2回裏 ―立ちはだかる壁― 2.水を得た魚
湘南杯ではエースとして快投を続ける珠音は、優勝候補とされる強豪校"湘南義塾"に対する。
本来は打ち頃なハズの珠音の投球を撃ちあぐね、試合展開は大番狂わせを予感させた。
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2.水を得た魚
大会初日の鎌大附属野球部は、秋の県大会とは別チームではないかと疑われる程の圧倒的な力を見せつけた。
初戦の先発を託された珠音は公式戦に出場できなかったこれまでの鬱憤を晴らすかのような快投を見せ、対戦校の打線に2塁ベースを踏ませることなく5イニングで10三振を奪い、2番手を任された二神も見事バトンを受け、完封リレーを完成させた。
「120km/h出てたんじゃない?」
「確かに、練習以上だった気がするよ」
国内女子野球では、トップ選手であっても130km/hに達することはなく、平均球速となれば110km/h程度に留まる。
試合中にスピードガンで球速を測定していた訳ではないが、珠音の球速は普段からコンスタントに110km/h台後半を記録している。
浩平の感覚では130km/h台前半を記録する二神よりも少し遅い程度で、珠音の見立ては間違いではない。
惜しくも球数制限の前に絶好調の投球を見せていた珠音は降板せざるを得なかったのだが、珠音の興奮は降板後のベンチでも続いていた。
ダブルヘッダー2試合目も1試合目の勝利の勢いをそのままに、右翼手として連続出場した浩平と、地区大会では捕手としての出番を奪われた2年生捕手の高橋が揃って活躍。投げては地区大会で背番号『1』をつけた益田が高岡との継投で相手打線を寄せ付けず、見事2回戦突破を果たした。
敢えて口には出さないが、珠音のベンチ入りの効果だと誰もが実感している。
規定の前にベンチ入りの権利すら与えられなかった秋季地区大会と比べ、明らかにチームの雰囲気がいい。
部に加入してから間もなく7か月が経過しようとしていたが、珠音の存在は正しくチームの中心と言っても過言では無い。
「来週の準々決勝は益田、二神の継投で行くぞ。無事に勝ったら、準決勝は楓山と高岡の2人だ」
「確か、順当に行けば準決勝では......」
「あぁ、湘南義塾に当たるはずだ」
湘南義塾高校は県内でも野球の強豪校として知られている。
秋季県大会でもベスト4入りを果たしており、今大会でも2回戦で同じく強豪校と目される鎌倉海浜高校を県大会の勢いそのままに下し、もはや優勝候補の競合相手はいないとまで言われている。
「今のお前らだったら、次の準々決勝は確実に勝ち抜けるはずだ。楓山なら、周囲から大番狂わせと言われる程の成果を残せるかもしれん」
鬼頭の判断に全員が納得する。
2年生の益田の実力なら準々決勝の対戦校で、中堅と目される藤沢中央高校と対等な試合ができる。
対して、湘南義塾のような強豪校に対する実力不足を覆せる程の意外性はない。
珠音なら相手の虚を突き、拮抗した試合展開を生じ得る可能性が十分考えられる。
鬼頭の采配が珠音の持つ意外性に賭けたのものだと、チームメイトは皆理解していた。
「絶対、決勝に進んでやる」
無論、珠音も自分に寄せられた期待を正確に理解しており、自分が大事な試合で先発のマウンドを任された事実をひしひしと感じている。
更に言うと、彼女にとっては試合前の高揚感をもたらす要因はそれだけではない。
公式戦に出ることができない今、県大会決勝で使用される横浜スタジアムや、全国大会で使用される明治神宮球場や甲子園球場のマウンドに立つ夢は”現実的に”叶いそうもない。
決勝戦の舞台となるのは、プロ野球の公式戦で使用されることもある平塚球場。
届かぬ夢を現実として捉えている珠音にとって、夢舞台のマウンドに立つ自らの姿を想像するだけで、武者震いが止まらなくなった。
迎えた準々決勝当日も秋晴れにこそ恵まれたものの、前週と打って変わりカレンダーが11月を迎えていたことを思い出させるには十分な寒さだった。
