雪解け
『1-A五十嵐翔さん。放課後、理事長室までお越し下さい』
冬の合間にも暖かい日は存在している。その日数が多くなってきた頃、久しぶりに呼び出しが掛かる。
「久しぶりの呼び出しね。何かあるなら教えなさいよ?」
隣の席の無関係な奴と俺は同じ感覚だったのか…
そもそも・・・
「何かあっても教えられるわけないだろう?」
「そうだけどっ…!そうじゃないのよっ!」
「…どっちなんだ」
香織と知り合ってもうすぐ一年が経とうとしているが、よくわからないままだ。
いや。寧ろ謎は深まっている。
「困ったことがあったなら言って。て、ことだと思うよー」
俺の疑問に答えたのは、島谷だった。
「ち、ちが…」
「ちが?」
「わない…」
はあ…面倒な。
「よくわからんが、俺は行ってくる」
二人は会話を続けるも、人付き合いの基本として一応の断りを入れ、俺は理事長室へと向かうこととした。
「座りなさい」
俺にとって、神のお告げに等しい言葉。身体は勝手にソファへと腰を下ろした。
久しぶりにここへ来たが、室内に変わった様子は見られない。
「少しサンプルが欲しくて呼んだのだよ。目立たない背中のね」
アパートには、それこそ毛髪から何からサンプルになりそうなモノはある。
それでも足りないということは、生きたサンプルを求めているということ。
所長は懐からメスを取り出し構える。
俺は何の疑いもなく、上着を脱いでシャツを捲り、背中を晒した。
「うむ。肉体は順調に成長しているようだね。この辺りで良いか」
スッ
金属という異物が音もなく背中から入るが、痛み自体は大した事はない。
才原は人体のスペシャリスト。それは疑いようもないし、疑う意味もなく、身をもって知っていることだった。
これまでの鍛錬では、無駄に痛みを与えられてきた。
痛みに耐えるという観点からすると無駄ではないのだろうが、俺からすると、どれも死んだ方がマシな程の激痛を伴っていたからな。
しかし、今回は真逆。
まるで痛覚を司る神経を避けているかの様に、異物感から予想される痛みがやってこなかった。
「どうだろう?違和感はあるかね?」
処置が済み、シャツを羽織ったタイミングで声を掛けられる。
言葉の通り、身体を動かして違和感を探すが、切られる前と何ら変わりない動きが出来る。
「問題ない」
「用は済んだ。戻りなさい」
才原の言葉に頷いて応え、俺は踵を返した。
その前にチラと才原の手元が視界に入る。
銀のトレーに載せられた異物は、薄ピンク色をした見慣れたモノだった。
「どうでしたか?」
サンプルを持ち、研究所へと戻ってきたばかりの才原へと、恵が声をかける。
「それはどちらの意味かね?」
「勿論、ハニーの状態についてです」
もう一方は、上手く採取出来たかどうか、だろう。
それについて恵に疑いの一切はなく、才原もそれがわかっていながら聞き返した。
理由としては、答えづらいから。
「表面上は変わりない、が」
言葉を区切り、一度呼吸へ意識を向ける。
「我々の知らないナニカへと、変質しているのだろうね」
「肉体への変調はまだ見られません。必ず間に合います」
「変調は現れるだろうね。落とし所としては、90%。それ以上は受け入れられない」
変質とは、自我の目覚め。
変調とは、肉体そのもの。
「兎に角、後二年以内には完成させる。このサンプルと程近い被験体を」
「はい。照合を始めます」
指示を受けた恵はお喋りをやめ、崇拝する才原を満足させるべくコンピュータの操作を始める。
翔から得たサンプルを機械に掛け、データを読み込み始める。
その仕事ぶりをぼんやりと眺める才原所長は何を思うのか。
ただ思考しているだけなのか。
視線に気付いているだろう恵は、気にする事なく仕事を続けるのであった。
「五十嵐。お前、背中に血がついているぞ。大丈夫なのか?」
理事長室から戻ってきた後は普段通りに授業を受けていた。
