薄らいで消える前
『椎名が交通事故で死んだって』
グループチャットに吉田から投稿されたその一文に、返事をする者はいなかった。それぐらい唐突で、現実感のない出来事だった。誰もその事実を受け入れることができなかったんだと思う。俺も、その一人だった。
ベッドに潜りスマホを眺めていた。手が動かなかった。いつもなら、どんな小さな話題にもすぐ反応するクラスメイトたちも、この時ばかりは完全に沈黙していた。
俺は文化祭実行委員だった。グループチャットを作ったのも俺だし、クラスメイト全員を無理やりチャットに参加させたのも俺だ。椎名も当然その一員だった。普段は口数が少なく、積極的に発言することはほとんどなかったけど、クラスのために淡々と裏方で仕事をこなすタイプだった。
そんな椎名が交通事故で亡くなった――吉田が言っていることが事実だとしたら、文化祭の準備はどうなる? そんなしょうもないことが、俺が真っ先に考えたことだった。
不謹慎だと自分でも思った。けれど、明日から椎名がいなくなってしまうという事実を、どう処理すればいいのか分からなかった。あまりに急で現実味がなくて。
一時間が過ぎて吉田から再投稿があった。
『椎名の通夜、家族だけでやるってよ』
それは、俺たちクラスメイトが椎名と最後に別れを告げる機会さえ与えられていないことを意味していた。
誰も反応しなかった。通夜がいつ、どこで行われるのかなんて、俺たちには何の意味もないことだった。
椎名が死んだ――それだけが、スマホを持つ腕に重くのしかかっていた。
☆ ☆ ☆
翌朝、教室のドアを開けた瞬間、俺は時が止まったような感覚に襲われた。
───椎名が自分の席に座っていた。
現実が消し飛ぶような光景だった。俺は呆然と立ち尽くし、教室の空気を感じとった。教室にいる誰もが同じように固まっていた。言葉を失い、ただただ椎名を見つめている。
窓から差し込む朝の光が、椎名の体をぼんやりと透かしていた。まるで霧のように不確かな姿がそこにあった。椎名は静かにいつものように座っていた。
「‥‥嘘だろ」
隣にいた吉田が、低い声で呟いた。
間違いなく教室にいる全員が椎名の姿に気づいていた。しかし、誰もその光景を否定できなかった。彼がそこにいるという異様さ、体が半透明になっているという事実が目の前に存在していたからだ。
「どういうことだよ‥‥昨日、死んだって」
俺の耳元で吉田が小さく言った。俺に答えなんてあるはずもない。
「みんな席に着け、ホームルーム始めるぞ」
担任の先生の声が教室の前から響く。俺たちはハッとして、重い足取りでそれぞれの席に戻った。
先生が半透明の椎名に気づいたら‥‥それが気がかりで仕方なかった。
しかし、先生はいつも通りに出席を取り始めた。吉田、村井、佐々木――名前を次々に呼んでいく。ぎこちない返事が返ってくる。最後まで椎名の名前が呼ばれることはなかった。
先生は椎名のことが見えていないようだった。
「みんな、もう聞いていると思うけど親御さんから整理がつくまでそっとして欲しいって希望があった。来週、文化祭が終わったら改めていろいろ説明するから。それまで、みんなは普段通りに過ごして欲しい」
ホームルームの最後に先生はそう言った。そして、校内にチャイムが鳴り、一限目の授業が始まった。数学担当の先生も、やはり椎名が見えていないようだった。
隣の席の吉田が俺の袖を引っ張った。顔を見ると、明らかに怯えた表情を浮かべている。
「鳴海‥‥どうなってるんだよ」
俺に分かるはずもない。ただ一つだけ言えることはあった。これは、夢や幻覚じゃない。椎名は確かに俺たちの目の前にいるってことだ。
俺はスマホを操作した。授業中だが、そんなことを気にしている場合じゃない。グループチャットを開くと指が自然と動いた。
『知らないふりをしよう』
