お局様の正体@東京
私は29歳の女子経理部員、持田葵。この物語の主人公だ。
この年にして彼氏がいない、と言うよりも、いたことがない。とにかく昔からモテないのだ。大学時代の友人には「葵が積極的にいかないからだよ」と言われるが、そもそもその段階にいないと自分では思っている。
まあ、見た目も中身も地味なのがいけないのでしょう、と自分で結論付けたのはどのくらい前だっただろうか。とにかく、モテないと諦めていれば、期待を裏切られることもないのだ。
さて、ちょっとだけ昔話をすると、私は就職氷河期に迎えた就職活動で失敗し、ブラック企業に入社。そこで、パワハラ上司に自尊心を折りに折られ、この身に染み込んだ平和主義と負け犬根性で、世間の荒波を縫うように生きている。
最初に入った会社では経理部に配属になった。とは言え、雑用係のような形で、電話対応、スケジュール管理やトイレ掃除までやっていた。はっきり言うなら面倒ごとを全部押し付けられていたのだ。
当時は当たり前だと思っていたが、その会社ではパソコンで計算した結果を電卓でチェックさせられていた。よく考えると馬鹿らしいったらありゃしないのだけれど、当時の私にはそんなことを考える余裕もなく、必死に電卓を叩いて足し算が合っていることをチェックしていた。上司はそれをもう一度電卓でチェックしていたのだからさらに馬鹿馬鹿しい。
間違っていたら、人格否定もかくや、というほど罵倒された。実際のところは上司の電卓計算が間違いだったことがほとんどだったのだが……
そんな罵倒に恐れおののきながら効率の悪い作業をやっているので、帰りはいつも終電、ひどいときは職場の近くのホテルに泊まる日々だった。
当時は長く働いていれば、頑張っていると許される気がしていた。
ある日の朝、通勤電車の椅子にありついた私は泥のように眠ってしまい、駅員さんに起こされると折り返した電車は反対側の終着駅まで行っていた。携帯電話を見ると恐ろしい件数の不在着信が入っていて、その恐怖から逃避するように駅前のバス停に向かった。
人の良さそうなお婆さんに声を掛けて海が見たいと告げると、不思議そうな表情で私の目を覗き込んだ後に、しぶしぶとバスの系統を教えてくれた。その時に、お婆さんは私の名前を聞いてきたように思う。答えたかどうかは覚えていない。
そのバスの行き先は海水浴場だった。今思い返すとお婆さんは私の生気のない表情を見て、自殺するかもしれないと思い、断崖絶壁から飛び降りる姿を想像したんじゃないだろうか。その判断に、今になって見れば感謝している。あの時の精神状態だったら、本当に飛び降りていたかもしれない。
バスを降りると、目の前には砂浜が広がっていた。その肌色の浜辺の向こう側には、雄大さを湛えながら海が広がっていた。海面は太陽の光を浴びてきらきらと輝き、海は蒼さの中に白色の波を抱えるように揺れていた。その光景を見て自然に頬を伝った涙はそれまで抱え込んでいたドロドロと渦巻く感情を、少しずつ流していった。まるで、それを波がさらっていくように。
その日に、そんなブラック企業から消えるように退職した後、少しの間、実家で療養していたのだけれど、いつまでも面倒をかけられない、と最終的には父に紹介された自然派食品の企画・販売会社に入社することになった。
新しい会社があまりに常識的で、ただただ感動したことを今でも覚えている。最初のガイダンスをしてくれた若い女の子が、その様子を見てくすくすと笑っていた。
今となっては、『赤い電車』は私の守護神のような心の支柱になっている。その赤い電車のミニチュアが私の机の上には置かれているのだが、会社の人は隠れた鉄オタなのか、くらいに思っていることだろう。
□
有希さんに連れられて入った店は、入り口こそ古めかしかったものの、中は小ぎれいにされていて店主の手入れが行き届いていることを物語っていた。店内にはカウンター席とテーブル席があったのだが、有希さんは慣れた様子でテーブル席に腰をかけた。カウンター席もテーブル席も半分くらいは埋まっている。比較的、一人でいるお客さんが多いようだ。
「ここは私の馴染みのお店よ。会社の人には秘密ね」
そう言いながら、カウンターに向けて大きな声を上げた。
「マスター、いつものを2つお願い」
「はいよ」
そういって、カウンターの向こう側からマスターが応じた。料理を待ちながら、有希さんは話しかけてきた。
「あなたはいつもおどおどしてる。だから舐められちゃうのよ」
それは、いつもの厳しい口調だった。だけど、表情は柔らかい。
そっか、私の行動ってそういう風に見えていたのね。会社のためと言い訳していたけれど、はっきりした性格の有希さんには許せない言動だったのだろう。
