遅刻@東京
ちこく、ちこく~
はい、街角でパンを咥えた少女とぶつかるシーンを思い浮かべたそこのあなた。残念でした。これはそんな甘い恋愛話ではありません。
この話の主人公は私。持田 葵、29歳のOL。就職氷河期の時期に就活をするも失敗しブラック企業勤めに。そこで、パワハラ上司に自尊心というものを折りに折られて、半ば、消えるように退社した不幸な女子だ。
残念ながら男性にモテる容姿や性格を持ち合わせておらず、養ってもらって悠々自適な専業主婦ともいかず、嫌々ながら、生きていくために今の会社に勤めている。時々、ブラック企業時代のトラウマが蘇り、仕事に行きたくなくなるのだが、そんな体に鞭を打って毎日働いている。
自尊心を失ったことで身に沁み込んだ日和見主義で、波風を立てずに社会の荒波を縫うように生きている。年々、自分というものを失って行っている気がするが、世の中ってそんなものじゃないかな、と自分を納得させている。
そんな私は大ピンチに直面している。
遅刻。遅刻。遅刻。
まずい! このままだと始業時間に遅れる!
頭の中ではその三文字の言葉が繰り返される。私は駅を飛び出してオフィス街を走っていく。桜並木を爆走するその姿に、スーツ姿のサラリーマン達が怪訝な顔を向けてくる。
有希さんにまた怒られる!
有希さんは経理部のお局様。
怖い。とにかく怖い。新人をいじめて辞めさせたなんて話も聞くくらいだ。
かく言う私もいじめられているようなものだけど。
それでも、いつかのパワハラ上司に比べれば可愛いものだ。そんな、傍から見たら妙な比較をして自分を納得させている。しかし、遅刻して怒られるのは私としては避けたい。そんな負け犬根性全開で、東京の町を爆走する。
ふと路地裏に繋がる脇道が視界に入った。そっか、この道を抜ければ早いかも! ナイスアイデア、私!
とっさに左に曲がり、裏道に入っていく。
途中でスカートに何かが引っかかった気がするが、そんなことを気にしている余裕なんてない。とにかく、眼前の1秒を削り出さなければならない。気分はマラソンランナーだ。
そこで、不意に視界が真っ白に包まれはじめる。徐々に白に覆われていく世界に、あれ、貧血かしら? 小中高と皆勤賞だったんだけど、と思う。
しかし、よりよってこんな時に貧血にならなくたっていいのに。ツイていない。
いや、いっそ貧血で倒れれば遅刻も許されるのでは?
そんなことを考えていると、濃さを増していった白い輝きに東京のコンクリートジャングルはすっぽりと飲み込まれていった。