始まりの時2
「君がエージェント『ワン』、かね?」
秘書官に連れられて老舗料亭の個室へとやって来た男。
その男へ向けて、多くの政治家達を代表して一人の老年の男が声を掛けた。
秘書官が連れて来たのは、酷く特徴の薄い20…いや、30…4…。歳が不明な男。
その場にいる全員の視線を集めるが、一度視線を外せば二度と見つけられないかもしれない。
そう思わせる人物だった。
見たところ日本人に思う。
「そうです」
声にすら特徴がない。
発声した音すら記憶に残らないと感じる。
「君の『ワン』とはどういう意味だろうか?中国の名前かい?」
「いいえ」
「では、英数字の1かな?」
「いいえ」
「……」
まさか犬の鳴き声ではあるまい。
そう思うも、これ以上の質問を続ける気にはなれなかった。
何がこの男の琴線に触れるのか分からない。
どれ程のことが出来るのかすら未知なのだ。
一応世間話から何かしら掴もうと試みたが、これ以上は寿命が縮んでしまう。
この会談の前に、政治家達だけの話し合いがあった。その中で、目をつけられたくないという理由から、話し合う代表者すら中々決まらなかったのだ。
ここまで来て尚。
そうした政治家達の危機感から、この男は最早時限爆弾扱い。
これ以上の無駄話は意味をなさないどころか、我々の命運さえ尽きかねない。
そう考えた老齢の政治家は本題へと入ることに。
「君に頼みたい仕事があるのだよ」
「依頼を受けるかどうかは内容によります。先ずはお話を伺いましょう」
「助かる」
老齢の政治家は秘書に目配せをし、その秘書官が説明を始めた。
内容は以前の通り。
打つ手なしに思うも、藁にもすがる思いでこのエージェント『ワン』へと声をかけたのだ。
説明が終わると暫し静寂の時間が訪れる。
それを壊したのはエージェントワン。
「成功条件は『円の価値が元に戻る』ということで」
このまま行くと、円の価値はゴミ同然となる。
戦後暫くまで使用していた銀の硬貨であれば幾許かの価値は認められるものの、紙幣は文字通り紙切れとなる。
円の価値が保たれるということは、この経済戦争を生き残れるに等しい話。
飛びつく様に、老年の政治家は答える。
「む、無論!それで結構だ!皆さんも。よろしいですな?」
その政治家が言葉の後に周りを見渡すと、周囲にいる政治家達からは頷きが返ってきた。
ワンを知らない者達は半信半疑ではあるものの。
「では、依頼を受けます。期限と報酬については別途相談ということで。
それで…依頼を受ける上で、用意していただきたい物が幾つかあります。
なに。あなた方なら簡単に用意出来る物ですので、そう身構えなくとも問題はありませんよ」
依頼内容を聞き終えると饒舌になるエージェント『ワン』。
それに気圧されている、海千山千であるはずの政治家達。
何にしても、日本の命運は人知れずこの男に託されたのだった。
ワンが日本政府に求めたもの。
それは架空の人物の身分証。
そしてそれは偽造ではなく、日本が保証している歴とした本物を。
それらは簡単に用意できた。
当たり前だろう。彼等がその気になれば法さえも変えてしまえるのだから。
もう一つは、その架空の身分に対しての特権。
海外に足を運んでも、荷物検査などが行われないといった特権だ。
それは実際に存在している特権。
「では、加藤大使代理。良い旅を」
空港で上級職員から挨拶を受けるワンは、加藤『大使代理』と呼ばれていた。
多くの国連加盟国に於いて、大使の荷物は検査を受けることがない。
理由としては外交上の機密を運んでいるケースが考えられる為、その機密を守る建前から荷物検査はパスされるのだ。
親善目的で世界中に派遣される大使を疑い、検査をすることなど親善からかけ離れている。
そうした理由もあり、大使館へ勤める者に対しての入国審査はないに等しいのだ。
あくまでも代理なのは、大使であれば世界ベースで認知されてしまうから。
代理であればどの国へ赴いても代理で済ませられるので、今後いつでもどこでもこの身分を使うことが出来る。
そして、訪れていたのはこの国だけではなかった。
日本の政府専用機を借り、飛び回ることこの国で四カ国目。
何故その様なことをしているのか?
勿論依頼の為なのだが、敵であるはずのアメリカとソ連はその中に未だ入ってはいなかった。
そして、今回の件でエージェントワンはその二カ国を訪れる気がない。
「その情報は確かなのですね?」
イギリスの高官である男の元を訪れたエージェントワンは、一つのある情報を渡す。
「その名簿に並んでいる人物へ、直接確かめては如何でしょうか?
貴国の方も載っておられるでしょう?」
「確かに…では、確かにお預かり致します」
「はい。くれぐれも処分…というか、扱いには注意してください。焼却することをお勧めしますよ。何があるかわかりませんからね」
ワンの言葉に身を固くする男。
これは脅しではない。
もし、この名簿が白日の元へと晒されてしまえば、自身の立場どころか、国の信用すらも失くしてしまいかねないからだ。
「も、勿論ですよ」
「結構。では、私はこれにて」
秘密裏に行われた会談は終わり、エージェントワンはその場を後にするのであった。
残されたのは、イギリス政府高官と、一冊の名簿。
これにて、日本に巻き起こった人災は幕を下ろすこととなる。
ワンは何をしたのか?
