悲喜交々
残暑は続くも、朝晩は過ごしやすい気候になっていた。
そんな時節。
才原学園は期末試験を終えていた。
「嘘…私が一桁…」
出席番号を聞けば、その者の成績がわかる。
そんな学園であれば、試験の結果を公に貼り出すことは当然とも言えた。
今もまた自身の立ち位置を把握して、生徒達は悲喜交々である。
そんな生徒の一人、浜崎香織は成績を伸ばしている喜の一人だ。
「あ…」
確認出来るのは、勿論自分の成績だけではない。
香織は目の敵にされているであろう、川村結衣の結果を見てしまった。
「香織やったじゃない!ああ…私も部活辞めて学業に専念しようかな」
「っ!!」
香織がいる場所は学年上位の結果が張り出されている所。
その場所にはAクラス又はBクラスの生徒が当たり前にも多くいた。
そう。いたのだ。川村結衣が。
棘のある言い方。
この学園では部活動への参加を推奨している。
無論テストの結果には反映されないが、大学進学の時は有利に働くからだ。
(酷い言い草…少し前だったら絶対に言わなかったわね)
お前は放課後に時間があるのだから、出来て当たり前。
私が同じことをすれば、私の方が上。だと。
そう捉えられてもおかしくはない発言だ。
出席番号十三番である結衣は、二十二番とその成績を落としていた、悲の一人であった。
それは単に部活動だけが理由ではないのだろう。
多感な時期。
彼女もまた、勉強以外に思い悩んでいたからこそ、そこに集中出来なかったのも事実ではあった。
「そうね。そうすれば私はあっという間に抜かされるから、是非部活動を続けていて欲しいわ」
「っ!!そ、そう?この結果は香織の実力だよ」
「ありがとう」
棘が刺さらなかった。
分かりやすい棘なのに、それを無視して無理矢理摘まれてしまった。
好きな人も、成績も抜かされてしまった。
残されたのは部活動をしているという、この学園では酷く当たり前な行動。
彼女もまた、男が見栄やプライドで苦労していると知っているモテ女の一人。
そうはなりたくない。
故に、香織と敵対する無意味さを悟るのであった。
「テストは終わった」
そう。期末試験は終わったはずである。
しかし、今日も変わらず香織は翔の家を訪ねて来た。
翔は端的に追い返そうとするも、ことコミュニケーションにおいては香織に分がある。
「知ってるわよ。頑張ったんだもの。見てわからない?」
「買い物帰り」
「そうよ。勉強のお礼に、普段碌なものを食べてない翔へ晩御飯を作りに来たのよ」
香織は買い物袋を提げていた。
買い物帰りなのは間違いないが、これまで香織のそんな姿は見たことがなかった。
それでも。
それでも、自分の時間を削られることを嫌う翔は、中々認めないのであった。
時既に遅し。
勝手知ったる翔の部屋。
香織は図々しくも上がり込むと、台所で作業を始めてしまう。
こちらも会話は不要。
会話をしても埒があかないと知っているからだ。
半ば恩返しの押し付けではあるが、学生に出来ることと言えばこんなものだろう。
「すき焼きだけど、食べれるわよね?」
親元で暮らす普通の学生が普段料理をする筈もなく、無難に鍋料理をチョイスしたようだ。
その辺り凝った料理に挑戦したりと、無駄に見栄を張らない香織らしさが出ていた。
「食べたことはない。だが、毒でなければ食べられる」
「…アンタ。私が今、包丁を握っているって分かって言ってる?」
翔に好き嫌いなどない。
もしかしたら、好きな物はあるかも知れないが、その可能性も薄いだろう。
もし好きなものが出来てしまえば、それを与えられない苦痛と戦うことになる。
であれば、そんなもの必要ないのだ。
毒に関しても、一通りの毒の味は覚えている。
勿論味覚だけでなく、視覚や嗅覚でも。
これについては翔なりのジョークなのかもしれないが、翔の生い立ちを知らない者からすれば、馬鹿にされていると受け取ってしまうものだ。
要は…翔にコミュニケーション能力が乏しいということ。
「はい。生まれて初めてのすき焼きよ」
調理を始めて一時間半ほど。
その間に翔はルーティンであるトレーニングを行い、香織から言われて始めたトレーニング後、すぐにシャワーを浴びることも忘れてはいない。
それまでの翔は寝る前にシャワーを浴びていた。
常人が不快に感じる状況下でも普段通り過ごせるように、汗をかいたからといってすぐにシャワーを浴びることはしてこなかったのだ。
テーブルに鍋敷きを置き、その上へと湯気の立っている鍋が置かれた。
「待って。そのままじゃなくて、この生卵を器で溶いて、それに浸して食べるの」
「こう?」
「そう。それと、食べる前には『いただきます』でしょ?」
まるで子育て。
翔が生卵を使わなかったのは、知らなかったからではない。
サルモネラ菌などの感染症を嫌ったからだ。
しかし、勧められてはしないわけにもいかない。