しかし、口角を少し上げるとその後の言葉を続ける。
「でも、今日のは格好良かったわよ」
「ありがとう、ございます」
「でも、あれだけの勇気があるなら、何で今まで大人しくしていたの?」
「それは……」
そこから、最初の会社の話をする。ひどい会社だったのだから恥じるべきことじゃないのだが、会社を無断退職したという事実は胸に棘のように刺さり、罪悪感として残っていた。それで今の会社の人にも話せずにいた。
目の前の有希さんは正しいことを言うが、決して意地の悪い人ではない。それは、今まで仕事をしてきて分かっていたので、思わず、無断退職までの経緯を懺悔するようにぽつぽつと話している自分がいた。そのことに驚きながらも、一度流れ始めた言葉は、堰を切ったように止めどなく流れていった。
有希さんはこちらを見据えたまま、黙って話を聞いていた。私の話が詰まると、軽く頷いてその続きを促してくれた。
「そんな経験があって、波風を立てることがとても恐ろしくなってしまいまして。それで、いつも日和見主義な対応ばかりしていました」
有希さんは、話を聞いた後に目をつむって逡巡しているようすだったが、再びその両瞼を上げると一言だけ発した。その言葉は、私が一番欲しかった言葉だったように思う。
「それは、大変だったわね」
「はい……」
有希さんはそっとハンカチを取り出して私に手渡す。私はそれを自分の目に当てる。しばしの時が経っただろうか。再び平静さを取り戻した声で、有希さんに話しかける。
「すみません。ハンカチは洗って返しますね」
「今日使えない方が困るわよ」
そういって、笑いながらも有希さんは私の手からハンカチをひったくるように取った。
「本日のパスタ、サルシッチャと春キャベツのパスタです」
そのタイミングを計ったようにマスターが2つの皿を持ってくる。目の前に置かれたパスタはひき肉の塊と一口大に切られたキャベツが散りばめられていて、肉とオリーブオイルの香りが食欲を誘う。
「わあ、美味しそう」
「美味しいわよ。ここのマスターの料理はいつも」
「恐縮です」
そんな会話を近くで見ていたマスターは、短い一言を残すとカウンターの向こう側へと帰っていった。
「さて、料理が冷めてしまう前に食べましょう」
「いただきます」
その言葉を満足げに眺めた後で有希さんもいただきます、と小声で言う。目の前のパスタは有希さんが褒めるだけあってとても美味しかった。程よく利いたコショウがひき肉のうま味を引き立てていて、オリーブオイルで熱された春キャベツは、その甘さが強調されていた。無心で食べていると、気づくと皿の底が見えていた。
それを見計らったように、マスターが食後の飲み物を運んできてくれる。ハーブティのようで、爽やかながらも落ち着く香りが蒸気に乗って鼻の奥に届いた。
その香りに安堵感に包まれてハーブティを飲みながら、こんな素敵な店を紹介してもらったお礼を言う。
「とても美味しかったです。紹介して下さってありがとうございます」
「そう。良かったわ」
そういって、有希さんは笑顔になる。やっぱり可愛い。笑うと可愛いのに何でいつも仏頂面なのかなと思わずにはいられない。
有希さんはハーブティを一口啜ると、笑顔で緩んだ頬を引き締めるように、いつもの表情に戻り、いつもの口調で話しかけてくる。
「さて、あなたが波風立てなくない理由はよく分かった。だけど、それでも通してはいけない伝票を通すのはダメよ」
「はい」
「いつも佐藤課長が通した伝票を、私が差し戻していたんだから」
「すみませんでした……」
そうだったんですね、申し訳ありませんでした、と心の中でさらに反省する。
食事が終わると、有希さんはマスターを呼んで会計をし始めた。自分の分を払おうとしたが、それは止められた。
「今日は一歩を踏み出せたお祝いってことで私がご馳走する」
有希さんはにこっとしてそう言った。優しい人だったんだな。お局様なんて言っていた自分が恥ずかしい。
お礼を言いながら、店を出ると春の陽気が心地よい。残念ながら都心なので爽やかなそよ風が吹く、なんてことは無いのだけれど。
有希さんとは店先で別れた。有希さんは郵便局に寄るとのことだった。
有希さんの意外な一面を窺い知ることができて、何だか得した気分になった。私は跳ねるようにしてオフィス街を歩いていく。途中ですれ違うスーツ姿の男性や小綺麗な格好をした女性が怪訝な表情をこちらに向けていたが、そんなことは気にならなかった。
勇気を与えてくれた白昼夢に感謝をしないといけないな。
私に前に進む勇気をくれたのだ。