その一つの授業を終える合図であるチャイムが鳴ると、少し離れた場所にいる田代が後ろから声をかけてきた。
「ああ、これは転んだんだ。痛くも痒くもないから気にすることはない」
「転んだって…どんな転び方をすれば背中から血が出るんだ?」
拙い。俺が怪我をしていることに興味を惹かれたのか、クラス中から視線を集めてしまった。
言い訳は既に考えてあるから、問題はないのだが……
「俺は訳あって部活をしていないんだ。だから運動不足にならないよう、朝晩に身体を動かしているのだが、その時に足を滑らせてな。何、傷口が開いただけだ。病院にも行ったし問題はない」
「そうか。染みになるから、保健室でガーゼ交換してもらった方がいいぜ?」
「助言、ありがとう。是非そうさせてもらう」
そう。大抵、この言い訳が通用する。
だが、俺の予想通り、隣の席の奴にはどうも通用しなかったみたいだな。
「怪我!?本当じゃない!脱いで見せなさい!」
「馬鹿!香織は医者じゃないでしょ!?」
「…服を引っ張らないでくれ」
季節は冬。普段であればブレザーを着ていて血の痕が見つかるはずはないのだが、授業内容が拙かった。
先程までしていた物理の授業で、何故か俺のブレザーを授業で使うことになったのだ。
物を使う講義はさして珍しくないが、よりによって今日、俺のブレザーが、間が悪くも指名されてしまったのだ。
服を引っ張ってどうにか脱がそうとしてくる香織。それを止めようと武藤と川村と三咲が立ち上がってくれた。
「香織!そんなことしていないで、保健室に連れて行ってあげて」
力に力で対抗していた三人と俺。
それとは別の声が上がり、声の後香織の手が離された。
「きらら…そうよねっ!私しかいないわ!」
「村崎、助かった」
声の主は村崎きららだった。
俺のシャツが破られる前に止めてくれたので、感謝の言葉を残す。
今日は感謝することが多いと、場違いな感想を抱きながら。
「五十嵐くん…変わったわね。さ。いってらっしゃい」
「?」
よくわからないが、行けと言われずとも行くしかない。
何せ結局香織が引っ張っているのだから。
「これ、縫わなくても大丈夫なの?」
いや。知らない。その為の保険医ではないのか?
見えないのだから自分で判断出来るわけもないし。
「翔!聞いているの!?お医者さんはなんて言ってたのよ?」
「問題ない。ガーゼ交換だけ、頼む」
そういう話か。やはり対人関係は俺には難しそうだ。
保健室には30くらいの保険医がいて、ガーゼ交換を頼み患部を確認すると、先程の発言となった。
言葉の意味を理解するのに手間取ると、何故か焦っている香織が痺れを切らし、図らずも俺に質問の意図を教えてくれた。
「はい。出来たわよ」
「急なのに、助かったよ」
「養護教諭として、当たり前のことだから。…こんなことを言うのは不謹慎かもしれないけど」
そう前置きをした保険医は、一拍間を置いてから続きを話すべく口を開いた。
「凄く綺麗な傷口だったわ。近くに血管などもないし、感染症にさえ気をつけていれば、跡形もなく綺麗に治ると思うわ」
「そうか。安心したよ」
「っ!?やれば出来るじゃない!」
香織の言葉を聞き、保険医は腑に落ちない表情をする。
知らなければ当然だろう。
俺にはある課題が香織から出されている。それは、『返事には二言以上で返さなければならない』というもの。
だから、クラスメイトにも二言返していた。村崎の時は思い浮かばなかったから、名前も入れてだが。
そんな理不尽なルールを設けられたのにも、ちゃんと理由があるのだ。
まあ、理由といっても、俺にとってはやはり理不尽なものなのだが。
あれは三日前。雪ではなく雨が降っていた日の出来事だった。
ピンポーンッ
ガチャ
「何だ?」
「見てわかんない?雨宿りに来たのよ」
「…勝手に上がるな」
見られて拙い物でもあるのぉ?と言いながら、香織は俺を避けて部屋へと上がり込んできた。
確かに雨宿りなのだろう。
その姿はびしょ濡れで、既に手遅れとは思うが。
