたんだろうね。東堂は」
瀬名君はどうでもよさげな感じで、そう締めくくった。
東堂君がしたことじゃないと理解したが、東堂君のせいで園田や私たちが巻き込まれたと言う事実に、ふーっと息を吐いてなんとか怒りを逃がす。
「……じゃあ、なんで私たちがこの状況になってるんでしょう。目的の獲物が東堂君ならさっさと私たちを一周させて肝試しの順番を回した方が効率的なんじゃ?それとも私たちも大野君と同じにその獲物を運ぶ道具にするつもりですか?」
「あはは、僕らの交友関係的に僕らって果たして有益かな?」
「……」
大変失礼ではあるが「それはそう」と納得する。全くもってその通りである。はっきり言って私たちは学校ではほぼ一人と言っても過言ではないくらいには交友関係が狭い。そんな私たちを仲間にしたところで旨味はないだろう。
突然突き付けられた暗に聞こえるぼっちだろ?との言葉に少しぐさりと来るものを感じたが、瀬名君は全くそうではないらしく飄々と話を続ける。
「まぁ、あちらとしては、垂らした餌に食い付いた獲物に釣られて、もっと大物がいたからそっちに目移りしたって感じかな」
「大物?」
スッと瀬名君の指が私を差す。
「ん?」
「君」
「君?え、私?」
「そう。僕がさっきした話覚えてる?」
「え、まって、さっきって今までの話の中のどれの事ですか!?」
「《動物憑き》の話」
「あ、東堂君の?え、私《動物憑き》なんですか!?何が憑いてるんです!?いや、そうじゃなくて《動物憑き》の大物ってなんですか!?どんな大物?え、ヤバくないですか!?」
「何年も何百年も繰り返し同じ魂で生死を経てきた力のある猫だよ。結構災害レベルの呪いだって撒き散らせる感じの。あはは、もはやただの動物霊の範疇を超えて怪異と言うよりは妖怪の類だよね。東堂に憑いているようなその辺の低級動物霊じゃない君を、怪異が食ったら割と周りは死人だらけになるね」
「なるね、って軽い。えぇ……もしかして、私がした猫の声の話の時に猫の幽霊がっていう話の件って、えぇ……」
遠回しに憑いてるよって伝えられていたって事なの?
えぇ……と言いながら自分の肩の辺りや頭上やなんかを探すが特に何もない。
なんとなく憑かれていると言うイメージから肩を払いつつ、迷いなく進んでいく瀬名君を見る。
それにしても瀬名君は何故こんなに詳しいのだろうか。私の日常にはない単語がポンポン出て来る。
「……あの、こんなに色々聞いといて今更なんですが、何故そんなに詳しいんでしょうか?オカルトマニア的なものですか?あ、お祓いが出来るとか!?」
「いや?僕も《動物憑き》だから」
「え!?」
「あ、ポイントに着いたよ」
「え!?」
と言うことはこの場に三人も《動物憑き》がいるって事!?と驚いていると三か所目のチェックポイントに到着したと言われた。
ちょっと色々な事が渋滞している。
頭が混乱している私を置いて、瀬名君は菊の花を確かめた。
彼に爆弾を投下した意識がない事に戸惑いながらも、同じように花を見ると、菊の花は今までと同じように階段になっている所に置かれていたが、これまでとは違い、何故か花が三本並んでおらず端の方に一本しか置かれていなかった。
「うーん、一か所目と二か所目はコソコソと一本だけ持って行ってたのに、三本持って行ったって所に厭らしさを感じるよね」
「え、三本?花の数は合計で三本なので、その、怪異に持っていかれているとしたら二本では?」
「今回に限らずちゃんと毎回四本の菊が並べられてたよ。だから三本。ほら見て」
そう言って瀬名君は一本だけ残された菊の横、何もないない場所を指差した。何か所かにポツポツと水滴が落ちていた。
「一か所目も二か所目も同じようにこういう水滴があったでしょ?」
言われて今までの記憶を辿ってみる。
一か所目の墓石の前に置かれていた花は三本だった。そんなにはっきり覚えていないけど、端の方に水滴は付いていた気はする。確か。
二か所目の墓石の前に置かれていた花も三本だった。右から一本、飛んで二本三本と並んでいた。あれの時は、風に吹かれて偶然端の一本だけが動いたから変な配置になったんだろうな、と思ったのだ。
