3回表 ―鈍色の想い― 2.黄昏の再起
数日振りに登校した珠音だったが、普段とかけ離れた雰囲気に野球部員はおろか、クラスメイトすら近寄れないでいた。
放課後、鬼頭へ退部届を出す際に、珠音は苦しい胸の内を吐き出す。
その様子を隠れ見ていた水田舞莉は、目標を見失った珠音へ小さな可能性を示す。
2.黄昏の再起
金曜日の朝。
前日のバライティー番組や翌日以降の休日予定で話題に華が咲く中、1週間ぶりの登校を果たした珠音の姿を、クラスメイトは大きなざわめきで迎えた。
「おはよう。体調は大丈夫なの?」
「うん、だいぶよくなった。返信しなくてごめんね」
先日の席替えでも隣同士となり、入学以来席が離れないまま冬を迎えた琴音も、同じく驚きを持って彼女を迎え入れる。
「......どうしたの?」
琴音の挙動不審な様子を訝しむように、珠音が半目になる。
「いや、何でもない......イメチェン?」
普段はセミロングに伸ばした髪をシュシュでまとめ上げポニーテールを形作り、鞄は野球用具が満載されたエナメルバックを右肩に駆けた様子は、醸し出すオーラを含めてまさに”活発”の2文字を体現していると言っても過言ではない。
しかし、この日の珠音はトレードマークの尻尾を降ろし、使用回数が明らかに少なく新品同然の通学鞄を引っ提げており、どこか大人びたような雰囲気さえ感じさせる。
「そんなところ」
どこか素っ気ない態度に琴音が窮していると、始業を知らせるチャイムと同時に担任教師が姿を見せる。
思わぬ助け舟の存在に琴音は内心安堵するも、脇目で見る珠音の虚ろ気な瞳に胸がチクリと痛んだ。
休み時間の度に噂を聞きつけた同級生の野球部員たちが珠音の元を訪れるが、珠音はそれらを避けるように、あるいは近付けないような状況を作り出し続けるうちに、冬の太陽は相模湾に向かって高度を下げ、放課後を迎えた。
「どういうことだ」
教員室を訪れた珠音は鬼頭の元に向かうと、挨拶に続けた行動は退部届の提出だった。
「これまで、私の我が儘を聞いてくれて、ありがとうございました」
「大人は子供の我が儘を聞き、時に叱り時に受け入れるものだ。今回の件は学校として正式に抗議する方針が決まっている。あまり気に病むな、俺たちがお前を守る」
鬼頭は退部届を突き返そうとするが、珠音は受け取ろうとする様子はない。
「でも、偉い人たちは私の我が儘は受け入れない。やりたい事をやるのもダメで大人になれと言われた。続けていれば練習試合には出られても、大きな大会はともかく小さな大会にも出られない」
小さく呟くような声は段々と大きくなり、失われた感情が徐々に込められていく。
「自分は耐えられると思っていましたが、秋の大会をアルプスから見た時に気付いたんです。背番号を貰えて公式戦に出られる皆が羨ましくて、自分ではどうしようもない理由で出られない事がどうしようもなく悔しいんです」
徐々にヒートアップしていく様子に、教員室の至る所から珠音に視線が集まる。
「楓山......」
教員、事務職員、偶然その場に居合わせてしまった学生。冷静さを徐々に欠いていく珠音の姿を、皆が心配そうに見つめていた。
「それで数少ないチャンスまで奪われて。私、やっぱり.......耐えられません!」
珠音の声は教員室の壁を貫き、廊下にまで響き渡る。
大声を出したことで我に返った珠音は床に置いていた鞄を手に取ると、唇を噛み締めて教員室から飛び出そうとする。
「た、珠音!?」
「待って!」
扉の影から心配そうに見つめていた夏菜と琴音にぶつかりそうになるのを間一髪かわすと、珠音は小さく”ごめん”と呟き、走り去っていった。
直後に響く衝撃音。
「監督......」
夏菜が振り返ると、鬼頭が俯いたまま自分の机に拳を叩きつけ、ベテラン教師が慰めるように肩に手を添えていた。
「何とかしないと」
「......そうだね」
夏菜と琴音は互いに視線を交わし頷き合う。
クラスは別だが体育の授業は合同で、その時に珠音を介して出会った2人の瞳に大切な友人を救うための決意の火が灯る。
