066 エンドロール
――不思議な感覚だ。
雑音はいつの間にか消え、今は聞こえない。
さっきまでフルカラーで見えていた世界は、白と黒の映像に切り替わった。
そんな世界の中で、自分が持つバスケットボールだけが、その鮮やかな色を残している。
こんな感覚、他の人に言っても信じてもらえないだろうなぁ。
試合中なのに、そんな事をふと思う。
正面から、灰色の手が伸びてくる。
フロントチェンジでそれを避け、一歩前に足を踏み出した。
顔を上げると、モノクロな世界の中で変わらず色を纏う人が三人居るのが目に入る。
飛鳥さん、詩織さん、そして環さんだ。
そこに遅れてもう一人、私を追い越すように走る千秋が加わった。
その光景が、私を落ち着かせる。
濃紺のユニフォームを着た四人のチームメイトにだけ、色がある。
それは今までにない事だった。
追いすがるディフェンスをいなしながら、センターラインを越える。
その瞬間、四人の足元から光が伸び出した。
飛鳥さんから伸びる光は私の方へ。
他の三人の光も、それぞれの動きを指し示すように伸びていく。
――信じてもいいのかな。
そう思うと、不思議と身体は動き出した。
――飛鳥さんがスクリーンを掛けてくれる。
そう確信して進路を取ると、完璧なタイミングで飛鳥さんが壁役に入った。
スクリーンを利用し、フリーになった私は中へと突っ込む。
侵入を阻むように、前からもう一人、ディフェンスがヘルプが来る。
そこで、ボールから光が伸びる。
前に出てきたディフェンスを十分に引き付け、光の示す方へボールを手放した。
私からのパスをフリーで受けた環さんが、すっと身体をゴール下へ入れシュートを打つ。
鮮やかな樺色のボールは、ゆっくりとリングに吸い込まれていった。
歓声は聞こえない。
「ナイスパス! 楓っ!」
なのに、馴染みのある声が耳に届いた気がした。
**********
ボールを奪い、攻撃に転じる。
私の目に映る世界はモノクロのままだ。
過去の経験では、途切れ途切れに起きた現象だったから、こんなに長い間この現象が続くとは思わなかった。
いや、私が長いと思っているだけで、本当はそんなに経っていないのかもしれない。
奪ったボールを千秋に預け、動き直す。
その動きに呼応するように、私をマークする選手が付いてくる。
それでも構わず、千秋からパスが返ってきた。
そのボールを両手で受ける。
私の前に立つ灰色の選手。
それがチカちゃんであることを思い出す。
腰を落とし、ふぅっと浅く息を吐く彼女。
その息遣いには、余裕の無さを感じ取れる。
まったく負ける気がしない。
むしろ今まで、なんで彼女相手に上手くいかなかったんだろって思いが浮かぶ。
そんな彼女を見据え、レッグスルーを織り交ぜ淀みなくボールを動かす。
右前へ踏み出すと、ぐっとチカちゃんが息を止めたのが分かった。
その瞬間、散り散りに漂っていた光が、一つの線に集約されていく。
バックステップで後方へ下がる。
その動きに遅れまいと、両手を出して前に出るチカちゃん。
その脇を通すように、パスを出す。
パスを出すとすぐに中へと切り込む。
私が出したパスは詩織さんが受け、すぐにリターンパスが出てきた。
再びボールを受ける。
右からチカちゃんが迫ってきていた。
左手でボールを持ち上げる。
横から伸ばされたチカちゃんの右手が、私の手首を叩く。
そこでボールを手放す。
私が放ったボールは、リングの上を頼りなく彷徨いながら、最後はすっとリングに収まった。
視界に入る選手たちが、一斉に肩の力を抜いてその場に立ち止まる。
私の横では、チカちゃんがゆっくりと右手をあげた。
そこでようやく、今のプレーでファウルを貰ったことに気づく。
バスケットカウントだ。
チームメイトが私の元へ駆け寄り、手を差し出してくる。
何か言っているが、その声は聞こえない。
だけどその顔から、喜んでいるのが分かる。