簡潔にそう打ち込んだ。この異常な状況にどうすればいいのか分からないのなら、いっそ無視して普通の生活を続けるしかない。
それが一番の方法だと思った。いや、他に何ができるというのか。
メッセージが送信されると、すぐに吉田のスマホが震えた。彼はそれを見て、驚いた表情で俺を見る。
「知らないふりって‥‥本気で言ってるのか?」
俺はゆっくりと頷いた。そもそも、椎名が自分の死に気づいたらどうなるか分からない。そのことが一番怖かった。
少しして、チャットに他のクラスメイトからも短い返事が返ってくる。
『了解』『分かった』『そうするしかないか‥‥』
みんな、混乱しているのだろう。俺が提案した「知らないふり」を受け入れるしかなかった。
授業中も椎名は静かに座り続けていた。俺たちは黙って彼を見ているしかなかった。
☆ ☆ ☆
椎名が死んでから二日が経っていた。俺たちは『知らないふり』を続けていた。
誰も椎名に話しかけないし、椎名も何も言わない。
授業中、俺は隠れてスマホを取り出し、グループチャットを開いた。そこには、文化祭の準備や日常的なやり取りが並んでいたが、誰も椎名のことに触れていない。暗黙の了解のようにクラス全員がその話題を避けているのが分かる。
けれど、その異常な状況にみんなの心は限界に近づいてると感じていた。俺は覚悟を決めてメッセージを打ち込んだ。
鳴海昴
『みんな、椎名のことどう思ってる? まだ、知らないふりを続けるべきか?』
吉田翔太
『俺は怖いよ、鳴海。椎名が何考えてるのか、全然分かんねぇしさ。でも、話しかけたら何かが起こる気がして』
佐々木彩音
『私も正直このままでいいのかなって思ってる。もし椎名くんが自分が死んだことに気づいたら‥‥それって、成仏しちゃうってことだよね?』
村井夏美
『椎名くんが戻ってきた理由って何なんだろう?』
田中美咲
『マジでどうするの? ずっとこんな感じじゃ文化祭の準備も進まないし。でも、椎名にどう接すればいいのか分かんない』
佐々木彩音
『椎名くんっていつもみんなのためにいろいろしてくれてたよね。掃除当番とか。文化祭の準備でも面倒な仕事を黙って引き受けてくれてた』
村井夏美
『そうだよね。みんなが嫌がる仕事をいつも椎名くんが黙々とやってた。私たちちゃんと感謝したことなんてあったかな?』
田中美咲
『椎名くんがいなくなってから気づいたけど、彼って本当に裏方でクラスを支えてたんだよね。自分から何も言わないから、みんな忘れちゃってたけど』
吉田翔太
『でもさ、結局、鳴海が言ってた通り知らないふりするしかないんじゃね? もし、俺たちが何か言っちまったら、それこそヤバいことになりそうだし』
鳴海昴
『今はまだ知らないふりを続けよう。様子を見て変化があったら、また話し合おう』
田中美咲
『うん、分かった』
佐々木彩音
『了解。鳴海の言う通りにする』
村井夏美
『それが一番安全かもしれないね』
再び静かな時間が流れる。スマホをポケットに戻し、俺は英単語が並んだ黒板を見つめた。
みんな、『知らないふり』を続けることにした。でも、それがいつまで続けられるのか、俺には分からなかった。
☆ ☆ ☆
昼休みの鐘が鳴り、俺は教室を出て階段を降りていった。クラスの雰囲気が重く、何かに押しつぶされそうだったから、無意識に静かな場所を探していた。
いつもは通らない階段の踊り場に差し掛かったとき、後ろから軽い足音が聞こえた。振り返ると、そこには佐々木彩音が立っていた。
「鳴海くん、ちょっと‥‥話せる?」
彼女の声はいつもより低く、どこか不安そうだった。俺は階段の手すりに寄りかかり、彩音を促すようにうなずいた。
「どうした?」
彩音はしばらく沈黙した後、小さく息を吸ってからぽつりと言葉を発した。
「椎名くんのこと‥‥私、ずっと好きだったの」
その言葉が耳に入った瞬間、心臓が一瞬止まったような感覚がした。彩音が椎名のことをずっと想っていたなんて、まるで知らなかった。俺は返事に詰まってしまう。
