クリスマスの香り
白い雪が世界を染める頃、防衛大臣の秘書が階段から落ちて死亡するといったニュースが世間を賑わせていた。
当の防衛大臣はというと、秘書が運ばれた病院へと向かう車に乗っていた時、その車が単独事故を起こしてしまい、あわやあの世へと向かってしまうところだったとか。
そんなニュースなど世間は直ぐに忘れるが、当事者はどうだろうか?
「支援金、か。分かりやすいものだね」
モニタールームにて、才原理事長は一枚の小切手を破り捨てる。
その額面はなんと一億。
「安すぎます。才原所長の価値はお金では測れません」
「ははっ。それは買い被りすぎというものだよ。しかし…これであの男が私をどうにかしようと思うことは無くなったね」
「人は変わります。良くも悪くも。これからもお気をつけ下さい」
恵は心配性なのか。
いや、これは恵の言っていることの方が正しい。
人は変われるし、また変われない生き物なのだ。
上辺だけ取り繕っていたとして、いつまた才原理事長を狙うかわかったものではない。
才原所長もそのことには気付いている。いや、あり得ないと断じることが嫌いなのだ。
全ての事柄は、あり得ないと思われていることから始まる。
故に、今回もその可能性は捨てない。
ただ恵の心配が煩わしく、そう言ったに過ぎないのだ。
「はい。お弁当」
十二月も中旬。師走とはよく言ったもので、あっという間に年末へと近づいていた。
校庭には薄らと雪が積もっているが、教室のある一箇所は熱いとクラスメイト達は感じていた。
「必要ない」
「必要あるかないかじゃないの。お弁当があるのは知っているけど、夕食は?ね?持って帰って。洗わなくて良いから、お弁当箱は明日持ってきてね」
「ひつ『良いから!』……」
夕食も準備してある。が、押しの強さに無駄な会話をしない為か、翔は素直に受け取る。
クラスメイト達はその様子を隠し見ていたが、現実を受け入れられない男子がチラホラいたのは仕方のないことだろう。
本日の授業は全て終わり、最後のホームルームも終わった。
残すは帰るだけなのだが、下足場にて翔に声が掛けられた。
「いい?絶対食べなさいよ?明日感想を聞くから」
「・・・・」
命令は絶対。
そう身に染み付いている翔だが、果たしてこれに従うのか。
香織は友達と帰り、翔も帰路に就こうとした矢先、トラブルはドタバタと煩い音を出しながら訪れる。
「待ってくれ!」
校門を出る直前、翔の背後からかなりの速さで近づいてくる人がいた。
足音などの気配から察していたが、危険はないとみて何の反応も示さなかった。
恐らく体重移動などが素人のモノだったからだろう。
危険がないなら用もない。
「おいっ!待てって!」
翔に追いついた男だったが、翔はその言葉を無視して先を急ぐ。
言い訳はいつもの『名前を呼ばれていない』だろう。
「おいっ!お前だよ!1-A五十嵐!」
遂に名前が呼ばれた。
「何?」
「お前、香織とさっき話してただろ?アイツとは付き合う約束をしてるんだ。余計なちょっかいを掛けんじゃねーよ」
振り向いた先にいたのは、以前香織に告白して振られていたCクラスの男子生徒だった。
「了解した」
「ああ、わかれば…え?」
香織と何やら親しく話していたが、見るからにパッとしないこの男と香織がどうにかなるとは思えない。
だけど、香織の周りを男がウロチョロしていたら面白くもない。
そう思って釘を刺しに向かったんだけど……
嘘だろ?
お前からしたら高嶺の花だぞ?
友達としてでも、今後生涯知り合うことのない女なんだぞ?
「待て待て!お前、おかしくねーか?あの香織だぞ?」
コイツ…香織とは友達でいる価値もないと言わんばかりだ。
それはそれで面白くねえ。
って!?アイツもうあんな所に!?
