血雪の始末
翔が帰った後、才原理事長は学園に人を呼んでいた。
其の者達は十一人。
十人には学園内に散らばる死体の片付けを任せた。
翔が殺した侵入者達はなにも屋上だけではないのだから。
「では、気付を嗅がせます」
十一人最後の一人である恵は、薬瓶の蓋を外してスヤスヤと寝ている香織の鼻先へと近づけた。
「ごほっ!?ごほっごほっ!…こ、…こは?」
咳き込みながら香織が目覚めた。
「おはよう。気分は如何かな?痛いところなどがあれば教えて欲しい」
「あ…なたは…理事長?」
「そうだ。会うのは二回目かな?浜崎香織さん」
才原理事長は入学式にも顔を出していない。
香織が才原理事長に会えたのは、偶々クラス委員になったからだ。
「私は…きゃっ!?」
そこで初めて香織は自分の置かれている状況と、自分のあられもない姿に気付く。
翔は帰宅時に香織へと掛けていたブレザーを着ていた。
そんな香織にはブランケットを被せていたのだが、起きた拍子に裸てしまったのだ。
初老の男性とはいえ、異性。
自身の下着を見られたことに動揺する。
「何があったのか、覚えているかね?」
「…はい」
そこから話したのは独白。
先ずは、授業をサボったことを誰にもなしに謝るところから始まった。
次いで誘拐の描写。
更には拷問紛いの着衣の破損。
寒さのあまり気を失い掛けるも、ギリギリのところで踏ん張っていたこと、など。
「自分が助けられた時は?」
「えっと……この女性は?」
「ああ、彼女のことを気にする必要はないよ」
そうは言ってもこのタイミングで知らない人。
気になるどころか、同性であれ知らない人には少し恐怖も覚えていた。
「彼女は…自己紹介を」
「はい。才原理事長」
自ら説明しようかと思うも、本人からさせた方が落ち着くだろうと、才原理事長は促した。
「初めまして、浜崎さん。私は貴女方のクラスの担任である佐伯杏香の母です。才原理事長とは懇意にさせて頂いているので、今日の様な急な呼び出しにも喜んで応じたのですよ」
「佐伯先生の…」
ここで漸く安堵する。この部屋には味方しか居ないのだと。
この辺りに住む者にとって、才原理事長のことを知らない者はいない。
生徒の中にも崇拝に近い尊敬の念を抱いている者がいる程度には。
以上の理由から、香織も才原理事長のことは信用している。信頼というほどではないものの。
「良いかね?先程の質問に答えてもらっても」
「…あの!これから話すのは、ここだけの話にしてもらえませんかっ!?」
才原理事長の言葉に、香織は声を大にして訴える。
無論、この要請は渡りに船である。
そんなことは噯にも出さないけれど。
「勿論だとも。私としては、君を…いや、生徒達を守りたい一心なのだよ。ここは学舎であり、戦場ではない。ただ、ここを守る為にも、私は知っておかねばならないのだよ。
わかってくれるね?」
「はい。話します」
心を決めた香織は、話を続けることに。
「彼を…五十嵐くんを見ました」
「五十嵐とは…君のクラスメイトの?」
「はい。理事長の補佐をしているクラスメイトです」
わかっているが、口を挟まないのもどうかと考え、答えの後頷きで続きを促す。
「私は寒さから意識が朦朧としていました。犯人が何人居たのかも思い出せませんが、気付くと……犯人は倒れていて、彼に抱き抱えられていました」
「ありがとう。では、着替えを用意してあるから佐伯さんに手伝ってもらい、帰る支度を整えなさい」
一人で出来ます。
その言葉には『一人きりは不安だろう?彼女はセラピストでもある。話をしたり、聞いたりしなさい』と言われれば断る術もなく、香織はその提案を有り難く受け入れるのであった。
大型モニターには翔の寝姿が映っており、もう一方のモニターには香織の寝姿が映っていた。
ここはいつものモニタールーム。
久しく主人は留守にしていたが、あの時のままの姿でそこは存在していた。
「どうだったね?」
そこで恵が戻ってくるのを待っていた才原所長は、帰還の言葉よりも先に聞きたいことを聞く。
「催眠剤と話術により、こちらの言葉をインプットしてきました」