「そうだったのか」
なんとか言葉を絞り出すと、彩音は頷いた。そして、目を伏せたまま続ける。
「亡くなる前に、ちゃんと伝えたかった。もうその機会がなくなったって思ってた。それなのに、あんなふうに戻ってきて、何も言えずに、ずっと『知らないふり』をしてるなんて‥‥もう耐えられないよ」
彩音の声は震えていた。俺はその気持ちが痛いほど分かる。椎名が戻ってきたという異常な現実に向き合うのは誰にとっても辛い。
「じゃあ、告白するか?」
俺の問いかに彩音は黙り込んだ。唇を強く結び、何かを考えているようだった。しばらくしてから、再び口を開いた。
「好きって伝えたい。でも、怖い。もし私が告白して、椎名くんが自分が死んでいるってことに気づいたら、どうなるのか分からない。成仏しちゃうんじゃないかって」
俺は目を細め彩音を見つめた。彼女の言う通り、椎名に自分の死を悟らせることがこの世から去らせる引き金になる可能性があると考えていた。しかし、だからといって彩音の気持ちを隠し続けることが本当に正しいのか。
俺は心の中にわだかまっているものを自覚した。
俺が提案した『知らないふり』――それは本当に正しかったのか?
椎名に話しかけないことで、クラス全員が表面的には普段通りに過ごしていた。確かに、俺たち全員が日常を崩さずに生活できているように見える。だけど、内心ではみんな不安を抱えて、椎名の存在に怯えながら日々を送っていた。
そもそも、椎名が戻ってきた理由が分からない。俺たちが知らないふりをし続けた結果、椎名が成仏するタイミングを逃してしまっているのかもしれない。
「本当に、これでよかったのかなって」
俺は思わず口に出していた。
彩音が戸惑いを浮かべ「わかんないね」と口にする。
「知らないふりをしているのが、一番安全だと思ってた。でも、それで本当にいいのか、俺もよく分からないんだよ。あの時、知らないふりを提案したことで、みんなを変な状況に巻き込んでしまってるんじゃないかって」
彩音は自分の胸に手を当て、やがてこう口にする。
「鳴海のおかげで、私は何とか気持ちを整理できたんだと思う」
「だったらいいけど」
俺はそっと呟いた。
「私、伝えたいな。このままじゃ、ずっと後悔しそうで」
彩音の瞳には涙が滲んでいた。俺はその瞬間、彼女の背中を押してやるべきだと決心した。もし、彼女が告白することで椎名が成仏するとしてもだ。
「分かった、告白しよう。協力する」
彩音の瞳には迷いが残っているようだった。しかし、大きくうなずいてこう答える。
「鳴海、ありがとう」
彩音は小さく微笑んだ。その笑顔にはまだ不安が残っていたが、どこか覚悟が決まったような強さも感じた。
「大丈夫、大丈夫だよ、きっと」
彩音はもう一度頷き、階段をゆっくりと降りていった。彼女の背中が見えなくなった後も、俺はしばらく立ち尽くしていた。
――本当にこれが最善の策なのか
俺が『知らないふり』を提案したことで、事態が悪化しているのかもしれないという不安が胸の奥で渦巻いていた。
☆ ☆ ☆
文化祭前夜、放課後の教室は異様な静けさに包まれていた。普通なら文化祭の準備にわいわいと賑やかな声が響くはずの教室だったが、今日だけは授業中のように全員が席についていた。
誰一人、教室を出ようとしない。これから起こることを、俺がみんなに伝えていたからだった。
椎名はいつものように自分の席に座っている。半透明のままぼんやりと机に向かい、まるで何も変わらない日常を繰り返しているように。
そんな教室で、彩音だけが静かに立ち上がった。彼女の動きに、クラス全員が一斉に視線を向ける。俺も、吉田も、村井も、田中も‥‥みんなが息を飲んで見守る中、彩音は震える足で椎名の前に立った。
教室の空気が一層重く静まり返った。