最も、試合を控える興奮からか、選手たちは寒がる素振りを見せていない。
「舞台は整えたから、頼むぞ」
藤沢中央高校との準々決勝は2年生エースの益田が意地の投球を見せて接戦を制し、もはや事実上のエースと言える珠音は、順当に勝ち上がった湘南義塾との準決勝のマウンドに立つ機会を得た。
「ありがとうございます、先輩!」
クールダウンする益田の横で、珠音が準決勝に向け肩を暖める。
「ラスト!」
ブルペンで投じた最後の一球がミットに収まると、珠音と浩平はボールで緩い弧を幾度も描きながら小走りで近付く。
「それにしても、あいつら露骨だよな」
浩平が渋い顔をして語る露骨さとは、相手チームから珠音に送られる視線を示している。
第1試合を戦った湘南義塾は第2試合をスタンドで観戦後、グラウンドに姿を現して以来、事あるごとにチラチラと様子を伺ってきている。
動物園で珍獣を見つけた時のような好奇心か、はたまた学年で1番とは言わないまでも可愛らしさと親しみやすさを兼ね備えた整った容姿に色めき立っているのか。
「まぁ、そんなもんじゃない?」
珠音は特に表情を変える様子もなく、興味がないようにも見える。
最も、中学入学以来、周囲から向けられる視線と何ら変わる物ではなく、慣れてしまっているだけなのかもしれない。
「そうだな。それより、今日もいい調子じゃないか」
「身体が軽い軽い。スピードガン、測ってくれないかなぁ」
「その事なんだけど、今日は少しスピード控えめで、コントロール重視な」
「えっ、何で。多分120kmくらいは今日も出ていると思うんだけど」
「それだよ、それ」
珠音は理解できないといった様子で、首を傾げる。
「湘南義塾は県大会で強豪校と渡り合ってきた訳。準々決勝の相手ピッチャーのストレートもそこそこ速かったけど、打線は難なく打ち返しているように見えた」
「ほう」
珠音はそこで、第1試合をスタンドで観戦していた時に浩平が真剣な目付きでひたすらメモを取っていたことを思い返す。
「なる程、あの時のメモは考えをまとめていたのね」
「何だ、見ていたのか。相手がベストメンバーを組んでくるとは思わないけど、バッターは共通して速い球に目が慣れていると考えていいだろうから、珠音が全力で投げるストレートはコントロールが若干甘いし、相手から見れば打ち頃かもしれない」
“打ち頃”の言葉に珠音は不満気な表情を見せた後、大きな溜め息を出す。
「まぁ、そんなもんだよね」
息を吐き出した後、表情は納得したような雰囲気に変わっていた。
「それで、打ち頃の速球を投げるくらいなら見慣れない遅い球で勝負しようって訳ね」
「そういうこと。見る限りスイングスピードも速いし、遅い球の方がアジャストするのが難しいと思う。速球と使い分けするから、サイン増やすよ」
「分かったよ、相棒」
珠音と浩平はグローブとミットでタッチを交わす。
後は試合開始を待つのみとなった。
両チームのベンチ入りメンバーがホームベースを挟んで相対し、挨拶の後に後攻の鎌大附属がグラウンドに散らばっていく。
整列の際に際立ったのは、湘南義塾の選手の身体の大きさと、ひと際華奢な珠音の体躯。
「写真を撮っておけばよかった。見せてあげたいな」
「え?」
1塁側ベンチに陣取った鎌大附属の頭上スタンドには、この日も数人の学生が応援に駆け付けている。
新聞記者気取りの舞莉がカメラを構えながら漏らした呟きに、ストールで身体をグルグル巻きにして寒さ対策をしている琴音が反応する。
「エースちゃんが女子とバレずに試合に出られないものかと思ってね」
「あぁ、普通じゃルールで出られないんですよね。この大会は特別に出られるって」
「そ。まぁ、髪を丸坊主にして、胸を目立たないように押し潰したとしても、あれだけ身体が華奢じゃバレるな」
「確かに」
夏休みに珠音らが議論していた内容だが、整列時の後姿から察するに、あらゆる手立てを施したところでも隠し様がなさそうだった。