この男が気づいた時に、翔は既に豆粒に見える程離れていた。
「おいっ!待てって!」
男は走る。
グングンと差は縮まる。
後10m。
その時、翔は路地へと入って行った。
「おいっ!逃げんなっ……あれ?」
男がやっとの思いで追いついた時、翔がいる筈の路地にはその姿が見えなかったのだった。
「どうだった?」
少し不安そうで、嬉しそうな顔。
そんな表情で見つめながら、香織は翔を問い質す。
「少し多い」
「違うわよっ!?味の話をしてんの!味のっ!」
いつもの夕食はいつも通り食べた。
食べるのも仕事の内だからだ。
香織の弁当があることを知っている才原所長達は、前もってその弁当も食べて良いと書き置きを残していた。
つまり、昨日の夕食は二食だった。
育ち盛りとはいえ、元々身体造りと消費カロリーの多さから普段の食事も多かった。
だから、少し多いと感じたのだ。
「濃い」
「えっ…ごめ」
「かったが、嫌いじゃない」
普段与えられる食事は基本的に薄味。
濃い食べ物は味覚障害を引き起こし、毒殺に備えられなくなる恐れがある。
それ以外にも、不純物を体内に残さないなどの理由もあり、薄味が基本だったのだ。
そこに普通の家庭で普通の料理を食べてきた香織の味付け。
翔にこそ濃かったが、普通である。
一瞬泣きそうになるも、翔の続く言葉を聞いて笑顔が弾ける。
下手な事を言えば殺してやろう。と、身構えていた沙耶香と結衣もご満悦である。
翔にしては、といったところで。及第点をやろう、と。
「一つ良いか?」
クラス中が聞き耳を立てる。
なんと、あの翔から会話のキャッチボールを行ったからだ。
「え…怖い…けど、なに?」
香織は色々な意味で怖がるも、翔の頼みなら何でも聞きたい所存でもある。
「1-C出席番号二十三番鍵山陸斗と約束をした。1-A出席番号二十六番浜崎香織と必要以上に馴れ合わない、と」
「は…?」
「「「「え?」」」」
思いもよらない人物。更には聞きたくない言葉。
全てが噛み合い、香織の理解を超えた。
それは同じくクラス中へと伝播していく。
「何…を言ってるのよ…?何?え?」
香織は混乱する。
何がどうなって、そうなった?
鍵山って…え?私のせい?
混乱している香織と、変わらない様子の翔。
「翔くん。ちょっといいかな?」
そんな二人を見かねた結衣が、翔の名を呼んだ。
「何?」
「その鍵山くんには、なんて言われたの?」
「香織にちょっかいかけるな、と」
言われたままを伝える。他の術を知らないからだ。
「えっと…それでそれを承諾したの?」
その言葉には頷いて答える。
「なんで?」
「…もう良いよ、結衣」
結衣に香織を傷つける意図はない。
ないが、それでも傷つくのが学生。
香織はもう良いと、翔に期待することを放棄した。
「恋人になる約束をした、と」
翔に悪気はない。
ありのまましか伝えられないのだ。
嘘は嘘を呼ぶ。
そして積み重なった嘘はバレると、才原所長から聞かされてきた。
嘘を吐かなくても良い状況にしろ。もし吐くのであれば、それは組織と自分の為だけにしろ。
こうも言われてきた。
この場面はそのどちらにも当て嵌まらない。
「はい?」
「え…香織?」
誰が誰と何を約束した?
香織は身に覚えのない約束を聞き、更に頭が真っ白になった。
「ち、違うからっ!ちゃんと断ったからっ!」
結衣は何故だかわからないけど、鍵山のことが好きだった。
今は知らないけど。
でも、関係ない。
女の友情に男をもつれ込ますと破綻するのは、過去の経験からいって間違いのない事実だ。
私は焦って結衣へと弁解の言葉を並べた。
「大丈夫、わかってるよ。でも、伝える相手が違わない?」
相手?
