3回表 ―鈍色の想い― 3.前進する決意
珠音は野球を続ける意志を固め、鬼頭に手渡した退部届を破り捨てる。
それ即ち、男子の中で硬式野球を続け、1人の高校球児として公式戦出場を目指す決意を表していた。
例え大人から「我が儘」と言われようとも、やりたいことをやりきりたい。
バッテリーは決意を新たに、前に進むことを決めた。
Pixiv様にも、投稿させていただいております。
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3.前進する決意
舞莉が上機嫌で教員室の扉を開く。
顔見知りの教員に鬼頭の座席を聞き出すと、その場所で目当ての人物は浩平や二神、夏菜といった野球部員が囲んでおり、何やら真剣に話し込んでいるようだった。
「あれ、部長?」
その中で1人、そもそも野球部員ではない琴音が舞莉の存在に気が付き、声を掛ける。
「あれ、琴音じゃん。今日は全体練習無いし、とっくに帰っていると思っていたよ」
「自主練してました。あと、やっぱり珠音が心配で」
「真面目だね。琴音のそういうとこ、大好きだよ」
「ふぇっ!?」
舞莉が赤面する琴音の顎を指で手繰り寄せ真顔で囁く動作はやけに様になっており、集まった面々から思わぬ注目を集めてしまった。
「何してんだ、水田」
「なんだ、野中くんもいたのか」
浩平の影から、溜め息をつきながらキャプテンの野中が顔を出す。
クラスメイトで同じく大所帯の部活動を束ねる者どうし、何かと話す機会も多いようだ。
「鬼頭先生に用事があったんだけど、取り込み中みたいだね」
「俺に......?」
鬼頭は舞莉のクラスの授業を受け持っておらず、大した接点も無い。
若干戸惑いの表情を見せる鬼頭を他所に、浩平が変わって説明をする。
「うちの楓山が先日の試合以来、久々に登校したんですが、部活に顔を出さないまま帰ってしまいまして。どうやら、教員室でもひと悶着あったようですし、俺たちで力になれることがないか、先生に相談しようと思いまして」
「なるほど、で、これか」
舞莉は机の上に置かれた"退部届"を認める。
どうやら、相当思い悩んでいたらしい。
「......まぁ、大丈夫だと思いますよ」
舞莉は先ほど珠音に披露したペンタイプのボイスレコーダーとスピーカー、SDカードを差し出す。
「これは?」
「差し入れです」
舞莉は珠音に聞かせた時と同様に記録データを再生する。
音声として直接入ってくる情報に、学生たちは顔をしかめた。
「事件は現場で起きる物だそうですが、その現場が会議室だってこともあります。直前に近くを通りかかった時に不穏な空気を感じましたので、少々の小細工をしてみました」
「......先輩、吹奏楽部ですよね」
浩平の言葉に代表されるように、一同の驚愕と少々の呆れが込められた表情に満足した様子を見せる。
「新聞部も兼部しているから、スクープには鼻が利くのさ」
「いやいや、高校生にできることじゃないですよ、部長!」
「不可能を可能にする女.....女子高校生探偵......んー、どちらもいい響きだ」
舞莉は意味もなくその場で2回転すると、すっと真剣な表情に戻す。
「データをコピーしたら、返してくださいね。明日取りに来ますので、私は帰ります」
「あ、あぁ」
伝えたいことを終わって満足気な舞莉は集まった面々をじっくり観察すると、教員室の扉を開いて一点を見つめ、振り返ることなくその場を後にした。
「......ねぇ、あの先輩っていつもあんな感じなの?何か、変わった人だね」
暫く沈黙が流れた後、夏菜が小声で琴音に問い掛ける。
「うーん、掴み所のない不思議な人ではあるけど......」
琴音が苦笑を見せる。どうやら、”変人”という認識で間違いはないらしい。
「それで先生、そのデータはどうするんですか。そのデータを公開すれば、俺たちはかなり有利になるかもしれないですよ」
野中の指摘に、鬼頭は頭を指で掻く。
「まずは校長と教頭に報告して、対応を協議する。内容は共有してもいいが、まだあまり事を大きくしないでくれ」
