血の雪が降る頃
「流石に主席が帰宅部だと外聞が悪いんでしょ」
翌日。朝のホームルームにて、翔の新たな役職が発表された。
その名も理事長補佐委員。
「でも、一体何をする委員なんだろうね?」
「佐伯先生が言ってたじゃん。理事長の小間使いだって」
「そこまで直接的じゃなかったと思うなぁ…」
現在クラス内はその話題で持ちきりだった。
女子はクラス委員である香織の席を取り囲み質問攻めにして、男子は遼河のところへ。
「いや、僕は何も知らないって。驚いているくらいだからね」
「そうなん?でも良いよなぁ。授業中でも呼び出されたら抜け出せるんだぜ?」
「それで授業内容がわからなくなって成績が下がってもいいの?だから主席の五十嵐くんが指名されたんだよ。きっと」
クラス委員だからといって、事前に何もかも伝えられているわけではない。
そして、遼河の推理は才原理事長の思惑通りのモノだった。
いくら賢くとも所詮は高校生。
その思考範囲は推して然るべきものなのだ。
そして、驚いているのは生徒だけではなかった。
朝の朝礼にて校長からいきなり知らされ、未だ戸惑っている教員も多い。
恵の娘である杏香だけは事前に知らされていたから驚きはないが。
「唯一無関心なのが当の本人ってのもアンタらしいけど。どうなのよ?具体的には何をするの?」
隣の席で授業の開始を大人しく待つ生徒。
翔へ向けて香織は好奇心をぶつける。
「……」
「なによ?今更無視?」
「……」
翔の様子がおかしい。
いや、元々おかしいのだが、入学当初へと戻ったかの様だ。
「翔!聞いてるのって、言ってんのよっ!?」
香織の怒号。それにより騒がしかった教室が静寂に包まれる。
翔の視線は一点へと向けられたままだ。
その視線がゆっくりと香織たちの方へと向けられる。
「内容は理事長補佐について」
「なによ。聞いていたのなら返事ぐらいしなさいよ…みんながアンタのことを心配しているんだから。もっと周りを見なさいよ…」
翔には聞こえていた。
しかし自分の名前が呼ばれなかったことで、反応を返さなかったのだ。
これは最近なかったこと。
それは、入学当初の反応へと戻っている証左だった。
返事があったことに少し安心する香織。
そんな香織の言葉尻が萎んでいくも、次に聞かされる言葉により、クラスメイト達へ戦慄が走る。
「出席番号十六番武藤沙耶香は、その間左肘を右掌で4回摩っていた。出席番号十二番島谷遥香は、その間右踵を6回床へと足踏みしていた。出席番号・・・・」
クラス全員の名前が呼ばれるまで、それは続いた。
その間、誰一人言葉を発せなかったことは何ら不思議ではない。
人は未知と遭遇した時、何もできないのだから。
「下手な薬より、明らかに効果が見られます」
モニタールームにて、教室に設置された監視映像を見ながらの発言。
『そうか。元に戻ったのなら、それでいい』
「はい。引き続き監視します」
使用したのは衛星電話。盗聴の危険性の少ないものだが、それでも安全の為会話は最小限に留める。
これは取り決めの通りだった。
「082。貴方が羨ましいわ。あの人の関心を一身に集めることが出来て」
通話後。
一人きりの部屋で翔の映るモニターを眺めながら恵が呟く。
彼女は未だ才原を愛している。その身を燃やすほどに。
「翔。どうしちゃったのよ…」
放課後。結局、今日一日を通して翔とまともな会話が出来なかった香織は、本人不在の席を眺めながら溜息と共に呟きを漏らした。
機械の様に精密な射撃。それに必要なのは計算力ではない。計算は基本狙撃手とは別の人間が行うものだからだ。
勿論、翔のように単独で行動する者であれば必要な技能でもあるが、一番はそこではない。
微動だにしない肉体、次いで揺れない心。
この二つが精密な狙撃には欠かせない要素である。
これらを行えるようにする為、翔の心は機械的であることが望まれている。
肉体はそれらに依存するので、心が乱されれば身体も乱されるのだ。
さらに成長期でもある。乱されたまま成長すると、大人になってからそれを矯正するのは至難の業。