飛鳥さん、詩織さん、環さん、それに千秋。
次々に差し出される手にタッチしていく。
タッチしたその手のひらには、じんじんと叩かれた名残が残る。
音は聞こえないのに、手のひらの感覚はこれまでにないほど鋭敏だった。
ゆっくりとフリースローラインに移動しながら、ちらりとスコアボードを見る。
74-81。
7点差、ワンスローを決めれば6点差まで縮まる。
集中を切らさないように。
このモノクロの世界が途切れないように。
それだけを考え、虚空を見つめる。
しばらくそうしていたら、審判が中々ボールを渡して来ない事に気付く。
何事かと視線を虚空から外すと、どうやら英修が選手交代をするようだ。
2人の選手がコートを出て、代わりの選手が入ってくる。
誰が入ってきたのかは認識出来ない。
判別がつかないというより、まぁ、誰でもいいか、という気分だった。
ようやく、審判からボールが渡される。
バスケットボール独特の触感。
それを余すところなく手のひらで確かめてから、ダンッ、ダンッ と二度ボールを弾ませた。
跳ね返ってきたボールを受け止めた手のひらが熱い。
そのまま左手にボールを構え、膝を折る。
何度となく繰り返してきた動作。
リング目掛け、シュートを放つ。
きれいな回転の掛かったボールが、放物線を描く。
音もなく、ボールはネットを通過して落下した。
75-81。
これで6点差だ。
いける。
自信が、心を満たしていく。
ちらりと後ろを振り返れば、4人のチームメイトが同じように前を見ていた。
同じように前を向けば、自然と足が出て行く。
チカちゃんがボールを受けたのを合図に、一気に距離を詰める。
彼女の目が、私を睨みつける。
そして――。
負けない。
その唇が、確かにそう動いた。
一気にギアを上げ、左から私を抜きに掛かる。
その仕掛けに合わせ、身体を動かす。
動かしたはずだった。
――っ!
途端、足が縺れる。
バランスを崩し倒れそうになるところを、必死に足に力を入れて耐える。
その隙に、チカちゃんが私を抜き去っていた。
どうして――何でこんな大事な場面で!
慌ててチカちゃんを追うが、その背中は遠い。
4人対5人。
数的不利の状況に陥っていた。
ドリブルで持ち込む相手に対し、千秋が迷いなく自身のマークを捨て寄せに行く。
千秋が捨てたマーク、フリーとなった選手を確認するように、チカちゃんが一瞬、横顔を見せる。
その顔の動きに、詩織さんが反応する。
千秋が捨てた相手を警戒するようにポジションを変える。
千秋もまた、釣られるように視線をチカちゃんから外した。
チカちゃんの足元から、光が伸びていく。
その光は、まっすぐゴールへと伸びていた。
ドライブ!
叫んだつもりだったが、自分の声すら聞こえない。
ちゃんと声になっていたかは分からない。
千秋が視線を元に戻した時、チカちゃんは右から千秋を抜きに掛かっていた。
完全にタイミングの遅れた千秋が手を伸ばすも、ボールには届かない。
完全にフリーとなった彼女が、ステップを踏んでシュート体勢に移る。
右手に持ったボールが、その手から離れる瞬間。
それを阻むように、ブロックの手が、彼女の手ごとボールを叩き落とした。
叩き落されたボールが、転々とフロアを転がっていく。
だけど、そのボールを拾おうとする人はいない。
――ファウルを取られたんだ。
そう認識した瞬間、チームメイトが、静かに右手をあげる。
飛鳥さんだった。
審判がジェスチャーで何かを示す。
それを受けた飛鳥さんは、ユニフォームの裾で汗を拭い、それからゆっくりと天を仰いだ。
わずかな間の後、飛鳥さんが視線をこちらに向ける。
「悪い」
そう唇を動かす。
そして、コートを背にして歩き出す。
飛鳥さんを表す色は、そこでモノクロに変わった。
**********
飛鳥さんが5ファウルで退場となり、コートを後にするのを見届けると、私はフリースローレーンへと移動する。
