憂鬱な休み明け
【】
見ていたのはいつもと同じ景色だった。
なのに、何故だろう?これまで見てきたモノと比べ、世界が色鮮やかに彩られて見えた。
【】
「休み明けですが、本日より通常通りの授業が始まります。
長期休暇を終え、弛んだ気持ちを引き締めて新年を頑張りましょう」
担任の言葉は実に教師らしいものだ。
事実教師なのだが、これまでは義務感というか、感情に蓋をして一線引いたような、そんな担任という印象があった。
休みの間に何かあったのか、表情も少し柔らかく見える。
「翔はあれから何かしたの?」
「何も」
「そう。私は・・・・・」
休み明けそうそう、相変わらず喧しい奴だな。
嫌とか、良いとか、そんな感覚すら覚えないが。一つ思うのは・・・
「そんなに話していて疲れないのか?」
やれ友達とどこに行っただの、親戚が来て面倒だったとか、お年玉をいくら貰っただとか。
俺が同じだけ会話をしようものなら、体脂肪を燃焼しすぎてすぐにガス欠を起こしてしてしまうだろうな。
「え?全然。あ。でも、面倒な人と話すときは疲れるかな?親戚の叔父さんとかね!」
「つまり、俺とは疲れない、と」
「あっ・・・ち、違うわよ!?べ、別にアンタと話すのが嬉しいとかじゃないんだからねっ!?」
ツンデレだ…初めて見た…実在したんだ…
クラスメイトからこちらを窺う視線と、よくわからない言葉が小さく飛び交う。
「最近思うんだが」
「な、何よ!?」
「おかしいのは俺じゃなくて、実は香織なんじゃないか?と」
少し感じていたこと。どうでもいいが。
「私がおかしいっ!?そんなわけないわっ!」
「そうか」
「何よっ!?信じてないわねっ!?」
信じるも何も、どうでもいい。
聞いておいてなんだが。それよりも。
「足は治ったのか?」
「え…なに?」
「だから。正月に痛そうにしていた足の怪我のことだ」
足の怪我。
恐らく履き慣れない靴のせいで靴擦れのようなことが起こっていたのだろう。
あの履き物の形状から怪我をしたのなら足の親指と人差し指の間。
帰り道、駅の辺りから怪我をした方の足を庇って歩いていたからな。
「気付いていたんだ…」
「何も言わないから大したことはないと判断した」
あの形状の服だと背負うことは難しく、抱えて歩くことになるからな。
駅はいいとしても、混雑している電車内ではそれも難しい。
何を思ったのか、香織は顔を赤らめて席を立ち、その場から消えた。
「怒ったのか、恥ずかしかったのか」
表情から推測されるのはこの二択だが、やはりどちらでも良いな。
「恥ずかしかったんだよー」
俺が何の益にもならないことを呟いていると、その言葉に予期せぬ返答が得られた。
この間延びした口調は、香織の席を挟んで反対側にいる島谷か。
「そうか」
怒らせるよりはマシだ。それならそれでいい。
「相変わらず、会話のキャッチボールが下手だねー」
興味がないからな。
「あの日、香織は翔くんに見て欲しくておめかししたんだよー。着慣れない着物と下駄で大変だったはずだからー、ちゃんと褒めてあげたよねー?」
「感想は伝えた」
確か、見た目のことを聞いてきたはずだ。動きづらそうなどの感想はちゃんと伝えた。なにせ聞かれたからな。
「そーう。だから、恥ずかしかったんだよー。大人ぶった香織は可愛いでしょー?」
つまり、見栄を張ることに失敗したという話か。
見栄見栄俺に言っていたのは、自分のことだったのだな。
「さてな」
「あー!誤魔化したー!」
「授業が始まるぞ」
可愛いなどというものは、主観による。
俺にそんなものはない。見えているものが全て。それ以外は幻想や空想に過ぎない。
香織とは違った方向にタチの悪いクラスメイトを遇らい、一人考える。
今日からまた非日常が始まる、と。
「良かったのですか?まだまだ使い道はあったかと思います」
モニタールームとは別の部屋。
そこは少し獣臭く、また少し雑音もあった。
「辛辣だね。確かに使い道などいくらでも作れるだろう。しかし、この辺りで解放することがベストだと考えたのだよ」
恵の言葉に才原所長は答えた。
ここは研究所内にある数ある部屋の一室。実験室である。
獣臭さはまさに言葉の通り、モルモットなどの動物が放つ臭いであり、雑音は彼らの出した音。
