8回表 ―希望の花― 3.進む覚悟
待ち遠しかった春、少しでもゆっくり来て欲しい春。
大きな目標のもとでは、早くグラウンドに立ちたい高揚感と、全国から集まる強豪校と互角の勝負を繰り広げるべく無限の練習時間が欲しいもどかしさもあったが、部員たちはただただ前だけをみて進む。
珠音と浩平は練習終わりに職員室を訪れ、ひょんなことから部員たちを支える大人たちの苦労を知る。
世の中に変革をもたらし、これからも常に前を走り続ける存在としての覚悟を固めると同時に、珠音は高校生活が自身の存在価値を確認する場―チェックポイント―になることを自覚した。
待ちわびた春。
珠音に渡された背番号はそれ即ち、仲間たちと重ねた努力の成果と言えた。
3.進む覚悟
選抜高等学校野球大会への残り時間が減る程、練習はより濃密なものとなっていった。
オフシーズンで練習試合を組まない分の時間を全て基礎練習に割き、プレイ一つ一つの質を高めていく。
「より上位の大会に進むからと言って、うちのスタイルを変えることはない。色気を出したところで、隙を生じさせたら元も子もないからな」
鬼頭はミーティングの場を設けると、開口一番に部員へ宣言した。
打者は投球を見極めてボール球には決して手を出さず、投手は無駄なランナーを出さず、守備では堅実にアウトを取る。
専属コーチがいるわけではなく、超高校級の選手が多数所属している訳でもない。
常にロースコアで緊張感のある試合展開が続くが、チームが勝ち上がるために考えた成果が選抜への出場と言える。
選手たちもそのことは重々理解し、練習を送る日々が続いていた。
「そういえば、茉穂さんはそろそろキャンプインなんだって」
「いよいよ本格始動か。関西となるとなかなか会えないな」
茉穂は女子プロ野球リーグの京都に本拠内を置くチームへの入団が決まり、既に鋸南町を離れ、チームメイトとシェアハウスを始めたようだ。
「"慣れないことも多いし練習もハードだけど、毎日充実している"って。何とか予定を合わせて、試合も見に来てくれるって言ってた」
「プロに見てもらうからには、恥ずかしいプレイはできないな」
用具を片付け終える頃には既に太陽は沈み、春の近付きを感じさせない肌寒さに思わず身を震わせる。
「うわー、すっかり遅くなっちゃったな」
珠音と浩平は手早く着替えを済ませると、部室の鍵を返すべく職員室にいる鬼頭を訪ねた。
「はい、はい、失礼いたします」
電話応対を終えた鬼頭は椅子にもたれ掛かり、どことなく疲れが見えていた。
「お疲れ、"また"か?」
「あぁ」
鬼頭は2人の存在に気が付くことなく、谷本から差し出されたコーヒーを受け取る。
「生徒たちには謂れの無いことだ。好き勝手に言いたい奴には、言いたいだけ喋らせておけばいい」
「と言いつつ、律義に対応しているじゃないか」
「好きでやっている訳じゃない」
鬼頭は苛立ちを理性で抑え込もうとするが、傍から見る限り隠しきれていない。
影から見守る2人からも、その様子ははっきりと見て取れた。
「どれどれ」
谷本が徐にリストを手に取り、内容を読み上げる
「"女子選手起用”でメディアの注目を受けただけ。メディアに媚を売ったクソ学校。話題性だけで選抜に出場した恥知らず。実力不足。おやおや、選考委員会に女子部員を売春させたに違いない。質の悪い、どれも情緒に欠けていて文学的じゃない」
谷本は肩をすくめ、紙面を鬼頭に返す。
「称賛の意見も多い。事実、無言の支持が圧倒的多数なのも承知しているつもりだ。だが、悪意の込められた尖った意見はやはり目立つ。こういったしょうもない意見が増えるのも、それだけ大きな反響があったってことだ」
「あぁ」
鬼頭はコーヒーを飲み干し、溜め息をつく。
「その全てから、みんなを守らなきゃいけない。ドリップコーヒーだって、フィルターがあるから美味しく飲めるだろ」
「で、お前はコーヒーフィルター役って訳か。この前の一件が根底にあるんだろうが、素晴らしい責任感も気を張りすぎるといけないぞ。カフェインだって少量なら嗜好物だが、過剰量の摂取は身体に毒だろ」
「善処する。こんなの、あいつらには見せられんからな」
「そうだな。だが、残念ながら油断してしまったようだな。そこに2人程隠れているぞ」
鬼頭が慌てたのか椅子から転げ落ち、その姿を認めると諦めたように溜め息をつく。
「......どうしてそこにいる」
「部室の鍵を返しに来ました」
珠音が気まずそうな声で答えると、鬼頭は注意力の落ちていた自分を責めるように頭を抱える。
「どこから聞いていた」
「谷本先生からコーヒーを受け取ったところからです」
口ごもる珠音を見てから浩平は正直に答え、鬼頭は深く息を吐き出す。
「殆ど全部じゃないか」