でも、瀬名君はチェックポイントの花を見て毎回微妙な反応をしていたな、となんとなく思い出す。
「一か所目は記憶が薄いのですが、二か所目は風で動いただけじゃないですか?」
「うーん、風が吹いて転がったとして、こう……水滴は横に引っ張られない?それに、こんなに大きな花びらを持ってる花を転がすくらいの風なら、風を受ける面積の大きい花の部分が転がって、果たして花の位置は綺麗にまっすぐ並んだ状態を維持できると思う?」
「……なるほど」
そう言いながら瀬名君は指先をピッと横にスライドさせた。私が納得している最中に瀬名君は三本目の菊の花を拾い上げる。
「さて、問題は次の場所だね」
「……もしかして、この感じだと、もう先に持って戻られてたりします?」
「花が取られているかも知れないけれど、ルールがあるからゴールはしてない筈だよ」
「ルールって……花を持って帰る、ズルして道を逸れない、三十分以内に戻らないといけないってやつですか?」
「最後のは正確には時間を必ず守ること、だね。時間はきっかり三十分。コレがミソだね。つまり三十分以内に戻るんじゃなくて、三十分後ちょうどに花を持って戻ることって事だよ」
「は?なんですかその意味の分からない謎解きみたいな理屈は……」
「怪異に理屈屁理屈を解いた所で仕方ないんだよ。自分たちが勝つためのルールだし、その為のゲームだから。けど、一応フェアにあっちは僕たちにルールを伝えているからね。言葉足りてないけど」
「フェア?私たちに正確に伝わって無きゃそんなの伝えた内に入らないです」
「それはそう。でも、あちらからしたら察せられなかったそっちが悪いって言い分になるんだよね。それに、分からないならそれで良いんだよ。僕たちが不利になった方が良いに決まってるんだから」
最悪である。
「……そもそもなんですけど。なんでこんな事してるんです?食べられそうな私が言うのもなんですけど、連れて来た時点でさっさと食べちゃえばいいじゃないですか。なんでこんな、まだるっこしいことを……」
そう鬱陶しそうに言うと、瀬名君はキョトンとした顔をして懐かし気にフッと笑みを零すと、少しだけ気分良さげに歩き出した。
なんだ?と怪訝な顔をしながらもその横を歩く。
私が横に並んだをの見ると、瀬名君は優しく説くように口を開いた。
「問答無用でどうにかできる力の強い怪異とは違って、力の弱い怪異が相手を縛るには、きっかけとか決まり事とかが必要になるんだよ。例えば、そうだな……地縛霊が出るマンションに住んだことでその地縛霊に取り憑かれた、とか?」
「それは住んだことがきっかけって事ですよね。じゃあ、私たちがこの場にいる時点で別にきっかけは出来ているじゃないですか。大野君もそうでしょ。お墓で幽霊を見たことがきっかけでしょ?こんな面倒な事をしなくても良くないですか?」
「あはは。まぁ、ソレが出来ればよかったんだろうけど、君の場合は此処の怪異より遥かに存在が上だから、此処に来たぐらいじゃ君を縛れなかったんだよ。下手に干渉すれば消されるのはあっちだからね。だからこそ決まりやルールがあるゲームを仕掛けて、君を敗者にすることで確実に捕まえて取り込むことにしたって事。ゲームって言うのは勝者と敗者がいる勝負ごとでしょ?で、ルールがあればソレに則ってゲームは行われる。怪異が始めたゲームは、必ず敗者は決められたルールの下、罰に準ずるしかないって訳。こっちからすると勝手にルールを押し付けられて勝手にゲームを始められて理不尽極まりないんだけどね」
にこやかに説明をしてくれる瀬名君に同調するように、にゃーと猫の鳴き声がする。
もう、この声が動物の幽霊だと思ったら寒気しか感じない。
此処から無事に帰ったらお祓いが出来る有名な神社に行く。県外だろうが行く。一人でも行く。親に何を言われようが学校を休んでも行く。そう心に決めた。
それにしても、さっきから平気な顔をしている瀬名君も同様に《動物憑き》だから狙わる対象だというのに、こんなに普通なのは強い動物に憑かれているからなのだろうか?