「そうか。我々は必要悪であって、悪ではない。目撃者だとはいえ、簡単に殺す決断には至れないからね」
「はい。重々承知しています。彼女については一抹の不安は残るものの、証拠もありません。事件そのものも」
学園に侵入者がいて、生徒の一人が誘拐された。
これは事実であっても、歴史には残せない。
犯人と証拠は髪一本に至るまでキッチリと隠滅され、香織の制服は同じ物を着せ、何事もなく帰らせた。
時刻は冬の夜九時と遅いが、誘拐された時点でアリバイ工作も完璧に行われていた。
『希望者への補習に香織さんが参加されることになったので、帰宅が遅くなりますがご安心ください。帰りは学園の方で送迎しますので』
この様に香織の家族には連絡済みなのである。
こうして、才原理事長としてのものとエージェント082としてのものだが、一先ずの危機は去るのであった。
「夢じゃなかった…」
翌日。朝シャワーを浴びる為に服を脱いだところ、自身の下着に鋭利な刃物で傷付けられた痕跡を見つけた。
「翔が…助けてくれたのね…」
香織は一種の催眠状態だったが、下着の傷を見てそれは解かれた。
「学園だと周りの目が気になるけど…」
香織は意を決し、行動へと移すことに。
その日。香織は結局のところ学園では翔に一言も話しかけられず、遂に放課後となってしまう。
これには理由もあった。
先日、急に教室を飛び出したかと思えば、荷物も置いたまま戻ってこなかった為、友人達がひっきりなしに声を掛けに来てくれたからだ。
元より、香織には学園で翔に声をかける気はなかったのだが。
つまり、放課後。翔の家を訪ねることに決めていた。
ピンポーン
翔より遅れること五分。アパートへ辿り着いた香織がチャイムを鳴らすと、待ち構えていたのではないかと疑うほどの早さでレスポンスがあった。
ガチャ
「何?」
「用があって来たの」
懐かしい受け答え。
香織にはその懐かしさを感じる余裕はないが。
翔のレスポンスの早さは、扉の向こうに人の気配を感じ取っていたから。
正確には足音であるが、ここでは関係のない話だ。
閑話休題。
「何?」
用がある。そう伝えたものの、翔は部屋へと上げる気はない様子。
「大切な話があるの。家に入れてくれないかな?」
「…短時間」
「うん!すぐに済むから!」
才原所長が軌道修正したはず。
その翔をまたも人の世に連れ戻す行い。
モニター越しでは歯痒い思いで見ているに相違ないだろう。
受け入れてくれた。
そう感じた香織の足取りは軽い。
片や翔は不思議な感覚に囚われていた。それが分かるのも、翔から足音が聞こえた為だ。
今までの翔は、その身のこなしから足音を立てた事がなかった。
暗殺中、100m走、寝起き、それら全てで。
なのに、問題ないはずの今になって足音を鳴らす。
勿論過度なものでは無い。それでも、誰に気づかれることもなく感覚が揺れていた。
「これ、さっき買って来たの。冷める前に飲んで」
エアコンは完備されているものの、夏でも冬でも使われたことはない。
そんな寒々とした室内で、香織は温かい飲み物を手渡した。
翔はそれを無言で受け取るが、その行動だけでも香織は嬉しかった。
(ずっと、何の反応も示してくれなかったけど…)
来て良かった。
香織はたったこれだけの事に喜びを感じていた。
前述の通り、翔の部屋は寒い。故に香織はコートを羽織ったままだが、翔は普段着…といっても、真冬にする格好ではなく、長袖のシャツというラフな格好だった。
恐らくこれからトレーニングへと出掛けるところだったのだろう。
そんな翔は見ているだけでも寒くなりそうだが、ここへは話をする為に来たのだ。
香織は意を決して、先日の夢で見た話を伝える。
「どうして、何も言わずに立ち去ったの?」
伝え終わり、質問の時間となる。
仮に犯人を倒したわけではなくとも、救出しただけで大騒ぎとなる英雄譚だ。
同じ年頃の男の子なら誰もが一度は夢想するヒーロー像。立ち去る理由などない。
「幻覚。事件などない」
香織に刷り込みとも呼べる催眠術が掛かっていることは伝えられていた。
であるならば、誤魔化さなくてはならない。
組織の意向は命よりも重いのだから。