数あるケージの中の一つを観察しながら、二人は会話を続ける。
「ハニーの卒業と同時に全てから解放し、望む進路があるのなら手配まですると…甘やかし過ぎです」
「あの子はもう大人だ。誰の力も借りることなく、一人で立っていられる。君の力なしでは生きられない私と比べるまでもないよ」
「私はっ!…そのようなつもりでお側にいるのではありません。それに、それも才原所長のお力の一部です」
ケージ内のモルモットに、無傷の個体はいない。
殆どが頭部に傷を負っている。
「杏香は…娘は自由にしよう。ここまで育てたのは君だから、最後は君が決めると良い。だけどね。私は思うんだよ。
能力のあるものには同程度の責任が伴うが、ないものにはないのだとね」
「あの子は…いえ。わかりました」
「残念だよ。ここから先に彼女を必要とする未来は、私には見えないのだ。
さて。では、伝えてくれるかね?」
杏香の解放。
即ち、才原所長から見限られたのだ。
元々恵の独断から始まった杏香の育成。
我が子に自分ほどの才を見出せなかった恵はすぐさま方針を切り替え、研究者ではなく雑事を任される者となるように育てた。
予想される最大の雑事は、082を見守る教員。
見事その座を掴ませることに成功したが、それすらも満足に行えなかった。
愛情は終ぞ芽生えなかったが、それでもここまで育てた情くらいは抱いていた。
だから、何かないかと才原所長へ訴えたのだ。
その望みはすぐさま絶たれてしまうも。
何故、恵は娘へとそれを望んだのか。
答えは明白。
「才原所長に見放されたのね。どうしようもない、可哀想な子」
恵は才原所長を神格化していた。
故に、現在があるのだ。
事の発端を知る為、恵がまだ中学生だった頃へ遡ることに。
「先生。それは違うと思います」
皆の記憶にも、クラスに一人くらいは居ただろう。
教師の間違いに対し、声を高らかに指摘する生徒の一人くらいは。
その生徒が若かりし頃の恵だ。
こうしたことを気にせず言える生徒とは大人の機敏に疎かったりするのだが、恵は疎いというよりも、その辺りの感性が欠落している人間だった。
「最新の研究では、消化器官に対する別のアプローチもあります」
内容は理科だろうか。
ともあれ、今回の教師の間違いは教科書通りのものであり、間違いだとハッキリ言えるものではなかったのだ。
よって始まる排除の時間。
始まりはその教師によるもの。
後々調べれば、恵の言っていることも正しいことには気付いた。
しかし、現時点では普通の理科の教師が知る由も無い知識。
授業を遮り、他の生徒に不確かな知識を植え付けたとして、恵は叱られる。
これまでの恵は欠点という欠点が見当たらない優等生。
さらには少々顔も整っている。
そんな恵を大手を振って攻撃することは叶わず、またこの機会を見逃すほど、当時の学生達は温厚でもなかった。
「調子乗ってんじゃねーよ」
昼食休憩時、いつも孤独に昼食の時間を過ごしていた恵の席を、クラスメイトの一人が蹴り飛ばした。
この時代にクラスカーストという言葉は存在しないまでも、言葉がないだけで同じものは存在していた。
いつまでも恵のクラス。
学年で一番賢く、その高嶺の花を貫いている姿勢がまたモテる。
モテることを自演している勘違い女。
そうクラスの女子からは陰で嫌われていた。
机を蹴り飛ばしたのも、そんな女生徒の一人。
一人が始めるとそれに続くのは、やはり内心恵のことを疎ましく思っていた女生徒。
女子は虐めるが男子はそれに加担しない。
加担しないだけで見て見ぬふりなのは、大人も子供も大差ない話だ。
そんな嫌がらせは、いつしか虐めと呼べるものに変わり、何らかの執着心を持って、女子達は恵に嫌がらせをし続けていた。
そんな生活も半年が過ぎ、季節は冬目前。三年生である恵達は受験勉強真っ只中であった。
「だれ?教科書を返して」
移動教室から戻ると、机の中に入れておいた筈の教科書が見当たらない。
午前中には確実にあったのだから、これも嫌がらせに違いないと、恵はクラスメイトへと問う。
「だっさ。自分が忘れただけじゃん」
心無い言葉が飛ぶも、もちろん彼女達が仕掛けた嫌がらせだ。
虐めは学業にまで影響し始める。
『病気に悩んでいる沢山の人達を助けられるお医者さんになることが夢です』