だとしたら、瀬名君はなんの動物に憑かれているんだろう。
……いや、そんなことよりも今は兎に角、先に花を手に入れるのが大事だ。
よし、と意気込む。
「……走っても?」
「もちろん」
瀬名君が私の前を走り出す。
今度も周辺の形だけでも分かる……なんてことはない。
三か所目のポイントに着いて次に向かおうとしてからというもの、此処は今、光もないただの闇となっていた。
恐らく、最後の四つ目のチェックポイントにそもそも辿り着かせないつもりなのだろう。
なんかもう段々と苛立ちが沸々湧き上がって来た。
――来たくもない肝試しに無理やり連れて来られてコレである……とりあえず、誰を許さないって怪異を許さない。
此処に連れてきたのは園田だが、知らん、悪いのは全部怪異である。
ムカつきながらも足は止めずに走り続ける。しかし、瀬名君の背中だけは見えているが、いくら走り続けても目的地は見えない。
本当に向かえているのだろうかという不安を持ちつつ、それでもどうしようもなく、そのまましばらく瀬名君が走って行く背中に付いて行っていると、ぽぅ……、ぽぅ……と飛び飛びに、若しくは隣同士に並んで時折蛍の様な光が仄かに灯ったのが目に入った。
ニャーと猫の声が聞こえる。
「あっち!」
「分かった。先に走って」
何でその明かりを頼りにしてるのかも分からないが、兎に角そっちだというただの勘で向かう。
交代するように私が瀬名君の前を光に沿うように走っていると、光に誘導されるまま向かったその先で一基の墓石が浮かび上がった。その墓石の階段になっている所に花が四本並んでいる。
「花!」
「流石!」
脇目も振らずに駆け寄ると、ザーッと闇が明けるように周りの景色が戻っていった。
お墓の周りを囲む石の柵みたいになっている所に手を付いて、花に手を伸ばすと四本あった花が手に届く直前で幻の様に全てフッと消えた。
「は?え、消えた!?」
「琴ッ!」
「え、うわぁぁぁっ!」
瀬名君が私の背中を押した瞬間に、私の近くにいた瀬名君が生け垣の方へ吹き飛んだ。
瀬名君がいた場所には、私たちの後方で道を塞いでいたタールのような暗闇が、無数の人の腕の形をとって蠢きながら這い寄る様に私に手を伸ばしていた。
すぐさま背を向けて走り出したが逃がさないとばかりに、私の腕や足、顔、体に人の形をした腕が蛇のように巻き付いてきた。
私の耳に接する手から、男とも女とも言えない色んな声が多重に重なった状態で『あとジュっよん四、よんぷン。あト、アと十、ヨン分』と声が聞こえてきた。
「何!?なになになになになに!滑る滑る滑る滑る!」
顔を掴まれて後ろへ引っ張られるせいで、上手く体の上体が前に起こせない。
尚悪いことに、思いっきり踏ん張ってみてもサンダルが滑って踏ん張りが利かず、ズズズズズと後ろへ後ろへと容赦なく引っ張られていく。それでも何とか踏ん張るが、滑るがまま後ろへと引きずられてよろけそうになった所で遂にはサンダルが脱げた。
ふざけんなと今度は足の指先に力をグッと入れて地面を掴む。体を丸めてグググググッ……と全力で前に体を倒して四つん這いになり、敷石のわずかな溝に手の指先を引っかけた。
「ふざけん、な!せなっ、瀬名君!大丈夫、ですか!?」
瀬名君の無事を確かめる為に名前を叫ぶ。
けれど、瀬名君の声は聞こえない。
反応出来ない状況なのか、はたまた耳の側でこの暗闇のタールがゴポゴポと音を発しているせいなのか周囲の音がよく聞こえない。
しかも瀬名君の名前を呼んだ瞬間、引っ張って来る力が強まって瀬名君を探す所じゃなくなる。
「くっそ、」
あのドロドロとした中に引き込まれたら死ぬんじゃないかって言う気持ちが火事場の馬鹿力を生み出しているのか、手と足を一歩、前に出す事が出来た。が、だとしても振り切れる程ではなく、引きずられるままだったのが、私の体を使って拮抗した綱引き状態になっただけだった。
「なん、でっ、急にこんな、強く、なったのぉぉぉっ!」
顔を掴む手が首を後ろへ持って行こうとするのをなんとか剥がせないかと頭を地面に擦り付けながら、歯を食いしばって更に前に出ようと、前に前にと手を伸ばす。
そうして何とか逃れようとしていると、突然、ブチッとの音と同時に後ろへと引っ張って来る負荷が切れた。
私は全力で前傾姿勢で前に進んでいた勢いのまま、変な格好で地面に滑って倒れる。
「いたっ!」
「大丈夫?」
懐中電灯を振り下ろした格好の瀬名君が私と暗闇の間に立っていた。どうやら、懐中電灯でアレは切れるらしい。
「は、はい、いてて、大丈夫です。ありがとうございます。瀬名君こそ大丈夫ですか。吹き飛ばされてましたよね?」
