夏休み 中編
『息子は活発な子でした。彼が何故死ななくてはならなかったのか?それを疑問に思わない日はありません。
ですが…下を向いてばかりいては、天国にいる息子へと顔向けできません。
理由はあったはずなのです。
私達は死に物狂いになり、ついにそれを見つけました。
それが、杜撰な管理体制だったのです。
しかし相手は大企業。
長らく続いた裁判では、裁判官から幾度も和解を勧められました。
私達は全てを拒否して、真っ向から争ったのです。
そして、裁判所がある街への多額の献金という理不尽に敗れました。
妻は寝込みがちになっています。
悔しくも息子は取り戻せませんが、私達の未来は取り戻せます。
どうか。どうか、よろしくお願いします』
請負人から見て、その父親も随分と憔悴しているように窺えた。
しかし、それはそれ。依頼は依頼である。
そこに悪があるかどうか。
今回の依頼には、本当に悪意があったのか。
かくして、その依頼は受理されたのであった。
「五十嵐くんは…泳がないみたいだね」
流れるプール。
そこでクラスメイトと遊んでいる遼河は、誰にでもなく喋り出した。
話題に出された翔は、プールサイドでも変わらず一点を見つめていた。
「泳がないんじゃなくて、泳げないんだろ?」
「ダメだよ。憶測で人を批判しては」
クラスメイトの一人。出席番号八番の田代 秀平が遼河の言葉に返事をした。
秀平は文武両道でありサッカー部に所属しており、クラス一のモテ男でもある。何よりも周りから好まれるところは、文武両道で見た目の良いことを鼻にかけないところであった。
秀平の言葉に苦言を呈する遼河だが、秀平には翔を批判するつもりがなかった。
ただ事情を知らないのだから、泳げないと思っただけなのだ。
自分に勝る何かを持っている秀平を落とす。
遼河のその姿勢は知っていたので、そのことについて秀平も相手にしないし、他のクラスメイト達も聞き流していた。
しかし。そこに聞き流せない者が一人。
「別に泳げないわけじゃないんじゃない?だって、元々あんな奴よ。翔はね」
「そうだな。確かに協調性がない奴だな。悪い奴じゃないけど」
近くで二人の会話を聞いていた香織の発言に、秀平は同意を示した。
これが面白くないのは遼河だ。
上手く秀平を誘導出来たかと思えば、結局誰の評価も変わらない。
これ以上の問答を続けても自分の印象が悪くなるだけ。
そこに気づいている遼河は苦笑いを残して話を終わらせることに決め、そのまま三人は離れて行く。
(何で、私がフォローしなくちゃいけないのよ…)
香織の内心の愚痴も人知れずに残して。
クラスメイトが各々に時間を潰している中、翔は一人考え事をしていた。
それは交友関係のことなのか、それとも別の何かなのか。そもそも何も考えていないまである。
「紗絵。そろそろ上がろうか」
「ええーっ!?パパ、もう少しだけ!もう少しだけ良いでしょ!?」
「ママが待っているからね。また明日遊ぼうね」
そんな翔の近くでは、可愛い我儘を言う娘を優しく誘う親子の会話が。
時刻は夕方17時。
これよりこのプールでは12歳以下の入場が禁止される。
ここに来ている家族連れは、小学生以下の子持ちばかりだ。
中学生にもなると家族旅行へ進んで参加する子供は少ないということ。
よって、このプールは翔達の貸切に近いものとなった。
「状況は適切。これより作戦を実行する」
やはり翔は考え事をしていなかった。
何もせずプールサイドに腰を下ろした体勢で行っていたのは、時を待つこと。
そして、その時は満たされたのだった。
「えっ!?ちょっ!!?」
「あぶっ!ぷはっ」
様々な声がプール内から聞こえてくる。
リゾートのプールであるから、それは何も不思議なことではないのだが、不可解なのはその声がどれも慌てふためいていたこと。
「沙耶香!掴まって!」
「あ、ありがとう!香織!」
流れるプール。その流れは穏やかであるべきなのだが、急激に激流へと変わってしまった。
何の予兆もなく突然訪れた変化に、普段泳げる者でも溺れそうになっていた。
目に入ったのは溺れるクラスメイト。香織は手を伸ばし、プールサイドへとクラスメイトを引き寄せたのだ。
「何…これ?」
「わかんない。急に水の中へ引き込まれそうになったの…」
香織は事態が掴めずに呆然とし、香織より小柄な武藤 沙耶香は先程の状況を理解すると恐怖に震えていた。
プールは突然の出来事に恐慌状態へと陥る。
至る所で『誰某が溺れている』や『引き上げてくれ』などの言葉が殆どだ。
何故、こんなことになったのか?
