白く覆われた村
「……おぉ、来たね。さあ、座って」
老人はそう言って、彼に微笑んだ。
――か細い、蝋燭の火みたいだ。
暖炉に目を向け、老人の顔と見比べた青年はますますそう思った。
彼は次に窓の外を見た。今夜もまた雪が降っており、外に出ることは難しそうだった。ふと、それが残念ではなく、むしろどこにも行かなくて済む言い訳になると感じ、彼はわずかな心の動揺を覚えた。
「ふふふ……ああ、すまんね。嬉しくてねぇ。君がここに来てから……三日だな。ようやくこうして一緒に食事ができるんだなぁと」
「……はい。ありがとうございます」
何か言わなければならないと感じ、彼はそう答えた。笑みの一つでも見せれば、かわいげがあるように見えただろうかと後から思ったが、表情筋を動かす気力までは回復していなかった。
どのみち、部屋の明かりは暖炉の火だけだった。見えなかっただろう。火は落ち着きのない子供のように揺らめき、青年の顔を浮かび上がらせてはまた闇に隠した。老人が椅子から立ち上がり、薪を足すと、火は食事の催促をやめた。
「ここは少し寒いだろう、若い人には。ははは、年寄りは体の感覚が鈍くてね。大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫です……」
「よし、それじゃあ、一緒にお祈りをしようか」
席に着くと、老人が彼に向かって手を伸ばした。分厚く、傷のある手だと彼は思った。老人の顔に視線を移し、目が合うと老人は優しく微笑んだ。少しの間を置いて彼はハッと気づき、おそるおそる老人の手を握った。
「えー、天におられる神様よ。恵みに感謝します。この国の――」
老人が口にする祈りの言葉を彼も真似て口にしたが、腹の虫が鳴くのを押さえることに集中していたため、祈りの言葉は彼の頭にまでは入ってこなかった。
「それでは、いただきます」
「いただきます……」
木製の器とスプーンは静かな食卓を演出した。無言であったが、居心地は良かった。彼は一瞬、何年もこうして二人で食事をともにしてきたような気がした。父と息子として。
もちろん、違うだろうが、完全に否定はできない。今、頭が痛んだのは偶然なのか、それとも記憶の糸を手繰ろうとしたせいなのか。
「それで……何か思い出したことはあるのかな?」
老人が訊ねた。彼は首を横に振った。
ここに来てから三日が過ぎたが、どう頭を振っても何も思い出せなかった。
山々に囲まれた小さな村。なぜ自分がここに行き着いたのか、いや、行き倒れたのか、まったく見当がつかなかった。それどころか、自分の名前すらもまだ思い出せずにいる。
「まあ、焦らなくてもいいさ。気長にね。そうだ、明日、みんなに挨拶に行こうか」
彼はコクッと頷いた。その拍子に「ありがとう」とボソッと感謝の言葉が口からこぼれ落ちた。老人がちらっと自分を見たことに気づいた彼は落ち着きなく食事に手をつけ始めた。
朝になった。家の前で彼は太陽を見上げて伸びをした。
「気持ちいいよなぁ。さあ、行こうか。緊張しなくていいよ」
彼は老人に保護され、家に住まわせてもらってからずっと部屋にこもりきりで、食事も部屋まで運んでもらっていた。しかし、昨夜話したとおり、外に出て村の住人に顔を見せに回ることになった。
「おーおーおー、少しは元気が出てきたみてぇだなぁ」
「これからよろしくな」
「いい息子さんができたみてーじゃねえの」
「あとで川魚を持って行ってやるよ。あー、釣り竿は? その人に作り方を教えてもらうといい」
「若いなぁ。春にうちの畑を手伝ってくれ。おらぁ、もう腰がなぁ」
村は自給自足を主としており、若い働き手は歓迎されるようだった。彼は、湧き上がったこそばゆい感情に戸惑いつつも、頭上から降り注ぐ太陽の光とは別に、胸のうちに温かなものが込み上げてくるのを感じていた。
一週間、二週間と時間が経つと、その温かさは顔に現れ、周囲にも分け与えることができるようになった。
「おはようございます」彼は老人に挨拶した。
「おお、おはよう。今日も手伝いが欲しいそうだ」
「ええ、向かいます」
「ふふふ」
「なんですか?」
「いや、君が来てくれたおかげで村に活気が出てきたなぁと思ってね。村のみんなに笑顔が増えてきているよ」
「あはは、嬉しいです。でも、元々そうだったと思いますよ。皆さん、優しくて……」
「ん? どうした?」
腕を押さえ、俯く彼に老人が気づき、訊ねた。
「……いや、その、どうして僕を受け入れてくれるのかって。僕が誰で、何者なのかわからないのに。気にならないんですか?」
「君は気になるのか? 自分が何者なのか」
「それは……気になります。でも……」
「もし、自分が嫌な人間だったら」
「え?」
「そう考えたんだろう? 知るのが怖い、と」
「……はい」
「過去がどうあれ、今の君は素晴らしい人間だよ。みんなから必要とされ、そして君はそれに応えようとしているじゃないか。ただ受け取るばかりではなく、優しさを返そうとしている。もう一度言おう。君は素晴らしいよ」
「……ありがとうございます。行ってきます。とう、あ、行ってきます!」
「ああ、いってらっしゃい」
彼は少し慌てた様子で家を出て行った。
「父さん」と、そう言おうとしたのかな。老人はそう思い、ふふっと笑うと家の外に出て、空を見上げた。頭上には今日も青空が広がっている。まだ雪が残っているが、最近は夜も雪が降らなくなった。春が近いのかもしれない。あるいは彼が来たからか。
老人は眩しそうに目を細め、下げた視線の先にある小さくなった彼の背中に向かって微笑んだ。
家の中に戻った老人は机の引き出しを引き抜き、床に置いた。そして、机の中に手を入れ、その奥に入っていたものを掴み出すと、目を細めて見つめた。
――彼もまた、そうなのだろうな。
もう何度、食い入るように読んだだろうか。今よりずっと昔、この村に時折送られてくる物資の中に緩衝材として入っていた数枚の新聞紙。見張りが立てられ、なぜか出ることを許されないこの村の中に、唯一入ってきた外の情報。
死刑廃止――記憶除去――目を引く数々の内容の中で最も目が離せなかったのは、偶然にも載っていた自分の写真と、その記事にあった悍ましい犯罪の内容だった。
――思い出せないことは幸せなのかもしれない。
老人は腕を擦り、服の下にある入れ墨を疎ましく思った。