「うん大丈夫、受け身も取ったし。まぁ、こんな時にちょっと郷愁にかられてたのが良くなかったよね」
ヨロヨロと立ち上がって瀬名君と同じように蠢く暗闇を警戒するように睨み付けていると、暗闇がうごうごと収縮して行きながら姿を変え、腐臭が漂うドロドロとしたどす黒い肉塊になって現れた。
肉塊の彼方此方から手や足が生えていて表面が何度も膿んでは弾けて、地面や墓石にビチャッと飛び散っている。
しかも、髪らしきものも所々飛び出ているソレには、表面にいくつも目や口が色々な所に張り付き、目はギョロギョロと動いて口が『アとアトあとキュ、あトきゅー、キュウ、九プン、分』と口々に発している。
「「……気色悪ッ」」
二人して同じ言葉が零れた。
いや、こればっかりは仕方ない。だって見た目が気色悪い。さっきまでアレに纏わりつかれていたと思ったらゾワッと鳥肌が立つ。
「もはやキメラだね」
距離を置きたくて鼻を覆って瀬名君の背に庇われながら後退すると、肉塊はおもむろに己の体を左右に開いて、いくつも生えている内の一本の手がその中に突っ込みグチョグチョと掻き回しだした。
げ……何してんの。
そうして何かを見つけたのか、また気持ち悪い音をさせて手を引き抜くと、その中に枯れると言うよりは腐って溶けているような歪な紐のようなモノが九本、垂れ下がった状態で現れた。その垂れ下がった紐の先には丸っぽい形をした黒い何かが吊り下がっている。
その形状と本数に既視感を覚えて、頭の中にソレを思い浮かべながら指折り数える。
えっと、最初に一本でしょ?二か所目で二本になって、三か所目で三本持って行かれたからこの時点で五本。そして、最後の持って行かれた四本を合わせると計九本で――。
「まさかとは思いますがあの溶けてるヤツ、菊の花……だったものだったりします?」
「うん、そうだね。今の僕らにはどうにも出来ないと高を括って見せびらかしてるんじゃない?アレにはそう言う性根が腐ってるヤツらが集まってるんだろうね」
「と言うことは、あの溶けてるアレ……を、その、アレからぶんどってゴールまで持って行かないとダメ、なんですよね?」
「じゃないと僕ら取り込まれて人生終了だね」
「あ、やっぱりそうなりますよね……触りたくないな」
アレが持っている花だったものをジッと見る。
茎の部分なんか触ったらぬるぬるねちょねちょとしそうで、手に感じた感じないはずの感触を払う。指先がもぞもぞする。
その様子を見ていると、肉塊の中心付近にある女性のような手がぎゅっと絶対に渡さないとばかりに握り締めて、その手を守る様に肉塊から生える色々な種類の手がうねりながらその手を囲って行くと、その手ごと肉塊の中に消えて行った。
……やばい。何度見ても、きっしょい。
「……とりあえず、アレからどうやって奪いましょう」
「アレより後ろに行くことは道を逸れる事っていうルール違反になる可能性があるから、後ろに回り込むっていうのはやめた方が良いよね」
「だったら正面突破ですか?」
「うん、だから僕が行くよ。猫屋さんは時間まで隠れててね」
「え」
私に花を全て渡して、懐中電灯を構えながら当たり前のように言う瀬名君に眉を寄せる。
「なんで瀬名君が?一番狙われている私が近づけるギリギリまで寄って、そのまま囮にして瀬名君が取りに行った方が奪える確立が上がると思うんだけど」
「うーん、狙われているからこそ安全な所に居て欲しいんだけどなぁ」
「はぁ?こんな時に安全もクソも何もないでしょ」
「あぁ、口が悪いなぁ」
「瀬名君」
「ごめんごめん。でも猫屋さん、まだ姿が見えてないでしょ。そのままじゃ力が使えなくて危ないんだよ。――だから、君が思い出してくれると嬉しいな」
「え、何?」
「じゃあ、時間もないし行ってくるね」
「瀬名君!?」
そうにっこり笑って、瀬名君は引き留める間もなく懐中電灯を右手に怪異に向かって走っていった。
そんな瀬名君を排除しようと無数の手が高波の様に勢いよく襲い掛かる。瀬名君は懐中電灯でその腕を容赦なく切り捨て、私にも伸ばして来る手にもすぐさま反応しては同じく懐中電灯で切り捨てた。
しかし、切り落とされても何度も手は生えて来て瀬名君や私を狙い続ける。
それでも瀬名君は冷静に何度でも切り落とし、払い除けられなかった手に対しては、軽くジャンプして空中でしなやかに体を反らせて軽々と避けた。
「でえぇ……」
懐中電灯で切り落とされてボトボトと落ちていく腕や、手に追われながらも、まるでトランポリンを跳んでいるかの様に空中を舞っている瀬名君をポカンと見つめる。
おおよそ、普通の人間が出来る動きではない。
もしかして、《動物憑き》の人間だと出来る動きなのだろうか?