日本でサルモネラ菌に感染する確率はごく僅か。
仮に感染したとして、翔にはあらゆる耐性が付いていて、それは軒並み人外クラスの高さを誇る。
余程でない限り、生活や仕事に支障を来すことはないのだ。
それでも、生物を食べないに越したことはないが。
「…いただきます」
「はい。召し上がれ」
卵を溶き、手を合わせて祈る。
初めての二人きりでの食事。
外食をすることもちょくちょくある為、多勢の場は慣れている。
しかし、二人きり。それは経験にないことだった。
生まれてからこれまで、誰かと食事を共にしたことがない。
いつも用意された食事を、教わった順番に教わった方法で食す。
それが翔の食事であり、普段通りなのだ。
故に、湯気が立っている鍋ものなど、翔には縁がなかった。
「熱い」
「…アンタ、バカ?当たり前でしょ?ゆっくり卵に浸けて、冷ましながらいただくのよ」
「理解した」
食事とは、必要な栄養源を摂取する行い。
決められた手順を最速で熟すことを強いられてきた翔にとって、ゆっくり食事をすることは新鮮だった。
「良いのですか?」
モニターを見つめたまま、恵は才原所長へと問う。
今ならまだ間に合う。と。
「君はこの少女が恋をしているのだと考えるかね?」
「…いえ。ですが、時間の問題かと」
人の心の内。
そんなもの、神でもなければ知りようもない。
だけれど、恵もまた女子高生だった時期があるのだ。
謂わば、経験者は語るというやつである。
「そう、か」
才原は悩んでいた。
慕われるのも、問題だと。
「この年代の女の子は、どこまですると考えるかね?」
「もし、そうなれば…何でも。喩え、何もかも捨ててしまうことになっても」
「…凄まじいな。あの時の君も、そんな感じだったのかね?」
経験者だからこそ言い切れる。
そう考えた才原所長は、全てを捨てて自分について来た女性に、当時の感想を求めた。
勿論これは雑談に過ぎず、自身の思考をよりクリアなものにする為の会話でしかない。
「はい。ですが、語弊があります」
「何かな?」
「今も、です」
当時の恵は全てを持っていた。
若さ・明晰な頭脳・良家の娘という立場・可愛げはないが、美しささえ兼ね備えていた。
だが、今は才原所長の助手という立場しか持っていない。
娘もいるが、親子関係など最初から破綻している。
しかし、それで良い。
それが良いとさえ、今も昔も恵は思っている。
揶揄ったつもりが熱烈なラブコールを返され、皺の増えた顔を苦笑いに変えて、才原所長は頷くに留めた。
「まさか、あの顔と雰囲気に好意を寄せる若者が居るとは…想像だにしなかったよ」
翔は何もかもが特殊である。
顔は何もない。
感情がないので、表情もない。
表情がないと、どれだけ顔が整っていようが、それは異質に映ることさえあれど、好かれることはないはず。
更に言えば、表情がないと記憶にも残りづらい。
特徴が出てこないからだ。
怒り・喜び・悲しみ。
それらが表情を形成し、その人の特徴へと変わっていく。
怒りっぽい人は、やはり怖そうな顔として印象に残り、斜に構えた人は、やはり人付き合いの悪そうな印象として残る。
翔には、それらが何もないのだ。
人は無を恐れる。
無いから勝手に恐ろしいものを想像してしまうのだ。
翔が恐怖の対象として覚えられないように、周りと友好を深めさせた。
それが裏目に出てしまった。
「…嬉しそうですね?」
そんな窮地に立たされている筈の才原所長。
しかし、恵には嬉しそうにしていると映る。
「わかるかね?当然だろう。私が敬愛するあの方。082が好まれるということは、あの方が好まれると同義。それを喜ばないようでは、私はここにいないよ」
恵も全てを捨てるほど歪んでいるが、才原所長もまた歪んでいる。
翔は歪みなく、そして澱みもなく育った。
世間から見ると、酷く歪に見えるだろう。
しかし、それでも真っ直ぐに育った。
何の感情も育まず、何の理想もないままに。
「好まれるのは嬉しいが、有り難くはないね。最低でも後二年は時間が必要だ。
仮に感情が芽生えてしまっても、その身体を害するものでなければ、静観しよう」
「それ以外が起これば?」
「壊すさ。毒をもってね」
才原所長は翔の幸せなど望んでいない。
望みは不変であり、たった一つ。
この082を完成へと導くことなのだ。
「ふぅ…何だか子供みたいだったわ」
二人きりの晩餐も終わり、香織は家路に就いていた。
その帰路、鍋で少し熱った頬を冷ますように息を吐き、今日の感想を独り言つる。
「何考えてるのか相変わらずわかんないけど、それって赤ちゃんと同じよね?」
同級生を赤ん坊扱いしたことに、一人笑みが溢れる。
「案外…かわいいかも」
その想いは何なのか。
未だ名も無き想いを、香織は一人楽しんでいた。
暗躍がありませんね……
いえ、翔は変わらず依頼を受けているのですが、目新しいものがないだけなのです。
多分……