マウンドに1人立つ姿は、より小さく見える。
「プレイ!」
審判の試合開始を告げる掛け声が、冬の澄んだ空気に響き渡る。
「さぁ行こう!」
三塁手を務めるキャプテン野中の声を皮切りに、両軍ベンチから声が溢れ出る。
湘南義塾側はそこに加え、ベンチ入りが叶わなかった多くの部員がスタンドからも声援を送っており、鎌大附属は迫力という面で初手から圧倒的劣勢に立たされた。
「女が先発かよ」
湘南義塾の先頭打者が打席に入るや否や、浩平へ侮るような言葉を掛けてくる。
「それが何か?」
「別に、可愛がってやるよ」
「(舐められているな)」
浩平は打者を一通り観察した後、視線を珠音に送る。
「すごい、まるで私が大声援を受けているみたい」
珠音の強心臓は押し寄せる声援の圧に屈する様子を見せておらず、むしろ笑みを浮かべ余裕さえ感じさせた。
「何で笑っているんだか」
浩平が苦笑交じりにサインを出すと、珠音は小さく頷き投球動作に入る。
初球は打ち気を削ぐような緩いカーブ。
「ボール」
大きく弧を描くような球筋でミットに収まった初球で、カウントボードに緑色のランプを1つ灯す。
「おっそ」
「(独り言の多い奴だ)」
浩平は心の中で独り言ちると、2球目のサインを送る。
珠音は信頼の表情を浮かべて頷くと、先程とは打って変わって力強い速球を投げ込み、打者はピクリと反応を示しただけで見送る。
「ストライク」
手から離れミットに収まるタイミングと左手から全身に伝わる感覚から、球速は120km/hといったところか。
「(表情が変わったな)」
初球との球速差はおよそ40km/h。
脳裏へ速球を強く意識付けられたことが、打者の表情の変化から見て取れる。
3球目の指示は事前に打ち合わせたコントロール重視のストレート。
打ち気に逸った打者は自身のスイングスピードと僅かなタイミングの誤差も合わさり、バットの先端にようやく当てたものの打球は力なく投手の前に転がっていく。
「くっそ」
打者は悪態をつき一塁ベースへ向け駆け出す。
珠音は落ち着いてゴロを処理すると、カウントボードには赤いランプが1つ灯った。
「ナイスボール!」
「ナイスピッチ!」
内野陣から続けざまに声をかけられ、珠音は一つ一つに小さく頷いて応える。
アウトを告げられた1番打者は悔しそうな表情を浮かべながらベンチに戻り、チームメイトへ珠音の印象を語っているようだった。
「(意外と速いとか伝えてくれていないものかな。スピードガンは表示されないし、妙な認識を持ってくれるとありがたいんだが)」
2番打者への配球は外角を中心に見せ球として変化幅の大きいスライダー、遅い球、緩いカーブ。
運よく2ストライクと追い込めたこともあり、浩平は思い切って内角への速球で勝負に出ることにした。
珠音は浩平の要求を寸分たがわず理解し、大きく頷く。
「ストライクアウト!」
無言で交わされたバッテリーの会話の結果は、打者の中途半端な空振りの後、ミットにボールが収まった際の乾いた音と審判の三振を告げるコールとして結実する。
首を傾げベンチへ下がっていく2番打者と、これから打席に向かう3番打者が一言二言交わし、情報交換する。
「(さて、初球)」
浩平が出した遅めのストレートのサインに、珠音は"ニヤリ"と形容されそうな笑みを見せ頷く。
珠音の左腕から投じられた"打ち頃"の直球は、金属バットとの甲高い衝撃音をグラウンドに響かせる。
しかし、僅かに芯を外れたためか打球に勢いだけでなく角度もつかず、やや強めのライナーは無情にも一塁手を務める高橋のミットにすっぽりと収まる。
一塁塁審が"アウト"を宣告すると、守備陣は持ち場を離れ、攻撃側は首を傾げ、やや項垂れた様子でベンチに戻り、カウントボードに灯った2つの赤いランプが消える。
「ナイスピッチ!」
チームメイトが若干興奮した様子で、強豪校の上位打線を三者凡退に抑えた珠音を迎え入れる。
流れは自分たちにある。