「確かに重要なデータですけど、今使った所で効果は薄そうですね。タイミングが重要ということですか」
二神が鬼頭の意図を汲み取り、周囲も納得の表情を見せる。
「そういうことだ。学校は野球部の味方だから、安心してくれ。味方は少しずつ増やしていこう」
「分かりました」
野中が代表して了承を示した直後、教員室の扉が開かれる。
「......珠音?」
現れた姿を確認して、浩平が驚きと安堵の表情を見せる。
下ろしていた髪は再び結い上げられ、頭上ではポニーテールが身体の動きに合わせて忙しなく動き回っている。
「先生、さっきの、退部届、ありますか!」
ここまで走ってきたのか、珠音は息を若干切らし顔を紅潮させている。
鬼頭は机の上にある退部届を差し出すと、珠音は奪うと表現した方が適切な勢いで受け取り、そのままビリビリに破り捨てる。
「先生、さっきはすみませんでした!」
珠音の声が教員室の隅々まで響き渡る。
しかし、彼女の元に集まる視線は先ほどのように心配そうなものではなく、通常通りの賑やかさを取り戻した安心感に満ちていた。
「私、まだ野球を続けたい。それから、練習試合だけじゃなくて、公式戦にも1人の高校球児としてマウンドに立ちたい気持ちに、嘘がつけなく――我慢ができなくなりました。これからどうなるか分かりませんが、まずはできることからやってみたいと思います。よろしくお願いします」
珠音は上半身を90度倒し、床面と並行にする。
「先生、俺からもお願いします」
浩平に続き、野球部の面々が次々と頭を下げていく。
「端から、俺はそんなもんを受け取った覚えはない。目立つからやめてくれ」
鬼頭は苦笑を見せると、珠音に向き直す。
「楓山、辛いかもしれないが、今は我慢をしてくれ。何とかできる保証はないが、何とかできるよう俺なりに力を尽くすつもりだ。一緒に頑張ろう」
「はい!」
珠音が満面の笑みを見せると、浩平は心から安堵の表情を見せる。
昼休みに様子を窺いに行った時には別人のように見え、数年振りに数日会わなかった間の変化に、声を掛けるのも思わず躊躇われた。
「とりあえず、まずは練習を無断で欠席した罰だ。箒と塵取りを持って来て、そいつを片付けておけ」
鬼頭は笑顔で床面に散らばった紙面を指さす。
「分かりました!」
珠音が教員室をバタバタと動き回り、掃除用品を探し始める。
長年の相棒が見せるいつも通りの姿に、浩平は日常が戻ってくることを確信した。
1週間ぶりに2人で歩く帰り道。
すっかり遅くなってしまい、ちょうどいい時間のバスがなかったことから、珠音と浩平は寒空の下を歩いて帰っていた。
大した期間ではないはずだが、浩平には随分と久し振りのように思えた。
「何か、久し振りな気がする」
珠音も同様なのか、ポツリと呟く。
「何がだ?」
「一緒に帰るの。部活が休みの日もあったし、中学の終盤は受験勉強ばっかりで学校に行っても野球に触れない日はあったけど、浩平と一緒に帰らなかったのって本当に久し振りだよね」
「そういえば、そうだな」
言われてみればいつ以来だったのだろうかと、浩平は思い返す。
珠音と同じく、浩平も中学校3年間は皆勤賞を貫いた。
伊達に熟年夫婦と呼ばれただけのことはあり、特に珠音たちの学年主体の新チームに代替わりしてからは練習がない日も珠音は女子友達と帰らず、浩平らと時間を共にしていた。
親よりも長い時間を一緒に過ごすチームメイト、その中でも珠音の存在は別格である。
浩平はこの数日間で、改めてそのことを実感した。
「......それにしても、増渕って人だっけ?散々言ってくれたなぁ」
「実力に劣る投球、だって。失礼しちゃう、スポーツマンシップに則ってないよね!」
「俺なんてホームラン打っているんだけどなぁ」
珠音が鼻息を荒立てる。
相手打線を抑え込んだのも、自分の実力や努力の成果ではなく、相手が侮った結果と言われたことに心底腹を立てているようだった。
「まぁ、言っていることが正しい点もあるさ」
「あれ、私たちの”敵”を庇っちゃうんだ」