なるほど、猫の姿が見えない私には出来ない芸当なのか。そりゃ隠れてろって言われる。
だけど、そうして避けながら瀬名君がいくら腕を切り落としても、少ししたら腕は生えて終わりが見えない。
肉塊に張り付く口が『ア、とあと、とああ、あと、五、ゴご、五、プン分、ふん、ふン』と時刻を告げる。時間がない。
ボーッとしている場合じゃない。自分に出来ることは無いかと辺りに視線を巡らせ、敷石横に敷かれた玉砂利を搔っ攫うように掴み上げて、瀬名君へ向かう手をしっかり狙って全力で投げつける。
私が投げつけた石は通り抜ける事もその中に埋まることなく、腕に接触するとその腕が消し飛んだ。
「え……私、ゴリラ?」
「あはは!いいね!」
猫の霊が憑いていると言うのは瀬名君の勘違いで実は、ゴリラの霊が憑いているのではと錯覚するレベルの破壊度だった。あまりの破壊力にビックリして目を見開いていると、瀬名君が他の襲い掛かって来る手を体操選手さながらに背面で跳んで避けながら私の様子を見て笑った。
何がおかしいんだ!と瀬名君を睨み付け、それでも瀬名君を援護する為に石を投げ続けていると、地面にずっと沈黙した状態で足元に散らばっていた腕が、突如私の足に纏わりついてきた。
やばい!と思った瞬間には何本もの腕が寄り合って私の右足首を掴み上げ、私はひっくり返された状態で高い位置でブラブラと吊り下げられる。
その衝撃で持っていた石が落ちてしまい、それを追うように下を見ると、瀬名君によっていくつも落とされていた手がズリズリとこっちに向かってくるのが見えた。
急いで足をバタつかせたり、空いてる足で蹴り上げたり、片手で剥ぎ取ろうとしたりしても、怪異の手は私の足首をしっかりと掴んで離さない。
助けを求めて瀬名君を見る。
瀬名君はあらかたの腕を切り落とし、本体である肉塊の目や口を踏みつけるように勢いよく上に着地していた。腕が再生しきる前にとばかりに中心部に向かって懐中電灯と突き刺している。
私よりも瀬名君の方がヤバい。
徐々に腕が再生し終えて瀬名君を再び襲いだす。懐中電灯で肉塊を切り開いて花を探す瀬名君は、自分を襲ってくる腕に懐中電灯が使えず、無数の手に容赦なく襲われている。しかも、瀬名君の足は肉塊の中に沈んでいき、肉塊にたくさん付いている口に噛みつかれて足が血まみれだ。
それでも瀬名君は邪魔をされながらも無心で肉塊を掻き分けて花を探している。
こんな時に助けを求めた自分を恥ずかしく思いながら、自ら脱出すべく花を落とさないように花の茎を咥えて上体を起こし、再び足を掴む手に爪を立てて剥がしにかかる。
(はやく!離れろ!)
