1回裏 パンダ再び
茉穂が移籍してきてチームメイトとなって以降、1年間ルームシェアした部屋を離れ、珠音はドラフト加入した栃木ブラーゼンズ本拠地近くで1人暮らしを始める。
ブラーゼンズが自身を指名した裏事情を受け入れ、逆境の中でも全力を尽くそうと新人合同自主トレに臨む珠音だったが、これまで感じたことのない程の実力差を目の当たりにする。
1回裏 パンダ再び
荷造りを進めながら、茉穂は友人の表情を見やる。
ファームリーグに所属する栃木ブラーゼンズから指名を受けた珠音は本拠地近くに球団負担で部屋を借りることとなり、同居生活は1年で解消されることとなった。
珠音の名義で借りていた部屋に転がり込み、契約変更の上で茉穂が残る。
引っ越しの徒労感は否めないが、それでも眼前の友人は2人で住み慣れた自宅を離れる寂しさよりも、来週から始まる"プロ野球選手"としての日々に期待を膨らませている。
まさにそんな様子だった。
「――今でも、夢なんじゃないかって思うよ」
「夢?」
茉穂の言葉に、珠音はキョトンとした表情を返す。
「珠音と一緒にいると、今過ごしている日々が夢なのか現実なのか、分からなくなる時がある」
溜め息交じり苦笑し、茉穂は天井を見上げる。
「夢のようなことを成し遂げて前進し続ける人が、フィクションじゃなくて目の前にいる。起こっていることが事実なのか幻なのか、目に見えて耳で聞いた情報なのに判断がつかなくなるっていうのかな」
「はは、何それ」
無邪気に笑う姿は偶像でも虚像でもない、20歳そこらの等身大の女性で間違いない。
「でも、まだまだこれからだよ」
珠音は最後の段ボールを閉じ、ガムテープでしっかり封をする。
「私がこれから入る世界に先人はいないし、女子野球での実績なんて無いに等しい扱いだからね」
最後の段ボールを準備し終えたタイミングで、引越し業者が到着する。
育成契約ながら史上初の快挙として世間を賑わせた代償として、珠音は一時的にメディア取材で引っ張りだことなり、荷造りを思うように進めることができなかった。
ギリギリまでかかってしまった計画性の無さは反省しなければならないが、結果間に合ったのなら問題にはならない。
業者と協力して全ての荷物を運び出すと、部屋が何やらがらんとしてしまった。
ざっくり半分の荷物が無くなれば当然のことだろうが、茉穂がそれ以上の喪失感を覚えるのは、純粋な寂しさからだろうか。
「ギリギリまでありがと。それじゃあ、私は行くね」
珠音は引っ越し業者の車に同乗し、転居先へと向かうことになっている。
互いに左利き。
差し出された左手に、茉穂も左手で応える。
「待っているよ」
「――うん」
短いやり取りの後、珠音は部屋を出ていった。
少しこみ上げるものがあったが、そうそう感傷にも浸っていられない。
「さて、私も行こうかな」
気持ちを整え、茉穂は道具を満載した鞄を右肩にかける。
今日からチームメイトとの合同練習を開始する。
「待っているうちに、追い越してやる」
また同じ舞台で共に戦うために。
茉穂は扉の鍵をしっかり閉じ、一歩前へと踏み出した。
栃木ブラーゼンズは球団創設以来、東武宇都宮線の西川田駅が最寄りの栃木県総合運動公園内にある硬式野球場をブラーゼンズスタジアムと改称し、本拠地としている。
県内にはいくつか主要な硬式野球場があり、中でも宇都宮駅から鬼怒川を超えたさらに東方に収容人数の多い宇都宮清原球場が県内でも存在感を放っているが、近年にライトレールが開通するまでは交通の便が決して良いとは言えず、容量過多と地域密着運営に難ありとの判断からメインスタジアムとしての活用を避けた一方で、県内への野球振興を目的に含むため、県内その他の硬式野球場でもしばしば主催試合を開催している。
所属選手の全てが育成選手契約を結んでおり、支配下登録選手は基本的には存在しない。
珠音を始めとするドラフト会議を経た新規入団選手のほか、他球団から戦力外通告を受けた選手も一定数所属し、トップリーグ16球団へ支配下登録の上で金銭トレード移籍が成立した場合は、譲渡金の他に選手の契約金の一部(といっても僅かだが)をブラーゼンズに支払わなければならない契約を所属選手たちは締結していた。
最も、実例として金銭トレードの成立件数は年度毎1件あるかないかで選手の入れ替えも激しく、チームの看板選手と言える存在は短い球団史も相まって片手でも余るほどしかいない。
それは即ち、興行収入を得なければ球団経営が成り立たないプロ球団として致命的となりかねない弱点であり、ファームリーグ限定で参入しているとならば尚更である。
