この感情に名前を
才原理事長に呼び出されたものの、その理由は雑用だった。
学園の生徒のプロフィールの精査。そのお手伝いである。
それらが終わり教室へと戻ると、隣の席は空いたままだった。
そして、怒気を孕んだ視線を感じる。
相手はクラスメイト。気にする相手ではないので、放っておくことに。
隣の席が空いたまま、下校時間となる。
この場合は連絡があろうがなかろうが理事長室を訪ねることになっていたので、翔はその様に行動する。
「浜崎香織という生徒は知っているね。人質に取られた」
理事長室で齎された情報。それは酷く簡潔に伝えられた。
「私を脅してきたが…どうするね?」
そういって差し出されたのは、一通の封筒だった。
消印の無いそれは、差出人自らの手で学園内のポストへと投函したことを意味する。
中に入っていた手紙を一通り読み終わると、それに対しての答えを口に出した。
「これは脅しになっていない」
「生徒の安全と引き換えなのだが?」
「駒は所詮駒でしかない」
脅迫文はテンプレートなモノだった。
香織を無事に返して欲しければ、指定された時間に指定された場所へ一人で来い、と。
「しかし、犯人に繋がる唯一のヒントだよ。これを使わない手はない」
「・・・・」
その言葉に対しては無言を貫く。
上が決めたことが自分のすること。
それが例え、この身を燃やすことに繋がっていたとして。
「勿論、私一人では行かない。それでも、付き添いが生徒一人なら?」
相手は油断する。
人質も無事である可能性が高い。
「お誘いは夜八時。その手紙に書いてあるよう、私はそれまでここから動くことが出来ない」
指定場所は学園。
恐らく学園の通信機器は全て、盗聴又はハッキングされている。
警察に言えば生徒は殺す。それは才原学園にとって、致命的なダメージになりかねない。
故に、才原理事長は動けない。もとより、最後まで動く気もないが。
「ヒントは要らないね?最適な行動を開始しなさい」
「理解した」
その言葉と共に、翔は理事長室を後にした。
才原理事長が伝えたかったこと。
夜の八時まで何もしなければ相手の土俵に上がるということ。
守る側は準備をしたい。しかし、何が待っているのか分からなければ準備もキリがない。
逆に考えると、八時までは猶予があるということ。
それまでに犯人の足取りを追い、見つけることが出来れば、その後の選択肢も広がるというもの。
だから翔は護らなければならない対象から離れたのだ。
離れた方が護りやすいこともある。それを知っているから。
この緊急時に、翔が才原理事長の元を離れられた一番の理由は別にある。
それは、あの理事長室が堅牢だから。
窓ガラスは防弾仕様で、壁は厚いコンクリートで覆われている。
天井と床も分厚い鉄板が入っているので、そこから動かなければ殺される心配は少ない。
故に、犯人も場所を指定したのだ。
どうやっても学園内で殺すことは出来ないから。
勿論、ミサイル攻撃などを行えば可能ではあるが、それは現実的ではない。
殺しても、世界中から追われる身となるからだ。
そういった理由から、実行犯達は人質を取る作戦に出た。
それは勿論、誰もいない授業時間の屋上という場所に、非力な女生徒が一人で居るという偶然が偶然を呼んだ突発的な作戦ではあるが。
決断の早さと行動の速さ。それだけで相手が一流であることもわかるというもの。
だが、才原理事長に焦りは見えない。
こちらの手札には、伝説に最も近い超一流がいるのだから。
理事長室を飛び出した翔が最初に向かったのは玄関。
誰もが香織は無断で帰ったと思い込んでいる。
故に、下足箱の確認を行った。
「靴を確認」
香織の下足箱の蓋を開けると、外用の靴が入っていた。
下足箱の蓋を閉じると、次に翔の足が向いたのは教室だった。
誰もいない教室へ入った翔は、自分の席の隣へと着席する。
そして、記憶を呼び起こした。
「理事長は何か言ってた?」
翔の口から紡がれた言葉は、香織のものだった。声色も全てが香織。
所謂声帯模写である。
しかし台詞からは何も読み取れない。
「…まだ無視するのね」
続く言葉も同じく。
「怒りではなく、哀しみ」
そして、香織と同じく、翔も教室を飛び出していく。
「うーっ!ううーっ!」
誰もいない屋上。
辺りは薄暗くなっている。
そこで呻き声が聞こえた。
「良かったな。理事長は今のところ言うことを聞いている」
手に持つナイフをプラプラとさせ、それを猿轡がかまされている香織の眼前で見せびらかす。
ガーッピッ
『生徒、教師の95%が出て行った』
ピッ
「了解。引き続き、学園内外を注視してくれ」
ガーッピッ