湘南義塾の出鼻を挫くことに成功した鎌大附属ナインは、根拠の無い自信で心を大いに奮わせた。
初回は両軍0点で終了。2回表は走者を1人出したものの、"優勝候補"湘南義塾の打線は阿吽の呼吸を感じさせるバッテリーの前に快音を響かせられないでいた。
湘南義塾の7番打者を打ち取りベンチに戻ると、浩平は慌ただしく防具を外し、打席の準備に取り掛かる。
浩平は1年生ながら秋季地区大会と同様に打線の中軸を任され、この日も5番打者を任されている。
「浩平の作戦通りだね」
「一巡目はこれで抑えられそうだな」
浩平の読み通り湘南義塾の打者は悉くタイミングを外され、力無い打球を飛ばし続けていた。
単に遅い球にアジャストできないだけでなく、珠音の思い切り腕の振る姿からは想像できない程に球が”来ていない”ことも合わさり、スイングを早く始動してしまうためだと浩平は考えていた。
「まぁ、強豪校ならではの錯覚か」
「ん、どうしたの?」
「いや、何でもない」
珠音が喉を潤し、浩平が自分のバットを手に取ると、鬼頭を中心とした円陣に加わる。
「まだ2回だが、格下と侮っていた相手から流れを掴めずにいることに焦りが生じてくるはずだ。何せ、この大会は7イニングしかないからな」
普段と比べて少ないイニング数の試合では、流れを掴めば一気に勝負が決まる可能性も否めない。
鬼頭はこの大会のルールを存分に活かすべく、チームへ指示を伝達する。
「あのピッチャーは制球に難があるらしい。粘って見極めればお前たちでもチャンスは十分だし、先制した方に流れが一気に傾く可能性だってある。隙をしっかり突いて、まず着実に1点を取りに行こう」
鬼頭の指示を受けて円陣が解かれると、次打者の浩平はヘルメットを被りネクストバッターズサークルへ向かう。
「確かに、コントロールは悪そうだったな」
鬼頭の指示を思い返しながら、前の回の投球内容を思い返す。球の力強さは感じられたが、カウントを自ら悪くする傾向が見られる。
今も4番の野中がフルカウントまで粘り、厳しいボールも必死に喰らいついてファールで逃れていた。
「ボールフォア」
ついに相手投手が根負けし四球をもぎ取るのを確認すると、浩平は3度素振りをしてから打席に向かう。
「さぁ行こう浩平!」
ベンチから大庭の賑やかな声援が聞こえてくる。
相手チームと比べると遥かに少ない声援でも、背中を押す力は変わらない。
「お願いします」
主審へ小さくお辞儀し、バッターボックスに入る。
「点を取らなきゃ勝てないからな」
「ん?」
「いえ、独り言です」
浩平は足元を整えると、バットを正面へやや倒し気味に大きく構える。
特に相手を威嚇する意図がある訳ではないが、先日測定してみた際に180cmに達していた大きな体躯は、細身とはいえ威圧感を与えるには十分である。
4番を務める野中がやや小柄なことも相まって、相手投手も警戒心を強め表情が引き締まったようにも見える。
そして、過剰な警戒はかえって隙を生む。
鬼頭の狙いは見事に的中し、浩平に投じられた初球はベルト付近、所謂ストライクゾーンのド真ん中へ吸い込まれるように進む。
投手が”しまった”とでも叫びそうな表情を見せ、ボールがミットに収まろうとする直前、それを遮るように現れた浩平愛用の黒色バットが甲高い金属音を響かせると、ボールは強引に進行方向を変えられ左翼へ大きな弧を描く。
「行け、行け!」
「入れ!」
一塁側ベンチではメンバー全員が総立ちとなり、珠音は身を乗り出して浩平の放った打球の行方を追う。
自身の声援が物理的な後押しになるとは思わないが、それでも身を乗り出さずにはいられない。
飛球を追う左翼手の行く手を、両翼が91mと小さな球場のフェンスが遮る。
左翼手は思い切り腕を伸ばし垂直方向へ跳躍するが、滞空時間の長い飛球はその頭上を悠々と越えると、フェンスからさらに奥に設置されたフェンスに衝突し、鈍い音を立てた。
直後に沸いた少数の歓声と、それに勝る大きさ溜め息がグラウンド上の空気を奮わせ、試合は早くも番狂わせを期待し始めた。