「つまり、私は選手として"だけでなく"興行面、つまりパンダとしての役割も大いに期待されている、と」
メディアの注目を集める中、珠音の指名挨拶には球団社長自らが出向いており、生々しい現状を隠すことなく打ち明ける。
球団経営は極めて厳しい状況であり、県内出身者を積極的に新人指名する、あるいは他球団を退団後の選手と積極的に契約交渉するなど努力こそ重ねているが、そもそも有力と呼ばれる選手や指導者は他球団を優先してしまうのが実情であり、チームの戦績も芳しくはない。
メディアの注目がそれだけ武器になることは珠音自身もよく理解しており、包み隠さず告白した球団社長に対してむしろ、清々しさすら感じられ、嫌味の何か一つもいう気にはなれなかった。
「分かりました」
眼前に座る球団社長が唯一ついたであろう、嘘。
選手としての期待は、それほどでもないのだろう。
「慣れていますので、お気になさらず」
もとより、自身が置かれるのは極めて厳しい環境に違いはなく、逆境の要素が一つ加わるくらいでどうこう言う暇があるなら、むしろ楽しむくらいの気概を見せなければ乗り越えることなど叶わない。
楓山珠音はいくつかの確認事項を済ませると、その場で契約書にサインした。
メインスタジアムに女子更衣室は当然の如く存在せず、割り当てられた小部屋で練習着へ着替える。
男女混合で競技に臨むことを想定していない内装構造であることは明白だが、女子プロ野球リーグでは当然ながら女性選手しかおらず、問題になることはなかった。
「この感じ、久しぶりだなぁ」
高校3年生の夏大会以来、約2年半ぶりの不便さを一通り満喫しつつ、珠音はすっかり着慣れていた女子チームのジャージに袖を通す。
球団ユニフォームは2月のキャンプインまで着用できないため、幹部の期待に少しでも応えようと"目立つ"色合いにしてもよかったのだが、初っ端からは流石に気が引けた。
「おはようございます!」
グラウンドへ顔を出すと、既に何人かの選手がストレッチを開始していた。
まるで異なる声色に選手のみならず、メディア取材陣の注目も珠音の姿に集まる。
「このチームが注目されるなんて、創設1年目以来だな」
「少なくとも、私が就任して以来は初めてですね」
新人合同自主トレの初日に、わざわざ球団社長と監督が顔を出すことなど例年の対応では見られないだろう。
珠音の加入効果は最初から明確に現れており、この調子ならばスポンサー確保や観客動員も一定に期待できるかもしれない。
「うわぁ...でっか」
一方、注目を集める珠音はと言えば、自身を囲む選手の体格に圧倒されていた。
女子選手の中では比較的長身の部類だったが、高校硬式野球部の選手と比べても数回りは大きく、直近で女子選手しか相手にしてこなかったこともあり際立って見える。
現状を傍から見れば正しく、熊の中にリスが混ざっているようにも見えることだろう。
簡単なミーティングを経て、選手たちは一緒にアップを始める。
「(速い!)」
短距離ダッシュに始まり、各種ウォーミングアップをこなす中、珠音は身体能力の圧倒的なまでの差をヒシヒシと感じていた。
ならば本職投手としてキャッチボールくらい、と気持ちを切り替えるものの――
「(一球一球が重いし、遠投だって平然ととんでもない距離を投げる)」
――珠音は自身が正しく"プロ"、即ち職業としてその競技に取り組む者たちが集う世界に足を踏み入れたことを実感する。
「このレベルでファーム。しかも、戦力外通告を受けた選手と育成選手か」
入団するにあたり、決してプロの世界を舐めていた訳ではない。
静岡サンオーシャンズの捕手である兄の将晴や、高校まで常にバッテリーを組み高校卒業と共に兄と同じチームに入団した土浦浩平の苦労は、時折連絡を取った際に伺い知っている。
「ただいま」
選手寮へと帰る同期と別れて自宅に戻ると、珠音は荷物を床へ無造作に置き、電気を付けることなくベッドへ横になる。
ルームシェアしていたつい先日までなら茉穂が迎えてくれる、あるいはやれやれと構ってくれたかもしれないが、無いものねだりをしても仕方がない。
「頑張らないと」
一人で過ごすことに慣れ始めた、まだ寒い冬の頃合い。
薄暗い部屋に消え入るような珠音の独白は、誰の耳にも届かなかった。
Pixiv様にも投稿させていただいております。
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