「寒っ!?暖房入れないの!?」
「電気代の節約だ」
違うが。
緩い環境に身体が慣れてしまうと、元に戻すまでに苦痛を味合わなくてはならない。
俺にそんな趣味はないので、今日も今日とて暖房など入れてはいないだけだ。
そして、この断り文句を言えば香織は何故か言い返してこない。
理由はわからないが、有難いことだ。
「さ、寒いんだけどっ!?」
「…はあ。わかった。風呂を貸すから、温まったら俺のジャージでも着ていろ。服が乾くまでな」
「ふ、風呂!?」
何を驚いている。
過酷な訓練に耐えてきた俺を持ってしても、冬の低気温時に濡れたままでは危険なのは変わらない。
ましてや、碌な訓練を受けていない常人である香織なら尚更。
「湯を溜めておく。とりあえず、濡れたままでは床も濡れてしまうからな。コイツで水気を吸っておけ」
「あ、ありがと」
タオルを投げ渡すと、香織は礼を伝えてきた。
はあ。面倒な。
人知れず内心で溜息を溢すと、俺は浴室へと向かった。
湯船にお湯を張ると直ぐに入浴を促した。
現在香織は風呂で温まっている最中なのだろう。水音などは聞こえない。
ガタンッ
そう考えていると、浴室から鳴ってはならない音が聞こえてきた。
「まさか…倒れたのか?」
湯あたりをする程の時間は経っていない。
これも俺の感覚でしかない為、不確かではあるが。
「・・・・」
声も何もない。
もし倒れていたら・・・
そう考えた俺は、たった一つの行動を取った。
このアパートは二部屋からなる。
ダイニングキッチン一部屋と、寝室。それから浴室があるのみ。
俺はその浴室への扉を開いた。
ガラガラガラ…
「大丈夫か?」
勿論、異性の入る風呂へと確認も無しに入る常識は俺の中にもない。
開けたのは、脱衣所兼洗面所兼洗濯物置き場である扉。
そこからスモークの入った浴室への扉へ向けて声を掛けたのだ。
「しょっ、翔っ!?」
「そうだ。大きな物音がしたから、安否の確認に、な」
驚くのはそこか?
俺じゃない方が怖いだろう?
「だ、大丈夫!洗面器を置く場所が悪かっただけなの!」
風呂桶を湯船の淵にでも置いていたのか?確かに風呂場であんな物が落ちたらあれくらいの物音がするだろう。
俺が内心で納得していると、香織は言葉を続ける。
「あ…見た…?」
「ん?風呂の中は見ていないぞ?」
何を言っている。扉が開いていないのだから、気にするところではないはずだぞ?
「違うわよ!そこにある私の…」
「ん?この縞々の下着のことか?安心しろ。床に脱ぎ捨ててあったから、風呂から上がった拍子に濡らさないように、着替えの棚の俺の服の上に置いておいたぞ」
迷彩柄には慣れ親しんでいるが、縞々か。これは何処で使うんだ?
「馬鹿っ!出て行ってっ!」
「…わかった」
よくわからんが、声に怒りの色が多分に混じっている。
俺は理由を聞くこともなく、了承の言葉を残してその場から離脱するのであった。
そんなことがあり、下着を見た上に触った罰として、俺は香織からの命令に従うこととなった。
所長にもそのことについて確認を取りたかったが、恐らく事情は把握していることだろう。
何も報せがないということは、所長も構わないと考えているはずだ。
「いいか?」
「…何よ?」
下校時。何故か途中まで着いて来ている香織へと話しかける。
内容は、学園では聞かなかったこと。
俺は構わないが、怒らせた理由でもあるから、何が逆鱗に触れるのかわからない為、こうして二人きりのタイミングを見計らっての質問となったのだ。
「縞々の柄には、どういった意味があるんだ?」
縞馬に擬態…は、考えづらい。
あの柄だと、どこにいても単色より目立ってしまう。
俺の予想では、目測を誤らせる。恐らくこれだろう。
「アンタ、殺されたいの?」
俺はまた、何か間違えてしまったのだろう。
顔を真っ赤にして目を血走らせる。ここまでの怒りは、初めて見た気がする。
幾人もの、今際の際を見てきた俺ですらも。