「すみません」
「責めている訳じゃない」
谷本が近くの椅子を集め、2人を座るよう促す。
「あの――」
「まぁ、俺たちの選抜出場を手放しに称賛してくれる人ばかりではないってことだ」
珠音が聞くよりも前に、鬼頭は自ら口を割る。
「目立つことをすれば、それだけ噛みついて来るようなやつも増えてくる。実を言うと、メディアでうちの学校が報道されるようになった去年からチラホラあったんだが、"特例"について発表された10月から急増してな。そんな状況で選抜出場の決定だ。1月の発表直後は学校の電話が鳴りやまなくて、職員総出で対応したもんだよ」
苦笑する鬼頭に、珠音と浩平は言葉を失う。
珠音が取材対応で練習を抜けることは度々あったが、自分たちの知らない所で日々騒動が起こっていたなど、考えても見なかった。
「あの、すみません」
全ての原因は自分にある。
当事者としての意識がある分、珠音の脳内は瞬間的に自責の言葉で埋め尽くされた。
「何故、謝るんだ?」
鬼頭はジッと珠音の瞳を見つめ、思考を停止させる。
「あの、この前のこともありましたけど、私たちのことでそれだけ大変な思いをしていたなんて、考えてもいませんでした」
「それだけ大変なことをしたということだ。世の中に議論を呼ぶ題材を投じ、権利を勝ち取るべく戦い、成果として"大きな変化"を世にもたらした。その証拠が少数だが鋭利で人目に付く批判と、眼に見えないが無数且つ無言の称賛だ。誇る謂れはあっても、謝罪することではない」
鬼頭の言葉に、珠音は小さく頷く。
「楓山、君は卒業後にプロを志望すると言っていたな。そして、将来は男子のプロリーグでの活躍を目指すと」
「はい」
「この先、君が行く先々には様々な壁が待ち受けるはずだ。自分の力量を上げることで乗り越えられるものだけでない。何の謂れもない誹謗や中傷にその身を晒すことだってある」
珠音の表情が曇る様子を、浩平は静かに見守るしかない。
「だが、あらゆる障害を乗り越えてこそ、君の真の価値はみんなに認められる」
「全てに耐えて、私のやってきたことはようやく認められる。それまでただひたすらに我慢しろってことですか?」
珠音の問いに、鬼頭は首を横に振る。
「何も全てに耐えて、我慢する必要はない」
「それじゃあ、私はどうすればいいんですか?」
「ここに来なさい。ここでなくても、信じられる仲間の所へ行きなさい。君には大切な仲間がたくさんいる。立ち止まりたい時、振り返りたい時は必ず来る。休憩場所やチェックポイントを作れている人は強い」
珠音は小さく頷き、浩平を見る。
信じられる仲間、辛い時も支えてくれた仲間は、すぐ傍にいる。
「そして、君は立ち止まってはいけない。君を支えてくれた人のためにも、これから君を支えてくれる人のためにも、そして君が支えたいと願う人たちのためにも」
「――分かりました」
珠音は強く頷き、寄せられたコメントの書かれた用紙を手に取る。
「どうすれば正解なのかは分かりません。なので、私は私の精一杯のプレイで、この人たちを黙らせてみせます」
珠音はそう言うと用紙を粉々に破り、足元が白い紙吹雪で埋まる。
「その意気だ」
鬼頭は満足気な表情を見せ立ち上がり、箒と塵取りを持ってくる。
「さ、掃除したらさっさと帰れ。下校時間だ」
掃除を済ませ鍵を鬼頭に返すと、2人は職員室を後にした。
「私たち、知らないところで先生にたくさん守ってもらっていたんだね」
校門を出た所で、珠音がポツリと呟く。
「先生だけじゃない、学校の人たちにも、他の人にもたくさん支えてもらっているんだ」
「そうだね。私たちを支えてくれた人への恩返しという訳じゃないけど、みんなの思いに応えるためにも、優勝とは言わない、甲子園では私たちの野球をやろう」
自分たちは多くの人に支えられ、日々を過ごしている。
2人は瞬く星々に見守られ、決意を胸に帰宅した。
寒さも徐々に和らぎ、行き交う人々の装いも冬から春へと移り変わり始める。
桜の蕾がもう間も無く花開こうとする時期は、別れと出会いの季節。
「先輩方、ご卒業おめでとうございます!」
チームの変革期を支えた3年生の卒業式が粛々と執り行われ、式の後に卒業生はグラウンドに集合した。
チームを代表して二神が送辞を送り、2年生から3年生へ花束と記念館が贈られ、その様子を保護者が見守っている。
「いいねぇ、青春の1ページだねぇ」
「いや、何で立花さんがいるんですか」
「それはそれ、これはこれ。というか、今更でしょ」
当然のように話す立花はベストショットを切り取ろうとカメラのシャッターを切り続け、見守る珠音は思わず苦笑する。
「うちら、卒業旅行で大阪と京都に行くから、ちょっと足をのばして甲子園まで行くよ。お前らが嫌だと言っても見に行くから、抽選結果出たらすぐに教えてくれよ!」