剥がすというよりは引き千切るにように足首を掴む手を掴む。気持ち悪いという感触を無視して必死にちぎり取ってあと少しという所で、ガシャン!ガッ、ガッ、ゴロゴロゴロ……と、音がした。
音の方をハッと見ると懐中電灯が地面に転がり、瀬名君が首を絞められた状態で宙に浮いていた。
彼の力なく垂れ下がる手には花が握られていて、瀬名君の埋まった足が肉塊の中から引き吊り出されると、噛みつかれて酷いことになっている足から血がダラダラと垂れ続けていた。
瀬名君の血を浴びながら怪異と言う化け物は笑って、別の手で拳を作って瀬名君を殴りだす。
「んー!」
一気に足首の手を引き千切り、地面に四つん這いで着地して口にくわえていた花を手に取り、体勢を整えるよりも早く瀬名君に向かって走り出す。途中、此方に向かって転がって来ていた懐中電灯を拾い上げて、肉塊の上をべちゃべちゃと駆け上って瀬名君の首を絞める腕や、殴る腕に向かって振り被る。
「離せっ!」
だけど、瀬名君のように腕が切り落とせない。何度もぶつけてみるが肉を殴る鈍い音がするだけだ。
「なんっで!」
それならばと懐中電灯を捨て、殴りかかって来る手を避け、瀬名君の首に回る指を引き千切り、瀬名君を逃がさない様にさらに絡みつこうとする手や彼が握る花を狙う手を払う。
その間もさっき瀬名君にしていたように私の足元ではいくつもの口が噛みついてくるが、むしろこっちから突っ込んで足を噛み切られる前に容赦なく口の中を蹴り飛ばす。
そうやっていなしながら完全に瀬名君の首から手を引き千切り終えて、細身とは言え男性である瀬名君の体を何とか支えながら、肉塊から転げるように急いで飛び降りて地面に二人して転がった。
「いっ、た……瀬名君!瀬名君!」
首元が赤黒くなっていて、足の出血が酷い。お腹を殴られていた事で出来た内臓の損傷から来る血が、首が解放されせり上がって来たのか、口からゴブッと吐き出される。
瀬名君の吐いた血が顔にかかる。瀬名君の綺麗な顔も血まみれだ。
やばい。まだアレは来る。死ぬ。人が死ぬ。私も瀬名君もこのままじゃ死ぬ。どうやって逃げる?花は持ってる。でも、瀬名君は動けない。今にも死にそうだ。
人の死に直面して、自分の死もイメージ出来てしまったからなのか頭が回らない。
「だいじょう、ぶ。僕は、死なないよ……」
「え?」
そんな中、そう瀬名君が血まみれの顔で笑った瞬間、何もされていないのに、頭を鈍器で殴られたような衝撃が襲ってくる。
だって昔、言われたことがあるのだ。あれは、あれは、あれは……?
そうして脳裏に映ったのは、夜を歩く真っ赤な和傘を差す男の隣を歩く黒猫だった――――。
記憶が蘇ったその瞬間。ザワザワッと肌が泡立ち、体が変化していくのを感じる。
自然と体は前に倒れ、瀬名を跨いで地面に四本足で立つ。四肢に力が入った瞬間、本来の姿とは違い体が熊よりも巨大な黒い毛皮を纏った猫へと変わり、手足から轟々と炎が燃えだす。
空気を感じてひくりとヒゲが動く。尻尾が三本、ゆらゆらと揺れた。
にゃーといつもの猫の鳴き声が自分の口から洩れ、同時に口端から炎が煙のように吐き出される。
ひたりと肉塊を見つめる。さっきまでとは違い、明らかに私に怯えているのが分かる。私がどうするのか分かっているのだ。だって、私はそう言うモノだから。
「地獄に送ってやる……とでも言うと思った?」
グワッと口を開いて、私は思うままに蹂躙する。
こんな小物の反抗なんて痛くも痒くもない。汚れるのも厭わず咬み千切って、大きな爪で引き裂く。
何人で寄り集まろうと所詮は死人。この死人たちは地獄へと送るべき穢れた魂だ。だから、地獄へ送ってやらなければならない。
だが、許せない事をした。私が憑いている人間を害したのだ。
許さない。だから地獄へなどは送らない。こいつ等は此処で終わらせる。戻りなどさせない。
「琴……」
何体かの死人の魂ごと咬み殺していると、瀬名が私の名前を呼ぶ声が微かに耳を打つ。
「琴、だめだよ……」
「……何故?」
「君の、役目は、穢れた魂を送る事、だから……」
「……」
「琴……」
念を押すように言われて、私は苛立ちを込めて足元の肉の塊を捻じるように踏み付け、咆哮を上げて己の全身を炎で包み込み、それと共に墓場全体にその炎を広げる。