小学生の時、発表会で語った夢。
周りの同級生の夢は、夢見がちなものが多かったが、恵は周りからも『恵ならなれる』と思われていた。
そんな恵は、現在虐められている。
虐め自体は辛くない。
仲間外れにされようが、机に落書きをされようが、恵がそれを気にしたことはなかった。
だが、勉強は困る。いや、明確に嫌という感情が前面に出てくる。
これまでの人生は、それだけの為に生きてきた。
それを奪われると、何も残らない。
恵は初めて恐怖を覚えたのだった。
これには虐めの加害者達も驚いた。
弁当をゴミ箱に捨てても気にした素振りすら見せなかった。上履きに画鋲を仕込み、足の裏に突き刺さっても驚きこそすれ、恐怖や泣く様な素振りすら見せなかったのに、と。
恐怖を覚えた恵の行動は迅速だった。
虐めの被害者が中々取れない、教師に報告するという至極当然の行動を起こしたのだ。
結果は・・・
「虐め?それよりも、以前に言っていた話は嘘だったよね?自分の事よりも、先ずはそれを先生に謝罪する方が先じゃないか?」
取り合ってもらえないどころか、こちらも敵だった。
恵が以前指摘した問題。それを重く見たのか、ただプライドが許せなかったか、それはわからないが、その教師は同僚へと恵を悪く伝えていたのだった。
家に帰っても両親は仕事が忙しく、一人っ子の恵に味方はいない。
周りは敵だらけの世界に、恵は一人立っていたのだ。
「私は嘘なんてついていない」
くだらない。
大人の陳腐なプライドに気付くと、そう吐き捨てて職員室を後にしたのだった。
味方の居ない恵だが、それ自体も気にした素振りはなかった。
「私が守ろうとした命とは、こうもくだらないモノばかりだったのね」
医者になり、多くの命を助けたかった。
しかしその先に待つのは、くだらない生き方をする人々の幸せ。
抜きん出る者がいれば足を引っ張り、正論を説くも感情論を優先する者達が犇く世の中。
こんな世界に何の意味が?
世界を見限る恵。
そんな恵は泣いたりもしない。
いつも一人だったから。
泣いても何も解決しないどころか、ただ無為に時間を浪費すると学んでいた。
ただ、最悪の結末も考えてはいない。
こんなくだらない世界の所為で死んでやるものか、と。
医者になる夢は綺麗さっぱり消えたが、残されたのはそれでも学業だった。
自分が人よりも優れていることにはとうに気付いていた。
そして、この世界に復讐したいとも思えない。
自分より劣るモノに対して、人はそこまでの執着心を持てないのだ。
そんな虐めは、冬休みへ入るところで消えてなくなった。
理由は簡単、間違っていたのは教師の方だったことが、白日の元に晒された為。
切欠は一つの論文の発表だった。
その論文が発表されると、新聞の切り抜きと共にメッセージが書かれた張り紙が職員室の入り口へと張り出された。
内容を掻い摘むと・・・
正しかったのは私の方ですが、先生方には理解が難しかったのでしょう。
これからは先生方にもわかりやすく説明出来るように精進いたします。
少々幼稚な挑発文ではあるが、当の教員には深く突き刺さる。
今日まで、事あるごとに先の出来事を吹聴して回っていたからだ。
その教員が気付いて張り紙を外すも、時既に遅し。
論文の内容は難しく誰も理解出来なくとも、挑発文の内容は簡単に理解出来た。
教師も、生徒も。
ただ一人、内容までもきっちりと理解している者だけは、無関心だったが。
『拝啓 才原様。論文を拝見しました。内容についての手紙ではありません。浅学な私と議論を交わしたところで、才原様にとって何の益にもならないことくらいは理解出来ますので。
この手紙は感謝を伝えるためのものです。
貴方様の研究により、私は救われました。
私では言葉に出来ないことが、論文には正確な言葉で記されていました。
それ自体が、私の希望なのです。
そして副次的なものではありますが、貴方様の論文のお陰で私は再び学業に専念することもできます。
いつかこのご恩をお返しすることを目標に、私は生きていけます。
佐伯 恵』
その手紙は送り主に読まれることなく、数多の手紙と同様にゴミ箱へと押し込められたのであった。
恵の話を主体にするか迷いましたが、やはり主人公は082なので。