「私も何故かそう思うの。ううん。今朝まではそう思ってたんだ」
翔の顔色は変わらない。
この程度の窮地、幾度も乗り越えて来た。
「朝、シャワーを浴びる時に気付いたの。下ろし立てのブラジャーの筈が、ナイフで切り付けられた跡を見て、全部思い出したの」
香織は少し気恥ずかしそうに伝えた。
「君の失態ではない。気に病まないように」
モニタールームでは香織が原因となり、恵が取り乱していた。
敬愛する才原所長から頼まれていた仕事。
恵にとっては簡単なはずだったが、それすらも満足に行えない自分を責めた。
しかし、理由を聞いて才原は納得する。
時が経ってからヒントを得たところで、催眠による刷り込みが損なわれることは少ない。
記憶が定着しているからだ。
しかし、今回は催眠から時が浅すぎた。
下着の傷も、本来であれば自分が見つけておかねばならない失態。部下を責める道理はなかったのだ。
「次、頑張りなさい」
「っ!!はいっ!」
次がある。
それが恵を現実へと引き戻した。
「夢ではないとして、俺の知らない話だ」
香織はナイフだと断言した。
つまり、これは何かしらの不具合が生じているということ。
それに気付いた翔は軌道修正を図る。
「・・・・」
「・・・・」
二人の間に沈黙の時が流れる。
それを破ったのは……
「そう言うと思ったよ」
香織だった。そしてその表情は不気味な程清々しく見受けられる。
翔ですら一ミリ程、眉が動いてしまう程に。
「でも、いいの。翔が認めても認めなくても、私にとっては大切な記憶なの」
翔はその笑顔に気圧され、出しかけた言葉が声にならず空気のまま室内を漂う。
「だから言わせて。ありがとう。あの時、絶望の淵にいた私を掬い上げてくれて。
今でも風の冷たさを思い出すけど、翔の温もりも同時に思い出せるから平気なの」
いつもの照れた感じは見受けられない。
いつもの我儘な雰囲気は鳴りを潜めている。
いつもの?
「…どうしたの?」
自分の言葉に返事がないことではない。返事など要らないのだ。感謝と気持ちを伝えられたら。
香織の疑問は翔自身にあった。
微動だにしない。
まるで、目を開けたまま死んでいるかの様。
「ねえ?」
香織の問いかけに、翔は反応を示さない。
「無視しても、私はもうそんなことでめげないから無駄だよ」
追撃。尚も、翔は動かない。
「ちょっと…」
60cm四方の小さなテーブルを挟んで反対側。
香織は立ち上がり、翔の肩を揺らす。
「えっ…翔!?どうしたの!?」
香織に揺らされた翔は、電池が切れたかの様に真横へと倒れた。
「ど、どうしよう!?そうだっ!救急車!」
焦る香織は携帯電話を中々取り出すことが出来ない。
そんな時。
プルルルルップルルルルッ
「電話!?どうしよう…」
鳴ったのは翔がテーブルの上に置いたままにしている携帯電話。
ディスプレイには『父』と表示されている。
「出ないと…」
意を決した香織は、翔の携帯電話をとった。
「拙い!副作用だ!」
モニタールームにて、才原所長が慌てる。
「向かいますか!?」
翔のこと以外で慌てた姿を見たことがない。
それに嫉妬する間も無く、恵は指示を仰いだ。
「間に合わんよ。彼女が救急車を呼んでしまう」
「どうすれば…」
翔の身体は特殊である。
それに加え、今はトレーニングへと出かける前。
身体には常人が耐えられないほどの錘を身につけている。
救急隊が来てしまえば、翔の異常さが露見してしまう。
「使う気はなかったが、備えあればというやつだね」
モニタールームでは、翔の心拍数や脈拍などのデータが常に更新されている。
それに視線をやった才原所長は、一先ずの安堵を覚え、冷静になったところで切り札の携帯電話を思い出した。
「ボイスチェンジャーの用意を」
理事長としての自分は覚えられている。
しかし携帯とは便利なもので、伝わるのは音声のみ。
それであれば偽装するのも容易い。
才原所長は満を持して翔の携帯へと電話を掛けるのであった。
それも今回は所長としてでもなく、理事長としてでもない。恐らく一番縁がないであろう父親という関係性。
そこの演技力だけが、唯一の不安の種であった。