炎は草木や寝ている瀬名を燃やすことなく、この場にいる悪意を持った亡者だけを焼いて行き、阿鼻叫喚とした悲鳴が彼方此方から上がった。
徐々に悲鳴が消えていき、じわじわと蝉の声がうるさいくらいに聞こえ出すと、ぽつんと私はその場に人の姿で立っていた。
ぬるい夏の夜の風が吹く。
いくつもある家族によって供えられた墓花が、月の光を受けて仄かな光を帯びて揺れている。
散らばる腕も、飛び散る肉片も、そこで起こった出来事の何もかもが一つもなく、あるのはもう普通の墓場だった。
痛みはあったのに自分の体にも傷はなく、怪異が居なくなった事で今あった事が全てなかった事になったようだった。
ただ、本当にあった事を示すように地面には、十二本の生気を帯びた白い菊の花が証拠のように散らばっていた。
「はー、セーフセーフ」
私と同様に傷一つない様子で私の横に立った瀬名君は、にっこりと満足げな笑みを浮かべて私を見下ろした。この男の手のひらの上感が癪に障った。
「セーフじゃないです。いつも言葉が足りないと思わないんですか?あの説明で自分が妖怪だって誰が分かるんです」
「あれ、もう口調を戻しちゃうの?」
「……」
「ごめんごめん。でも、勘違いしたのは琴でしょ?」
「勘違いさせる言い方の話です。アレじゃ分かりませんよ」
「そう?だいぶ匂わせたんだけどなぁ」
「はぁ……」
昔からこの男はこういう人間だった。
溜息を吐きながら、落ちているサンダルを履きに戻って、あちらこちらに落ちている白い菊の花を全て拾ってゴールに向かって歩く。
ゴール兼スタート地点には園田と東堂君が立ってコッチに向かって手を振っていた。
「20時11分。ぴったりだね」
到着してそう瀬名君が言うと、園田が菊の花を抱えている私たちに近寄って来た。
「おかえり、猫屋と賽谷君」
「え」
「うん、ただいま」
「なんで菊の花なんて持ってるの?コレってチェックポイントの?まさか、全部持ってきちゃったの?」
「実は途中で住職の人に見つかって怒られてね。最初の方はそのままにしちゃったけど最後の方だけは回収してきたんだ」
「あぁ~。じゃあ、もうやめた方が良いよね。解散しようって橘さんに行ってくる。なんかあっちで二人してボーッとしてるんだよね」
園田はこの待っている間にも東堂君との仲を進展させたのか、「東堂君、行こう」と二人で連れ添って瀬名君の嘘を伝えに大野君と橘さんに声を掛けに行った。
チラッと去り際に東堂君と猿が此方を見てきた気がしたので、見ているぞという意味を込めて睨み付けておく。
兎に角、解散するならいい。それよりも気になることが出来た。
「……もしかして、私にだけ苗字を分からないようにしました?」
「うん。みんな、琴以外は僕の事は賽谷君って呼ぶね」
瀬名君に対してだけ苗字とか名前とかの概念が消えていた事に今気付く。どうやら、私に対して何か呪いをかけていたらしい。私はずっと初対面の時から瀬名君は瀬名君だと思っていたのだ。
グググッと眉根を寄せると、瀬名君に笑顔でヒョイと顔を覗き込まれる。
一泡吹かせてやったと言うような、ドッキリを成功させたと言わんばかりのムカつく顔だ。
そんな瀬名君を振り切りたいが為に黙って帰路を歩き出すと、瀬名君はそうすることは分かっていたとスッと私の横を歩く。
ほんの少し懐かしいと思う自分が怨めしい。
「昔から瀬名って呼んでたから僕の苗字なんて知らなかったでしょ?僕の名前は賽谷 瀬名。琴だけは今まで通り僕を瀬名って呼んでね?」
「私は琴じゃなくて、今は猫屋 琴歌です。今まで通り猫屋さんって呼んでください。さ・い・た・に・君!」
「あはは、つれないなぁ」
「うるさいです。ところで本当にただの疑問なんですけど……東堂君とは本当に友達なんですか?」
「ん?なんであんなのと?誰かそんなこと言った?」
「……ホント、相変わらずクソ」
「あぁ、口が悪いなぁ。もしかして他に聞きたい事があったりする?」
「ないので少し黙ってください」
「じゃあ、琴の聞きたい事が出来るまで勝手に話そうか」
「人の話を聞け」
クスクス笑う男はいつものペースで私と一緒に夜を歩く。昔の様に歩調を合わせて。