わざわざ日程を大会期間に設定するあたり、野球部の選抜出場は学校あげてのお祭り騒ぎとなっている。
「この間はデモテープありがと。いい感じじゃん。ちゃんと練習しているよ」
「ありがとうございます!」
琴音は吹奏楽部の部長として応援曲の練習を指揮し、難航したオリジナル応援歌の作曲も何とか作り上げ、約束通り舞莉へ楽譜を送っていた。
最近ではチアリーディング部との合同練習も開始するなど、多忙な毎日を送っている。
「さて、役者は揃ったな」
前もってこの日に選抜に向けたメンバー発表を行う旨、部員と卒業生には伝えている。
鬼頭はネクタイの首物を緩めると、ポケットから4つ折りにしたコピー用紙を取り出す。
「これから選抜のベンチ入りメンバーを発表する。番号順にいくぞ。名前を呼ばれたら、背番号を取りに来い」
『はい』
先程まで賑わっていたグラウンドが一気に静まり、鬼頭の読み上げをじっと待つ。
グラウンドにそよ風が舞い、鶯の鳴き声だけが聞こえてきた。
「1番、楓山珠音」
「はい!」
名前を呼ばれても、珠音は浮かれる仕草を見せることは無い。
大舞台を任される責任は重い。
「頼むぞ」
「はい」
鬼頭から背番号を手渡されると、周囲から自然と拍手が沸き起こった。
「2番、土浦浩平」
「はい」
公式戦では中学の夏大会以来、およそ2年半ぶりのバッテリーとなる。短いようにも思えるが、それ程濃密な高校野球生活を送っている証拠だ。
新3年生を中心に次々と名前が呼ばれ、大庭は三塁手のレギュラーとして"5"を。キャプテンの二神は遊撃手のレギュラーとして"6"の数字を手にする。
「16番、伊志嶺まつり」
「――はいっ!」
Aチームの当落線上と目されていたまつりは、安定した内野守備力を見込まれての選出になった。
「二神が投手兼任だから、当然スタメン出場もあり得る。心得ておいてくれ」
「分かりました」
震える声を絞り出して応えると、まつりは珠音の横にそっと立つ。
「珠音、ありがとう。あの時声を掛けてくれたから、私も甲子園のグラウンドに立てる。連れて来てくれて、本当にありがとう」
「私もまつりが来てくれて嬉しかった。一緒に甲子園の舞台を楽しもう」
2人は肩を抱き合い、互いの健闘を誓い合う。
「いい画ですね」
「あぁ、バッチリ撮ったよ」
立花はデジタルカメラで背中側から撮った写真を舞莉に見せる。
「他のも見せてもらっていいですか」
「いいよ」
舞莉はそのままカメラを受け取り、立花の撮影した写真をスクロールしていく。
「あれ?」
目に留まった写真の端に花壇が写っており、舞莉はカメラの画面と実物を交互に確認すると、珠音の後ろに物音を立てずに近付く。
「珠音、見てごらん」
「うわっ、ビックリした。......あ、水仙が咲いてる」
茉穂から贈られた球根から芽吹き、力強く空に向かって伸びた茎の先端に白い6枚の花被片と鮮やかな黄色の副花冠が太陽の光を受けて輝いている。
「知っているかい?欧米ではね、水仙は"希望"の象徴とされているんだ。厳しい寒さにジッと耐えて春の訪れと共に咲く姿が、人々にそう思わせるんだろうね」
「"希望”...知らなかったな」
「鍛冶屋さんからのメッセージなんじゃないかな。君は辛い時期をジッと耐え、ようやくこの春に花開く時が来た。これまで公式戦出場を願いながらも叶わなかった先人たちから見れば、君は"希望の花"といっても過言では無い」
珠音は"1"をジッと見つめ、茉穂の姿と名も知らない先輩たちの思いを想像する。
「この背番号は私一人だけの物じゃない。チームのみんなの願いも、私を応援してくれる人の思いも込められている。そういうことですね」
舞莉は優しく頷き、軽く背中を押す。
「さぁ、行ってきな」
「ほら、珠音。集合写真を撮るぞ」
浩平に呼びかけられると珠音は慌てて輪に加わり、Aチーム副主将兼Gチーム主将としてレンズの中央に陣取る。
「それじゃ、みんな取るよー」
カメラ係を買って出た立花が、出来の良い写真に満足気な表情を見せる。
「それじゃ、卒業生も入っちゃえ」
ユニフォーム姿の現役生を支えるように、制服姿の3年生が後ろへ並ぶ。
最前列に座る珠音の後ろに、これまで支えてくれたチームメイトが揃った。
「幸せ者だな、私」
「何か言ったか?」
浩平の問いに珠音は微笑を見せて静かに首を横に振って応えると、ファインダーへ再び真っすぐな視線を送る。
「相変わらず、吸い込まれるようないい瞳ね。人はたくさん写っているのに、自然と目に留まっちゃうわね」
立花がシャッターを切り、この瞬間が時間軸から永遠に取り残される。
多くの仲間に支えられた珠音の瞳は、勝利を目指す強い意志に色濃く染まっていた。