飛鳥さんが居なくなった以上、フリースローレーンには自分が入った方がいいだろう。
さっきと同じように、虚空を見る。
今もモノクロに映るこの世界が元に戻らないように。
そんな事を考えながら、相手のフリースローを待つ。
その時間が、やけに長く感じられた。
フリースローラインにはファウルを受けた英修の選手、チカちゃんが立っている。
やがて審判からボールを受け、ゆっくりとシュートフォームを作る。
外して――。
今はただ、そう祈ることしかできない。
彼女の手から放たれたボールが、静かにリングを通る。
1本目は成功。
これで得点は75-82……。
飛鳥さんが自身の退場と引き換えに止めたんだ。
ここで決められてしまえば、それも意味が無くなってしまう。
嫌だ。
絶対に無駄にしたくない。
飛鳥さんの犠牲心も、詩織さんの覚悟も、環さんの献身も、千秋の執念も。
私自身のプライドも。
全ては勝つ事で報われるんだ。
チカちゃんが2本目のスローを放つ。
ボールは綺麗な放物線を描き、しかしリングの手前に当たって跳ねた。
落ちてくるボール。
最も近い位置に陣取っていた、環さんがそのボールを確保した。
すぐに近寄り、ボールをくれと両手でアピールする。
環さんからパスを受け、前を向く。
英修のディフェンスは前に出てこない。
全員が自陣へと下がり、チカちゃんもセンターライン手前まで引いている。
ドリブルでボールを運ぶ。
そして待ち構えていたチカちゃんと対峙した。
迷わず仕掛ける。
右、左、右と揺さぶり、そして左から一気にギアを上げる。
チカちゃんが反応するよりも早く、より深く。
抉るように切れ込み、半歩彼女を置き去りにする。
その瞬間、私の手元から当たり前のように光が伸びる。
千秋をマークしていた相手のディフェンスが、私の突破を見て動き出し。
そのディフェンスから離れるように、コーナーの位置に移動した千秋がフリーになったのだ。
光は千秋の方へ伸びている。
瞬間、迷いが生まれる。
このままパスを出していいのか。
絶対に得点が欲しいこの場面を……、自分ではなく、千秋に預けていいのか。
自分で点を決めにいく方が、可能性が高いのではないか。
そうだ。
ずっと今までそうしてきたじゃないか。
私が下した選択は……あくまでも自分で点を決めに行く事だった。
光の示すプレーを拒否するように、私は左手から右手にボールを切り返した。
意表を突いたか、必死に身体を寄せてきていたチカちゃんは、私の深い切り返しに反応出来ていない。
完全に逆を突き、私は彼女の右から、再度ゴール方向へと足を向け進む。
彼女を躱し、フリーになったと確信。
その時だった。
っ!?
何が起きたか分からなかった。
突然、何かにぶつかったような衝撃を受け。
突き飛ばされるように、私は背中から倒れる。
鈍い衝撃が身体に走り、その痛みに強く目を瞑る。
その瞬間、大きなどよめきが両耳に流れ込んできた。
両手のひらに、フロアの冷たい感触が伝わる。
そのままゆっくりと上半身を起こし、目を開く。
視界に映るのは、いつも通りの色彩に富んだ世界。
その中心で、へたりとフロアに座り込みこちらを見る女。
「…あっ……ごめっ……っ」
唇を震わせ、怯えるような顔つきで私を見るそいつ。
何だよ……何なんだよ……。
どうして、どうして……。
身体が勝手に動く。
腹の底から湧き上がるようにせりあがってくる何かを、抑えきれない。
吐き出したいという生理的欲求に抗えない。
私はフロアを這うようにそいつに、竹谷夏希に寄り、その胸倉を両手で掴んだ。
「邪魔をするなぁぁぁぁァァア!!」
両手にありったけの力を籠めると、怯えるように震える瞳を引き寄せ、凝視する。
その瞳の奥には、怪物が映っていた。
そこで、私の世界は暗転する。
全身から力が抜けていくのが早かったか、視界が真っ暗になるのが早かったか。
まるで舞台の幕が下りるように。
私の意識は、そこで何かに遮られた。