脳ではなく身体へと染みついた癖の恐ろしさ。
才原所長はそれを懸念していたのだ。
『心は本来どうでもいい。しかし、完璧な肉体を造り上げる為には、それらのコントロールも必要となってくる』
折を見て、思い出したかの様に恵へと伝えられていた言葉。
それは果たして恵にだけ伝えたかった言葉なのか。
翔へ、もしかしたら自分へ。
その心の内は、本人も知り得ないのであった。
「これから帰宅するが、五十嵐くんにはついてきて欲しい。いいかね?」
ノックも挨拶もなく理事長室へと入ってきた翔へ向けて、才原理事長も何も無しに要件だけを伝える。
しかも、その呼び名は082ではなく仮初の名を呼んだ。
これらは盗聴対策なのだろう。
現時点ではあり得ないが、明日からはそれも分からない。
故に、明日からの練習の為にも、この接し方でこれから通すようだ。
練習は己の為。翔に限ってその様なミスは起こさないと信頼している。
「わかりました。理事長」
「うむ。良い返事だ」
自分を名で呼んだ。それであれば、ここは理事長と返すべき。
それくらいのことは頭で考えなくとも、翔の身体は反応した。
これから向かうは学園からほど近い距離にある才原邸。
近所でも豪邸として有名な邸宅だが、才原理事長がそこへ帰ることは稀であった。
これからは毎日帰る場所となる。
帰路。黒塗りの高級車を運転するのは理事長本人。
翔は助手席へと腰を下ろし、視線は前方、サイドミラー、ルームミラーへと忙しなく動いている。
教室は物理的に動きようがない為、翔の視線が動くことは少ない。
しかしここは高速で景色が流れる車内。翔は車の中身を守る為に視線を動かしているのだ。
「五十嵐くん。どうかね?来年も主席を取れるか?」
「はい。理事長」
車には既に盗聴器が仕掛けられている可能性がある。
車を確認したのは今朝。それからは駐車場へと放置していたのだから。
以上の理由から、無言は拙いと考えたのだろう。
しかし才原理事長にも雑談スキルはない。
学生といえば成績だろうと考え、以上の会話になったのであった。
「入りなさい」
刺客が送られる可能性を考慮していたが、流石に昨日今日では事は起こらなかった。
高さ2.3mは超える巨大な玄関扉が開かれ、才原理事長は翔を促した。
「お帰りなさいませ」
そんな二人を出迎えるのは、中年の男性。
言葉遣いから、才原理事長が雇っている使用人なのだろう。
「彼と書斎に籠る。食事は私の分だけで構わない」
「わかりました」
使用人の男性に会釈された翔は、同じく小さな会釈で返した。
翔にとって初めて会う男性だったが、その男性の翔を見る目は少し変わっていた。
具体的なことはわからないが、失くし物を見つけたような、そんな眼差しだった。
「掛けなさい」
書斎へとやって来た二人。中は古書に囲まれた独特の香り漂う書斎そのものだった。
理事長室と変わりない家具の配置であり、ソファーへと腰を下ろした翔へ向けて、才原理事長は口を開いた。
「この部屋の防諜機能は最高クラスだ。ここでの会話は漏れない。理解したかね?」
「理解した」
「先ほどの男だが、誰だと思う?」
この部屋では禁句事項がないということ。
つまり、ストレートで伝わりやすく間違いのない言葉が求められるということ。
「身体の動かし方から、実働部隊の類ではない。目線の動かし方から、ネゴシエーターである可能性が高い」
「正解だ。彼の本職は、君を含む日本で活動している者達の仕事を交渉する、請負人なのだよ」
体重移動に関して普通の人よりかは幾分マシ。
人間観察の分野においては、自分に匹敵するものを感じた。
それを素直に言葉に出した。
刺客からその身を護るだけであれば、この建物と使用人の男で事足りる。
どうせならと、これまで培ってきたモノが腐っていないかの確認をすることにしたようだ。
才原理事長からの質問は止まらない。
数日後。
学園に初雪が降る。
積もるほどではないその雪は、一部血に染められていた。