香織が振り向くと、翔は黒板を眺めていた。
これは、話は終わりという合図。
こうなると何を言っても『授業が始まる』としか答えてくれなくなる。
悶々とした気持ちを抱えながら、香織は放課後を待った。
放課後になったが、肝心の翔は見当たらない。
「理事長に呼ばれたのなら仕方がないよ。荷物も持って行ってるみたいだし、待ってても帰ってこないかもよ?」
健気にも翔を待とうとしている香織へと、結衣が現実を伝える。
そんな事は香織もわかっているのだ。この学園のAクラスに所属している程度には頭が良いのだから。
それでも待ちたい。
何かしていないと落ち着かないのだ。
それが思春期の女子高生というものなのだろうか。
「わかってるわよ。でも…」
「変わらない現実より、気になることがあるんだけど?そっちに行かない?」
「えっ…ていうか、結衣部活は?」
「今日は休み。それに、親友の一大事なんだもん。あっても休むよ」
数ヶ月前まで目の敵にしていた。
それでも、あの時が原因とはいえ香織の事をより深く知ることによって、香織は違うかもしれないけれど、自分だけは親友だと思うことに決めたのだ。
「ありがとう?」
「何で疑問系なのっ!?」
暗い表情を見せる香織。
そこで大袈裟に笑って見せることにより、場の雰囲気を明るく変えた。
「ふふっ。本当にありがとう。そばに居てくれるだけで心強いよ」
「それはどうも。でもね?私も気になるの。ね?行こう。翔くんが言っていたことが事実なら、一発殴らないと気が済まないから」
「それって…」
本日翔と会うことは叶いそうもない。
であるならば、元凶へと文句の一つでも言いに行こうと、結衣は親友を連れ出したのだった。
(もうすぐ恋人達の…ううん。世の中の全女性にとって、特別な日がやって来る。私は残念ながら普段と変わらないことが確定しているけど、私の勝手な想いで困らせてしまった親友の後押しは出来る)
その日は何も主役ばかりが全てではない。
自分は今年も主役をはれそうにないが、親友の為に脇役に徹しようと、結衣は特別な日に想いを馳せた。
「香織っ!来てくれたのか!」
元凶である鍵山陸斗はバスケ部のレギュラーである。
一年時からレギュラーを奪うというのは、並大抵の才能では不可能。
もちろん、それに付随する努力も。
そんな陸斗は今日も真面目に部活へと精を出していた。
「ちょっと話があるんだけど」
自分のことを応援にでも来てくれたのかと期待した陸斗だが、雰囲気が違うと気付く。
そもそも香織だけではなく、結衣もいるではないか。
「先輩!少し抜けても良いっすか?」
「10分だけだぞ。戻ったらダッシュ10本な」
レギュラーとはいえ未だ一年生。
先輩に確認を取った陸斗は、香織と結衣の後をついて行くのだった。
ガタッ
ポストから出た音により、一瞬にして睡眠から覚醒する。そして覚醒とほぼ同時に行動を開始した。
普通の神経をしていたらイライラしそうなものだが、翔に限っては違う。
暫く様子見をするものの、どうやらなんらかの攻撃などではない様子。
ベッドを盾に床へと伏せていた身体を慎重に起こした。
「23:00」
デジタル時計が示す時間は夜中だった。
高校生が寝るには遅くもなく早くもない時間帯。
翔は早寝早起きであるから、普段は夜の9時に寝ているが。
「確認する」
次の行動を口に出し、目的地へと近づいて行く。
『翔へ』
ポストに投函されていた手紙には消印がなかった。そして、その手紙の書き出しは宛名から始まっていた。
手紙の内容は鍵山陸斗が翔へ伝えたことは誤解だったという文章。
文末に浜崎香織より。と、認められていた。
「二枚目」
そう。手紙は一枚ではなかったのだ。