熔鉄
目が覚めると、そこは家ではなかった。
それどころか、眠っていたフローリングもなければ、天井すらない。
訳が分からない。僕は夢遊病者になったのか?
鮮烈な夢を思い出した。
彼女の悲痛な顔がフラッシュバックし、瞼の裏に再度焼き付けられる。
ここ数日に起こった違和感、その狂気の渦中からは爪弾きにされていたが。
ようやく、僕のもとにもやってきた。おかしな電波が。
夢だから、幻だから。
そんなことは関係ない。
彼女とその過去を、救わなければならない。
自分のことについて何も言わない彼女は、決して助けてくれとは言わないだろう。
傍から見れば狂人の発想だと分かっている。でも、まともに現実に向き合ったら気が狂いそうなんだ。
彼女の言葉を信じるのではない。彼女の本質をこそ信じるのだ。
成し遂げるためには冷静になる必要がある。
静かに狂うのだ。狂信と理性を共に掲げ、悪行をもって独善を成すべきだ。
それができるのは、僕しかいないのだから。
顔についた土をぬぐおうと手を出しかけ、気が付いた。
両手が縄で縛られている。足までは縛られていないようだが。
見回すと、周りはすべて木々に囲まれた森の中。
時刻は朝か夕方か、赤い光が木々の隙間から洩れる。
見れば長く伸びる木陰の暗がりに男が立っている。手には長い柄のつるはし。
あいつが我が家のドアを壊したに違いない。
幸い足は縛られていない、起き上がると脱兎のごとく駆け出した。
整備もされていない森の中、背中を追いかける足音が心拍を上げる。
走り続けていると苔むした木材の塊のようなものが見えてきた。
納屋だ。ツタの絡みついた小屋に横からトラクターが刺さっている。
裏に空いていた穴から這って侵入し、縄を切れる機具を探す。
しかし、埃の舞う室内に刃物の類はどこにもない。
後ずさりすると、何かの箱にぶつかった。
灯油のタンクだ。
引き倒し、油に手を浸す。
気味の悪い感覚に鳥肌が立つが、ぬめりと湿り気で腕は縄から抜けた。
慌てて納屋の中を引っかきまわす。
マッチがあったが、灯油まみれのままで点けるわけにはいかない。
とりあえず、慎重にポケットに入れる。
再度物色を続けていると、大きな破砕音が響いた。
見ると、つるはしの角が扉に突き刺さっている。
今しがた開いた隙間から、のぞき見る目がギョロギョロと室内を見回す。
よく見れば、瞼にはガラス片が刺さっている。あれで見えているのか?
つるはしでは時間がかかるとみて男は、扉を蹴り倒しにかかった。
振動と轟音が小屋を襲う。ミシミシと嫌な音が、木造のいたるところから聞こえてくる。
ともすれば、建物ごと潰れてしまいそうな、そんな勢いだった。
10回を超えたあたりだろうか、壁よりも先に扉そのものが半分に割れた。
急いで扉の前に油を撒き散らす。
扉の前だけは床板が金属板でできている。足元を見ずに侵入した男は、油に足を取られ派手に転倒した。
その起き上がりばなに体当たりし、壁へと頭をぶつける。
男が取り落としたつるはしを掴み、外へと投げ飛ばす。
金属の恐ろしい工具は、音を立てて転がり、草むらへと消えていった。
起き上がろうとする男は、革靴が滑って立つことができない。
近くでよく見ればフォーマルな服をしている。喪服のように黒いスーツだ。
もう追ってこれないと高を括って、僕は彼に背を向けた。
しかし、立つことはあきらめたのか、這ったままの姿勢で僕の足首を掴んできた。
すごい握力だ。
振り向きざまに、手に持った灯油のポリタンクを遠心力でぶつける。
頭にクリーンヒットしたようで、男は奥側に突っ伏すようにして倒れた。
胸元から何かが勢いで飛んでいき、軽い音を立てる。
メガネのようなものに見えたが、僕のものではなかった。
勢いを殺さず、納屋の外へ出る。
つるはしを拾い上げると、柄から金属部分がすっぽ抜けた。
仕方なく放り捨てて走り出す。
生い茂る森の間に開いた獣道をひたすらに進み続ける。
細かな枝を叩きながら走り抜けると開けた場所に出た。
ここまできてようやく、自分が灯油タンクの柄を握りしめたままでいることに気が付いた。
中身が減ったそれを、床へいったん置き、天面へと座る。
よく見れば、あたりの地面が踏み固められていることがわかる。
ようやく、人の往来がある道まで来ることができた。
草原に伸びる二本の線が続く先を見れば、丘への道と街への道。
普段の何気ないときに来れば、さぞ気分のいいハイキングコースだろう。
ああ、僕は日常の平穏に戻りたいと切望している。
だが、平穏とは自分をだまして過ごす停止の日々ではない。