『了解』
犯人は黒尽くめである。
顔は目出し帽を被っているが、声は男性のものだ。
「お前達は屋上の四隅を」
「「「「了解」」」」
この男がどうやら指示役。
部下に指示を出すと、改めて香織へと向き直る。
「安心しろ。俺達は無駄な殺しはしない。人に限る
、がな」
「・・・」
「寒いのか?怖いのか?後者はどうにかしてあげることも出来ないな」
香織は震えていた。
コートのような上着も無しに、屋上に長い間いるので当然だろう。
さらに眼前には命の危機。震えない方がどうかしていると言えた。
「俺達はみんな日陰者だ。お前達に直接の恨みはなくても、良い感情を誰も持っていない。だから」
無駄な殺しはしなくても、死なない程度に痛めつけることはするかもな。
そう続くであろう言葉を発さず、男が手に持つナイフの切先が香織の喉元へと忍び寄った。
ピッ
切られたのは制服の一部。ボタンが飛んでいき、白い胸元が露出される。
「勘違いするな。俺達はプロだ。女が抱きたかったら、他でいくらでも用意できる」
女性であれば、このシチュエーションでこの後起こることは想像に難くなかった。
しかし、そうではないと告げる。
「寒いだろう?俺達がお前と同じ年頃の時は、もっと過酷な訓練をさせられた。ズルいよな?生まれが違うだけで、その後の扱いも違うなんて」
この者達の所属は『首切り』と呼ばれる組織である。
暗殺を生業としている組織であり、その残虐性は名前負けしていない。
この男も一流ではあるが、その英才教育により精神は歪められていた。
この人質には利用価値がある。
最後には殺すことに変わりないが、今無駄に傷をつけてはならない。
全ての罪を理事長へとなすりつけ、それでこの犯行は完成するのだ。
身体に傷は付けないが、着ている服は関係ない。
男のナイフは、二人きりの屋上で踊った。
「対象を捕捉」
翔の姿は屋上…の一番高い場所にあった。
屋上へは必ず階段が繋がっている。
ということは、必ず階段の屋根があるのだ。
翔はそこにいた。
屋上にいる犯人達が見張るのは、一番に階段。その他は外に目を向ける。
まさか、こんな季節のこんな時間にこんな場所まで校舎を攀じ登って来る馬鹿は居ないだろうと。
そんな馬鹿な行動を翔は取ったのだ。
「確認出来る敵は五人。排除を開始する」
時刻は十九時前。外は暗く、犯人にとっては絶好の時間帯でもあるが、逆もまた然り。
才原理事長の要求は、人質の無事も含まれている。
勿論、最優先事項は別にあるものの、その要求は翔にとって無碍にするほどの難易度でもなかった。
気配を殺し、見張りの一人へと近付いていく。
手が届く距離になれば、即座に仕留めに掛かった。
「っ!!?」
見張りの顔の前後へ手を掛けると、口を塞ぎそのまま首を三百度程回転させる。
力無く崩れ落ちそうになる見張りを抱え、その場へと音もなく優しく降ろした。
翔はナイフを携帯しているが、それを使う気はない。
理由は、未だ警察の捜査が入るかもしれないから。
指紋などの他の痕跡は消し易いが、血だけはそうもいかない。
日に日に科学捜査の技術は進歩していき、新たな犯罪との追いかけっこをしている。
翔もその技術を日夜磨いているが、進化という競争に終わりは見えない。
他の敵に見つかることなく排除に成功した翔。
ここからは時間との戦いでもある。
コンコンッ
理事長室の扉がノックされる。
翔であればすぐに声が掛けられるはずだが……
「誰かね?」
「五十嵐です。クラスメイトを連れてきました」
「……」
ガチャ
翔であれば、この様な応対はしない。
二人の取り決めと違うということ。
暫し考えた才原理事長は、扉を開けることに決めた。
中に鉄板が入っている見た目より遥かに重い木の扉は、その重さを感じさせないくらいスムーズに開いた。
「終わったかね?」
「滞りなく」
「・・・・」
扉の向こうには翔がいた。
082ではなく、翔なのだ。
翔が抱えているのは、翔の上着を掛けられた香織である。
ピクリともしないそれは、意識がないのだろう。
「見られたのかね?」
理事長室へと入室を果たした翔は、ソファへと香織を降ろした。
そして、二人は簡単な情報交換をする。
もし香織に意識があれば拙いので、言葉選びは慎重に。
「少し。問題は少ない」
「ふむ。この場合は致し方なし、か」
翔の言葉を聞き才原理事長は少考する。
すぐに答えを出し、指示を伝えることに。
「もう遅い。後のことは任せ、君は帰りなさい」
「理解した」
翔に求めるのは実行力。後片付けは自分達の仕事である。
一先ずの安全を確保した才原理事長は翔を帰し、複数の電話を掛けることになった。