「さて、暗夜航路を進む君に、灯台の光があることを教えて進ぜようかな」
2人から少し離れた場所。
灯火を遠目で眺める舞莉は口元を小さく緩めると、まるで対象の目的地を知っているかのように、珠音の後をゆっくり歩いて追いかけた。
教員室を後にした珠音はそのまま家に帰ることはせず、校舎の屋上からグラウンドを静かに眺めていた。
眼下では野球部が練習を始めていたが、どこか覇気がないようにも見える。
練習開始前には夏菜の周りに選手たちが集まっていたこともあり、先程の痴態が皆に知られてしまったかもしれないと思うと、冷静さを欠いた自身の行動が今更ながら恥ずかしくなってくる。
「やぁ」
不意に後ろから声を掛けられ、珠音の両肩がビクリと跳ね上がる。
「......ここ、立入禁止ですよ」
「先に入っている君が言うのかね」
振り返らずとも、珠音は声の主を特定できた。
「何の用ですか、水田先輩」
「君に名前を呼んでもらえるとは、光栄だね」
言葉を交わす機会はこれで3度目だが、過去2度の邂逅は珠音の中に強烈な印象を残しており、忘れようにも忘れられない。
「何、私も球場に居合わせた一人だからね。君のことを心配していたのさ」
まるで心配していないかのような口調の言葉に珠音は溜め息をつき、振り返りその表情を拝む。
夕陽に照らされた舞莉の瞳は、真っすぐと自分を貫くように見つめていた。
「逆光だね。また君の瞳を拝もうと思ってきたのに、よく見えない。こりゃ残念だ」
飄々と語る舞莉を睨むが珠音の表情は暗い影の中に沈み、舞莉からははっきりとは見えない。
「でもね、逆光の方が対象をより美しく写すこともできるものだ。普段は周囲の輝きにかき消された深層部の輝き、質感というものが現れるからね。邪魔なものを除外するおかげで、対象の持つ本質的な美しさが見えてくる」
「詳しいんですね」
「前に言ったでしょ、私は写真部も兼部しているんだって」
舞莉の得意げな表情は、沈み行く夕陽の光を受けてより輝いているようにも見える。
「マウンドに立つ君の瞳は、逆光で陰る中でも一際目立ちそうな程に輝いていたようにみえたけど、今の君を見ている限り、どうやらまた失くしてしまったようだね。秋の大会、アルプスで見かけた時の君のようだ」
舞莉は両手でカメラを形作り、その中心に珠音を捉える。
暗い人影の奥では、太陽が水平線に沈もうとしていた。
「あそこには行かなくていいのかい?」
珠音は振り返り、眼下のグラウンドを見る。
黄昏時を迎えてボールを視認しにくくなった今、チームメイトたちはバットを手に取り、キャプテンの野中の掛け声に合わせて素振りをしている。
暫くジッと見つめた後、珠音は視線を横に逸らした。
「彼らは君のことを待っていると思うよ。君の大事な友達も、先生たちも、君のことを心配しているし、行動を起こそうとしている。一部では動き始めてもいるようだしね」
先程の様子だと、夏菜が琴音と連携して何かを始めようとしている。
普段は表立って動くことをしないタイプの琴音がどんな行動を起こすのか、次期吹奏楽部部長として期待を寄せる後輩の行く末を楽しみにしている節はある。
「君は、動かないのかい?」
舞莉は珠音の身体を舐め回すように、隅々まで観察する。
話しかけた時に両肩がビクリと跳ねた時以来、これまで微動だにしなかった身体が、僅かに反応したようにも見える。
「動いてどうにかなるものなら、動きます。でも、どうにもならないでしょ」
「どうしてそう思うんだい、動いてもいないのに」
「......あなたに何が分かるんですか」
正論を前に、珠音が口ごもる。
自分は不平を鳴らしているだけで、何も行動を起こしていない。