それは少し前に遡ることとなる。
プールでクラスメイトが楽しんでいた時、翔の姿は屋外にあった。
ここはドーム型のリゾート施設の外周。誰もいないその場には、翔の姿のみが確認できた。
その翔であるが、ここへ来るまでにプールエリアを出る必要が当然にあった。そのプールを出た時に更衣室を通ったのだが、手ぶらであった筈の翔は更衣室を出てくる時に何故か鞄を背負っていた。
恐らくロッカーへと何者かが預けた荷物なのだろう。
今はその中身を漁っているところ。
ガサッ
翔が鞄の中から取り出したのは、小さな黒いプラスチックの容器と、モンキーレンチが一つ。
それを手に取ると鞄は置いたまま、手慣れた手つきで施錠されている扉の鍵を服から取り出した短い針金一本で開けた。
その扉には、関係者以外立ち入り禁止の文字が。
キィ…
扉を開けて中へ入ると大きな鉄で出来た配管がいくつかあった。
耳をそば立てると、微かにではあるが水の流れる音が聞こえる。
キッキッキッ
その配管の一つ。
ボルトでしっかりと留められた蓋を外していく。
蓋を外すと配管の中が露わになった。
中は大人一人が通れるくらいの広さ。
水量はチョロチョロ程度。
中を確認した翔は、躊躇することなく飛び込んでいった。
中は真っ暗だがここは配管。
途中で分岐していることもなく、一本道が続いていた。
その道を突き当たるまで進むと、格子状の二枚の鉄の板が二重になっている壁と突き当たる。
どうやらここはプールの底のようだ。
少しだけ二枚の板がズレており、格子状のその隙間から水が少しずつ溢れてきていた。
この二枚の板で水の排水量を調整しているのだろう。
それを確認した翔は、持ってきた黒いプラスチック容器を開ける。
中身はゼリー状の何か。
それを備え付けのコテで掬うと、鉄の板の繋ぎ目へと丁寧に塗っていく。
中身は希塩酸を濃縮したもの。更に、早く効果が出るように改良された薬のようだ。
翔はこの薬が何なのかは知らないが、効果は事前に聞いている。
薬を塗った後、先程までいたプールサイドまで戻り、何食わぬ顔をして座り込むことに。
そこから丁度一時間後。
鉄の板の繋ぎ目が水の圧力に耐えられなくなるまで、腐食が進んだ。
「無事か?」
事が起こるまで何食わぬ顔をして座り込んでいたが、被害者を出すわけにはいかない。
必要悪であって、本当の悪になってはならないからだ。
そこで話したことがある香織へと、クラスメイトの状況を聞いた。
「翔!女子は全員いるわ。男子は…秀平に聞いてみて」
「秀平。出席番号八番の田代秀平か。わかった」
「こんな時にまで…」
驚きも慌てた様子もない。
更には出席番号まで。
もしかしたら誰か怪我をしていたり、最悪な事態も起こり得るのに。
憤りそうになる香織だったが、翔の所為ではないと思い直す。
出した言葉を飲み込む為に、濡れてしまったポニーテールを絞って心を落ち着かせるのであった。
「田代秀平」
「ん?ああ…翔か」
クラスメイトの男子を取り纏めている秀平の後ろ姿へと声を掛けた。
「無事か?」
先程と同じ言葉だが、誰も目の前の自分のことだとは思わない。
秀平も自分に対してではなく、クラスメイト全体の意味で捉えた。
「…遼河が見当たらないんだ」
「理解した」
「え?…おい。どこに行くんだ?緊急時くらい、周りと合わせろよ!」
秀平の一言で全てを理解した翔。
その翔はすぐに踵を返した。
しかし、不可解に思うのは秀平。
緊急時なので固まって過ごすのが適切だと判断し、一人奔走してクラスの皆んなを集めているのに。コイツは……
普段冷静な秀平には珍しく、怒りに任せた言葉が口をついて出てしまった。
それでも、翔には届かない。
「危ないから下がって!」
プールサイドをゆったりとした足取りで歩く翔へ向けて、プールに常駐しているライフガードが叫ぶ。
その言葉には何の反応も示さない。
翔が見ているのは、プールの中だけ。
「お、おい!やめろ!」
ここに来て漸く、管理者側は状況を理解した。
何らかの原因でプールの水が抜けていると。
故に、ライフガードとてプールへの入水は出来ない。
プールの水が抜ける勢いは人が抗えるものではないと知っているからだ。
そんなライフガードの目の前から、翔は消えた。
水量が少し減っているとはいえ、中央部分は二メートル以上深く、未だ元気よく水を吸い込んでいる。
そんな中、翔は水中から中央を目指して進んでいくのであった。
水が流れる時、渦が巻かれる理由を知っているだろうか?
勘違いされている現象の一つに、北半球南半球での違いがある。
コリオリ力と呼ばれる自転の力が加わる作用なのだが、その力は酷く微力なのだ。
実際、プール程度のサイズであればその影響下には置かれない。
プールに渦巻いている力は、元々の流れるプールなどの人為的なものや、人が移動した時に作られた流れ。
閑話休題。
そんな渦巻いているプールだが、翔は真っ直ぐと進んでいく。
プロの水泳選手であれ、この流れに逆らうことは難しい。
そんなプールを翔は関係なく進めている。
どうやってか?
それはこうなる事を想定した、翔の準備あってこそのものだった。
プールの排水口。
水中でそれを確認した翔は、排水口の蓋である金網へと押し付けられているナニカも確認した。
(呼吸なし、脈はあり)
そのナニカを人外の力で力任せに排水口から引き剥がすと、プールの底を伝ってそこから離れていくのであった。
ザバッ
プールサイドでひょっこりと顔を出した翔とナニカ。
ナニカはもちろん、行方不明であった遼河である。
遼河を水面へと仰向けにし、先ずは翔がプールサイドへと上がる。
そして、遼河を引き上げた。
「肺へ水を吸い込んだ可能性が高い」
そう独り言つた翔は、遼河を仰向けにして胎に膝を当て、背中を強めに叩く。
それを何度か繰り返すと、遼河に反応が。
「ガハッ…はっはっはっ…」
「自発呼吸の再開を確認。離脱する」
大量の水を吐き出した遼河は、短い呼吸を繰り返し、やがて落ち着いてきた。
それを確認した翔は障害物の多い場所からその姿を消した。
そう。助け出すポイントさえも確認済みであった。
唯一の不都合といえば、飛び込む場面をライフガードに見つかってしまったこと。
まあ、一期一会のライフガードだ。
それに翔の見た目は酷く特徴がない。
一度見たとしても、ハッキリとは覚えていられない見た目なのだ。
それも加味し、姿を隠す事なくプールサイドから探し物をしていたのだ。