彩音は深呼吸をしてから、椎名に向かってゆっくりと口を開いた。
「椎名くん‥‥」
その一言が教室に響く。彩音の声は小さいけれど、その場の全員にしっかりと届いた。椎名は無表情のまま彩音を見つめている。
「私、ずっと伝えたかったことがあるの」
彩音は手をぎゅっと握りしめゆっくりと口にする。
「椎名くんがクラスで頑張ってたこと私は知ってたよ。掃除当番とか、文化祭の準備とか‥‥みんなが嫌がる仕事をいつも椎名くんが引き受けてくれてた。誰も何も言わなかったけど、私は気づいてたの。目立たない椎名くんがクラスを支えてくれてたこと‥‥」
その言葉に、クラスメイトたちが顔を見合わせた。彩音の言う通りだった。椎名は目立たないところで、みんなのために働いていた。
椎名の静かな貢献を誰も気に留めていなかったが、彩音だけは前から気づいていたのだ。
「そのことを知った瞬間、私気づいたの‥‥椎名くんのことが好きなんだって」
彩音の声は震えていたが、言葉には決意が込められていた。
「椎名くんの優しさを知って、私は好きになったの。ちゃんと伝えたかった。あの日、もう二度と伝えられないんだって絶望した。でも、こうして椎名くんが戻ってきてくれたなら‥‥」
彩音は深く息を吸い、椎名の顔をまっすぐ見つめた。
「私、椎名くんのことがずっと好きでした。今でも、あなたのことが好きです」
教室に静寂が訪れる。椎名は何も言わない。彼は相変わらず静かに座って彩音を見つめているだけだった。
───その時
クラス全員のスマホが一斉に震えた。誰もが驚いたようにポケットやカバンからスマホを取り出す。
グループチャットに新しいメッセージが届いていた。
椎名大和
『ボクもずっと好きだった』
教室中に広がるスマホの光が、その言葉を照らし出すかのように揺らめいていた。全員が信じられないように画面を見つめていた。椎名がメッセージを送ってきた。
彩音も涙をこぼしながら、スマホを見つめていた。その目は驚きと安堵が混ざり合っていた。
そして――椎名の姿が、ふっと薄くなり始めた。
最初はぼんやりとした半透明の姿だった椎名が、徐々に霧のように消えていく。輪郭が薄れ、そして、静かに消えていった。
「さよなら‥‥椎名くん‥‥」
彩音の小さな声が教室に響き渡った。
椎名のいなくなった教室でクラスメイトたちは誰も言葉を発することができなかった。スマホに残る椎名の最後のメッセージだけが存在したことを証明していた。
静かな余韻の手のひらが包み込むように教室を覆っている‥‥。
☆ ☆ ☆
あれから、何年が経ったのだろう。
俺は大人になって、日常の忙しさに追われる日々を送っている。仕事に追われ、家族と暮らす家に帰ると、過去のことなんて忘れてしまいそうになる。けれど、ふとした瞬間、あの出来事が頭をよぎることがある。特に、夕日が差し込む静かな場所で――─あの放課後を思い出させるかのような光景を目にする時だ。
静かにそこに座っていた椎名
あのとき、俺たちは『知らないふり』をしようと決めた。それが最善だと信じた。けれど、今になって思えば、俺たちは怖がっていただけだったのかもしれない。クラスメイトの突然の死に向き合うのが怖かったんだ。
椎名はいつも静かで、口数が少なく、目立たない存在だった。けれど、いなくなったことで俺たちは椎名がどれほどクラスを支えていたかに気づいた。いや、彩音が気づかせてくれたんだ。
椎名が完全に消える瞬間、微笑んだように見えたのは俺の勝手な思い込みだろうか。
あの日から、椎名のことを誰も口にすることはなかった。それでも、あの出来事は俺たちの心に刻まれている。彩音も、翔太も、そして他のクラスメイトも、あの日を忘れることはできないだろう。
ふと、スマホを手に取り、古いグループチャットを開く。そこには、あの日の最後のメッセージがまだ残っていた。
いろいろ実験してみた。習作って感じです。