珠音が唇を尖らせ、不機嫌を素直に表す。
「いや、そういう訳じゃないが。接触プレイについて意識するのは、無理ないさ」
改めて横を歩く珠音の姿を見る。
高校野球に打ち込む球児たちは、中学校時代に成長期で伸びに伸びた身長に加え、厳しい練習で鍛えぬいた肉体を持つ。
「別に、私としては多少触られるくらい、訳ないけどなぁ」
珠音はやや短めのスカートの端を掴んだり、両碗で胸を軽く押し上げたりする。
珠音は成長するにつれて無意識の内に身に付けつつあった”女性”としての魅力に自身で気が付いていないのは明白であり、ガードが甘くなりがちな印象は日頃から散見される。
「そういうことじゃない」
自分の目線からは数段低い位置にある頭、少しずつ大人びていく華奢な体躯、力強さとはかけ離れた腕、スカートの下から露になる太もも。
同世代の同性から見ればしっかりとした身体付きも、異性から見れば子どもとは言わないまでも弱々しく感じられる。
さらに男女の身体の内部構造がさらに異なるとなれば、意識しないわけにはいかない。
「何、もしかして触りたいの......?」
あまりにも真剣な様子で観察してしまったせいか、珠音からケダモノを見るような視線を向けられ、両腕を組み胸をガードするようなポーズをとる。
「男子ってちょっと触ったくらいで勃っちゃうの!?」
「はぁっ!?」
「だから私、公式戦に出られないの!?」
「勃たねぇよ(たぶん)!」
このように馬鹿げた会話ができるようになったのは幸いだが、このままのテンションで話し続けると身が持たない。
浩平は徒労感の詰まった溜め息を漏らすと、諫めるような口調で小さな身体の相棒に語らいかける。
「お前、俺の全力タックルを受けたらどうなると思う」
「吹っ飛ぶ」
「そういうことだ、本当は分かっているだろ?」
珠音が小さく頷くのを確認してから、浩平は確認するように言葉を繋げる。
「一度試合となれば、打者は得点のため出塁するために必死だし、守備はアウトを取るために必死だ。相手が何であれガムシャラになる。そんな中で大の男とぶつかる様なことでもあれば、お前は単なる怪我じゃ済まないかもしれない」
珠音も知らないわけではない。
競技中に起こる選手どうしの衝突事故では、互いに大怪我を追ってしまうケースが多い。
鍛えぬき鋼のような身体を持つ選手が、選手生命どころではなく日常生活すら満足に送れない事態になりかねない。
事故の映像は度々テレビで振り返り中継されるため、世代を問わず誰もが知る大事故となることさえある。
「分かってる。少なくとも、そのつもりだよ」
だからこそ、体格差が広がり身体能力差が生じやすくなる中学生からは体育の授業も男女別となることが多い。
個人競技ならまだしも、衝突事故の発生率が高い競技となればなおさらである。
「それでも、私は皆と野球がしたい。これは我が儘かな?」
「我が儘だろうけど、いいんじゃないかな」
気が付けば珠音の家の前で、2人の今日という一日がいよいよ終わろうとしている。
「どうして?」
家の門を開き、玄関に向かって歩く珠音が振り返る。
外灯の光を背に受けた逆光のキャンバスでも、エネルギーを再び満タンにした珠音の瞳はひときわ輝いているよう、浩平には見えた。
「うちらはまだ子どもだしな。やりたい事をやろうぜ」
「......そうだね」
珠音にとって、これほど心強い言葉はなかった。
「いつもありがとうね」
「何だよ急に」
珠音からストレートに感謝を伝えることなど滅多になく、浩平は照れくさくなって思わず視線を逸らす。
「別に、そんな気分になっただけだよ」
玄関に続く階段を上りかけていた珠音が、再び浩平に歩み寄る。
「また明日。ちゃんと練習には行くから」
真新しい通学鞄は再びお蔵入りとなるようだが、持ち主の姿を見ればそれも致し方なく、本望とも言えるだろう。
「あぁ、また明日」
珠音が照れくさそうに差し出した拳に浩平が応える。
室内へと消えていく背中を見送り、浩平は1人で残りの帰路を進む。
拳に残る感触は、勝利の余韻とは異なる心地よさを感じさせた。