そして、結末は……
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『何故、人は同じ過ちを繰り返すのか。
武力戦争に負けたのは必然だった。
経済戦争も同じだろう。そもそもの物量が違うのだ。
それなのに、冷戦では勝てると考えたのだろうか?
いや、そうではないのだろう。
『勝ったことがある』
その経験が全てを狂わせているのだ。
これまで勝てば全てを得て、負けた時に失くしたモノは少なかった。
この甘い果実には大国の思惑も含まれているというのに、それに気付かず何と愚かなことか。
だが、それも良い。
我々の生きる日の本は、そういった歴史を積み上げてきたのだ。
失敗も成功も、後世が勝手に決めてきたこと。
その時代を生きる日本人は、その時を精一杯慎ましく生きてきたのだ。
私の愛する家族である日本人が日本人である限り、私は精一杯の力を尽くすのみ』
これはエージェントワンが若かりし頃抱いた思想。
この頃のエージェントワンは、元々とある軍隊に所属していたが、物理的な戦争が終わり軍の解体と共に姿を晦ませていた。
ワンに残されたのは、戦後不必要なはずの技術だけだったが、それを生かす仕事には就いていた。
それに正式名称こそないが、『忍び』『暗部』『草』『工作員』などと様々な呼び方で呼ばれていた。
「時は来た。私の持ち得る全てを使い、この日本国を列強諸外国の魔の手から必ずや守って見せよう」
誰もいない執務室でそう呟くのは、政治家達から依頼を受けたばかりのワン。
「これまでは単独で出来る仕事をしていたが…政府が後ろ盾につくのだ。これからは国を守れるほどの組織作りが可能となる。
私の体力はそろそろ下り坂に入ってしまう。この命尽きる前に、必ずや理想の組織を…」
理想の国造りではない。
そこに関与する気はさらさらないのだ。
自分がそこに関われば、間違いなく列強を追い越し、経済的にも優れた国を造ることが出来ると信じて疑わない。
しかし、そうではないのだ。
ワンの理想はワンだけのもの。
それは真実日本とは呼べなくなってしまう。
ワンは愛しているのだ。
この間違いだらけの日本を。
子煩い隣人を。
すれ違うだけで頭を下げる奥ゆかしい他人を。
だから、自らの理想を押し付けたりはしない。
押し付けて出来上がったものは、結局は理想ではなく、偽物の何か別のモノになってしまうのだから。
故に見守る。
外敵から人知れず守り。
誰かを喰いものにする害を排除する。
そんなことが出来る組織。
それを創りたいと望んでいた。
「大事の前に、小事を片づけようか」
ワンは政府からの依頼を小事と断言する。
頭の中には既にプランが出来ているのだから、後はそれを行えるかどうかだけ。
「この依頼に対しての準備は万全。ふふっ。依頼料が高くつくことになろうとは、ね。彼等はまだ気付けないだろう。
いや、死ぬまで気付くことがないかもしれないね」
ワンが日本政府へと求めた依頼料は、金銭の他にもう一つ。
ワンが新たに立ち上げる組織について、詮索はおろか、敵対することを禁止するという法案を定めるというもの。
これには当然待ったが掛かるも、ワンの交渉の前にはすぐに可決することとなった。
『国民は反対しませんよ。何故なら、その新たな法により護られるはずの機関は、実在する公的機関なのですから』
掻い摘んで説明すると
国が新たに機関を作り、そこを護る法案を可決させる。
その機関は機関としてちゃんと存在させ、その機関にワンが創る予定の組織だけを加盟させろという話だった。
「これで、我が組織は設立を前に国からの支援と後ろ盾を手に入れたわけだ」
公的機関であれば予算が組まれる。
支援とは、機関のその予算ということ。
そこに所属しているということは、政府公認の許可証を所持していることと相違ない。
後ろ盾とは、日本の名前を使い放題ということ。
「さて。取らぬ狸の皮算用はこれまでとし、仕事を始めようではないか」
向かう先は空港。
そこには政府専用機が待機しているはずだ。
紺のスーツを着て帽子を被り、茶色の革鞄を左手に提げるとその部屋を後にした。
ワンが退室して三十分後。
誰もいない部屋は爆発により消し飛んだのだった。
少しずつ、組織の成り立ちとオリジナル(ワン)の隠された所を出していきます。
ワンという名前には様々な意味が込められていますが、全てを説明しません。
英数字の1でもあり、中国系の王という名でもあります。勿論、犬の鳴き声でも。
簡単にいうと、『そのどれでもない』や『理由がない』ということです。
『意味もない』ということでもあります。
関連される何かを示さないことにより、ワンという名前は暗闇に紛れるのです。