「分かるものだよ。私は吹奏楽部だ。音楽は空気を震わせて人の思いを伝え、届け、聞き取るものだ。君の奏でる音は大きさこそ立派だけど中身は空虚で、芯がない。私は写真部だ。写真は流れ行く時間軸から風景を時間軸から切り取り、対象物がその瞬間に見せる外観と内面を永遠に残すものだ。君は外観こそ強い自分を演じているが、内面にその強さを支えるだけの力を備えていない。私は新聞部だ。情報を集めて分析し、限られたデータからでも全ての真実を見通せてしまうことだってある。君は動いてもどうにもならないと言ったが、私の集めた情報によると、上手いこといけば全てを覆せるかもしれない」
舞莉はペンタイプのボイスレコーダーと小型のスピーカーを接続し、珠音が思い出したくもない大会本部での会話を再生する。
「中々不義理な内容だからね、使いようによっては切り札になるはずだよ。タイミングが重要だね。他にも少し調べ事をしてみたんだ」
舞莉はポーチからSDカードを取り出す。
「湘南義塾の3番打者はプロからも注目されているらしい。あの試合にも、スカウトが観戦に訪れていたようだ。ここで重要なのは、あの3番打者が増渕理事の孫らしいということさ。彼の知らない所でそれなりに手を回しているようでね。金、立場、そこから顕在化する忖度。お孫さん自身は相応な実力を備えているようだから、プロ入りについては運次第だと思うのだけれども、いただけない”事実”もそれなりにある」
「......あ」
思い返すと、高岡から逆転満塁ホームランを放ったのはあの3番打者を珠音は抑え込んでいた。
孫がプロスカウトの前で"女子選手"に手玉に取られるなど言語道断であり、事実として決勝打を放つ活躍を見て、増渕は笑みを見せていた。
「このデータを君には渡さない、鬼頭先生に後で渡すよ。君が動くか動かないか、データを使うか使わないか、それらは君の自由だ」
小型のスピーカーから音声が止まり、舞莉はその場を立ち去ろうとする。
「一つ、聞いてもいいですか」
舞莉のペースで進んでいた会話に、初めて珠音から話題が振られる。
「どうして、そんなに私のことを気にしてくれるんですか。まだそんなに会ってもいないし、話したことも少ないのに」
景色が薄暗く移り行く黄昏時。
先程まで飄々と光り輝いていた舞莉の表情も、どこか暗く見える。
「私が目を掛けている後輩の大事な友達だから...では、説明にならないね」
舞莉は視線を移し、まだ夕陽に若干染められている山々の稜線を見つめる。
「君を見ていると、私の大切な友人が思い起こされるんだ。年齢もその子と同い年だし、君と同じように......いや、君よりも遥かに務めて明るく振舞い、君よりも遥かに深い鈍色の瞳をしている。どうにかしてやりたいんだが、私はその子に何もできないでいる。だから、重ね合わせてしまった君にまでそうなって欲しくない。これなら、説明になるかな?」
屋上には伝統が設置されておらず、互いの表情はよく見えない。
それでも、先程までとは声質が弱くなっているように、珠音には聞こえた。
「目的は他にもあってね、君は私のその大切な友人の、かけがえのない相手の友人でもあるんだ。大事な友人に、間接的でも悲しい思いをさせたくないってだけさ」
舞莉は制服のスカートを翻し、通用口の扉を開く。
「私は君の選択を応援するよ。頑張れ、エースちゃん」
舞莉はそう言い残すと、通用口の扉が静かに閉じられ、姿が見えなくなる。
グラウンドからはチームメイトがクールダウンの柔軟をする声が響き、一日が終わろうとしている。
「動く、ね」
珠音はぼんやりと空を見上げると、朔日のこの日は早くから星が瞬き始めていた。
悠遠からもたらされた生命の光が冬の澄んだ空気を貫き、珠音の瞳に飛び込んでくる。
「動くか」
珠音が大きく吐き出した白い息が、冷たく乾いた空気に冷やされ白く色付く。
直後、珠音はチームメイトの掛け声に負けじと大声を出すと、おもむろにポケットから愛用のシュシュを取り出し、降ろしていた髪をまとめ上げる。
吐き出された白い息、大きな声、黒い影、そして輝きを灯した瞳。
黎明の時代を支えた蒸気機関車の始動を思い起こさせる姿は、己が道を見据える”貴婦人”のように、凛とした雰囲気を醸し出していた。