見たくないものを見ないでいるだけでは、日常の方から離れられてしまう。
世間も人も、日々少しずつ変化しているのだ。
その中では変化を受け入れ、変化に受け入れられたものにしか平穏は得られないと実感した。
受動ではなく能動的に、変化を生み出してやる。
すなわち、狂気の世界に身を浸すこと、狂気に抗うもう一つの狂気を信じること。
先輩を信じる。
先輩は、自ら望んでこんなことをするような人ではない。
身勝手な使命感やおせっかいな正義感のように聞こえるだろう。
だが、底知れぬ気力の炎は、撤退の道をすでに焼き落とした。
是非よりも前に動機があった。好悪があった。
進むしかない、進み続けるしかない。
今でも彼女は、あの夢の暗闇にいる。
決意を胸に丘を見上げると、何やら人影のようなものが立っている。
近づいてみれば、金属片とワイヤーで作られた案山子だ。
腹部には、小型のブラウン管テレビが刺さっている。
こんなものでも、夜に見れば何か恐ろしいものに勘違いするのだろうか。
そう思いながらあたりを見回した。
ここは頂上だ、両方の麓が一望できる。
もう一度、自分が歩いて来た方角を目で追ってみる。踏み鳴らされた白い線が、草原の緑の中で街まで続く道を形成していた。
思いもよらず、郷愁に似た思いが胸へと込み上げる。
だが、こちらは正解じゃない。
平穏な日常へと戻る選択と、彼女を救う選択は奇しくも道を同じくしている。
僕は、街とは逆側を向いた、麓に建物が見える。
あれは、夢で見た建物だ。
夢に見た、あの父娘の温かさを思い出した。
ある科学者から始まった狂気の連鎖を、この僕が最後の狂気をもって終わらせなければならない。
灯油タンクに足を取られそうになりながら、丘を駆け下りる。
丘の麓、なだらかな平地にたどり着くと、空気の匂いが変わった。
研究所までの道のりには、金網フェンスがいくつも立てられてれている。
「ATTENNTION!! HIGH VOLTAGE!!」
僕は金網の前に立てられた警告文を読み上げ、警備装置の厳重さに気が付いた。
作動しているかは分からないが、触らない方が賢明だろう。
田舎の交流センターでもなければ、鍵もなしに入れるはずがない。まして、フレンドリーな施設でないことは明白だ。
途方に暮れていると、近くの金網の根元に穴が開いていることに気が付いた。
穴のそばには、何らかの動物の骨。大きさから猪のように見える。
穴を掘ったはいいが、くぐる際に触れてしまったのだろうか?
少なくとも、ここに侵入しようとしたのは僕だけではなかったらしい。
先達の動物と同じように地面を掘り返し、何とか潜り抜ける。
墓穴は深く掘るのが基本だ。
研究所は近くで見ると大きく見えるが、正面の入り口は一つだ。
灯油タンクを抱え、エントランスへとひた走る。
これが国家施設なら、僕はテロリストだ。気休めにもならないが顔を隠す。
エントランスゲートの前にセンサーが設置されているが、作動ランプがついていない。
それどころか、ドアが半開きになっているうえ、明かりも灯っていない。
さながら廃墟の様相に多少の困惑を覚えるが、都合がいいことは確かだ。
片っ端から部屋のドアを開いてゆく。
夢の中で見覚えがあったのは、大きな部屋だった。入れば一目で分かるはずだ。
一通りすべての部屋を調べ、残る扉は最後の一枚。
勢いよく、突き当りの部屋に飛び込んだ。
ライトのスイッチを押すが、電気は通っていない。
様々な機材が並ぶ部屋の中央には、直径10メートル径のレーダー状型の機械が鎮座していた。
「ようやくたどり着いた、狂気の発信源に」
言い終わるよりも早く、僕はレーダーの基部にあった金属の蓋を取り外す。
手早くハッチを開き、むき出しの配線を引っ張り出し、マッチで火をかけた。
燃えていることを確認すると、コンソールの上から油を垂らし、火の勢いを強める。
湧き立つオレンジ色の炎が、金属の上下で踊る。
終わった、これで終わったんだ。
「残念ながら、そのマシンはスペアだよ。運が悪かったね」
後ろから声が聞こえたと思うと、何かが後頭部にぶつかった。
眼球と脳が前に飛んだような錯覚と歪みゆく景色。体は転倒し、磁石のように地面へと貼りついて動かない。
そして、一瞬だけ目の前を埋め尽くした炎は、横あいからの白い煙に隠され、消沈した。
目の前がぼやける。人影はうっすらとしか見えない。
「本物はここだよ」
声の主が排煙装置の中の紐を引くと、天井の一部がスライドして梯子のようなものが下りてきた。
もっと考えるべきだった。
ここは電気の通っていない部屋だ。




