挨拶と旅立ちの前日
誰しもがその重圧に押し潰されるような重苦しい空気が流れていた。
「魔法道場」。魔法一点突破で発展してきたこの世界では、さほど珍しいものではないのだが、ここまでの歴史を持つものは少ない。加えて床は全面木製の板張りで神棚まであり、その内装は剣道場を思わせる。武道に勤しんでいないものでも何となく背筋が伸びてしまうのも頷ける。が、現在はその空気感も背筋が伸びるどころか凍りつくようなレベルまで引き上げられている。
静かに、しかし確実に怒気を孕んだ背中を見せる師と、確固たる意志を感じさせる弟子がその渦中にいた。
「ならん。何度もいったはずだな、それだけは認められんと。」
その言葉に対し彼女は自身の緋眼でもってまっすぐな視線を師の背に注ぐ。口は真一文字に引き結ばれたままである。
「受け入れる気は毛頭ないようだな。はっきりと言おう。お前では外の地獄ではやっていけん。わしは死地へ向かう愛弟子を見ないふりできるほど、薄情なジジイではない。」
『できるだけ早く強くなりたい』とその門を叩いた彼女に、他の弟子の数倍辛い師事をしてきた。愛情も並のものではないのであろう。その意志は固いようだ。だがその愛情を向けられる当人もそこは譲れなかった。
「これだけは、聞けません。」
幼いころからの宿願。今の自分の核とも言えるほどの願い。これを捨てることは数年間の自分を否定することも同意。
「そうか、ならばもはや何も言うまい。汝、シンシア・フォワード。この時をもってお前を破門とする。」
老人はもはや少女を見なかった。少女は、処分こそ厳しいものの、思っていたよりもすぐに許しを得たことに驚きを覚えた。しかし同時に、その背から師の本当の心が見て取れた。その背に何か込み上げてくるものを感じた。
「いつか、また…先生の、ご指導を、受けられるよう、必ず、生きて、帰って、まいります…」
と、震え声。
「破門と言ったな。もう、互いに顔を見ることなど、あるわけがないだろうが。」
こちらも若干の震え声。
「はい…では…」
「…」
「今まで…ありがとうございました。」
その一言に、今までの指導への感謝と、その恩に報いず夢を追う自分を送り出してくれることへの感謝の両方が含まれていた。
こうして当代随一の女流魔法使い『シンシア・フォワード』はこの五年間の願望を成し遂げるための準備を終えた。
彼女の願望、それはいなくなった幼馴染を探すこと。今では腰まで伸びるその美しい白髪がまだ肩にかかるか、かからないか…そんな幼い時分に抱いたものである。
道場を出るとすでにあたりは暗くなっていた。この日彼女は朝から旅立ちの前の挨拶回りをしていた。それを今、自分の師との対話をもって終えたのだった。
日没は過ぎたものの街自体はそんなに暗くはない。高くそびえたつビル群の中を行く。鉄柱が格子状に組まれ、その間張られたガラス。光が漏れ出ている。近代都市『オキト』。魔法を主体に発展してきたこの世界。その中でも先進国であるこの国には数多くのビルが立ち並ぶ。仕事、学校、住居、娯楽施設などそれぞれがそれぞれの目的のため建造されているが、その多くは共通して遅くまで活動を続けている。そこには生活する人々も当然いるわけで。そして人々の生活には光が必要不可欠なのも自明の理であって。そんな数多くの光が街を彩っているのだった。
毎日がイルミネーションのようで、こんなものに慣れてしまうとわざわざ遠出をして夜景やら何やらを見に行くことに大した価値を感じられないだろう。身近なものを特別に感じられる人は多くはない。ただ、この時のシンシアには…この見慣れた光景が明日からは身近で無くなることを分かっている彼女には、何かとてつもなく大切なもののように感じられて、その髪であらゆる光を反射しながら、物思いに耽る。
『彼』とは、気が付けば一緒にいた。けどいつだって私と彼は対照的で。根暗で物静かな私を、あちこち連れ回す快活な彼。そんな彼を想うようになったのはいつからだろう…
きっとこのままずっと一緒に生きていくんだとそう思ってた。でも七年前の悪魔顕現で私たちの世界は一変した。圧倒的な戦力を保持して現世に顕現した悪魔、未知の存在を前に我先にと逃げ惑う人々。事態は混迷を極めた。
偶然その場に居合わせた私たちは、それでもやっぱり対照的だった。私を守るために前へ出た彼と、群衆と共に後退した私。一度人波に飲まれた幼い私が、彼の元に再び戻るなんてできるはずもなく。彼のまだ小さい背中はすぐに埋もれて消えていった。
気付くと事態は収束し私は両親に抱かれていた。彼の両親もその場にいたけれど、やはりそこに彼の姿はなかった。
当時は、何が現れたのか、原因は何か、なぜ収束したのか。全てがわからない中、現地で行われた調査団の健闘は大規模な火災跡に阻まれた。
その後、数年間の調査と悪魔と戦う『使徒』との交流で様々なことが分かってくる。
悪魔は神との大戦の後、冥界に身を隠し、力を蓄えていた。人類の発展はその間にあったほんの一瞬に過ぎないということらしい。
十分に力を蓄えた奴らの目的は、現世、すなわち人の世を征服し、天界征服の足がけとすること。使徒はそんな奴らを撃退するため、人類から選ばれ、天使の権能を借り受けた存在であること、その他諸々。それ以来人類は、人口密集地にさらに集住し、共同で対応策を講じ、なんとか今まで生き残ってきた。
そんな制限を受けた生活が馴染んできた頃、私は魔法道場に入った。「『彼』を探しにいく」という目標を持った私は、死ぬ気で修練に臨み、いつしか史上最年少で、皆伝の証をもらうに至った。その年に覚悟を決め、周りの人々の了承を得るまで半年といったところだろうか。
彼は、今どこにいるのだろうか。というか生きているのだろうか。そんな情報だってない彼をどう探そう…
答えは出ない。そのうちにうるさいほどに輝いていた光は減っていき、いつしかたった一人、自分の部屋で座り込む。少女はその夜、ついに訪れる旅立ちに不安を残して眠るのだった。