004 櫛引千春の放課後
櫛引千春視点
入学式から早いもので十日が過ぎ。
江戸川に面した公園を彩る三百本あまりの壮大なソメイヨシノは、春の訪れを知らせるその役目を終えて、その名残を並木道や川辺に残している。
入学当初の緊張感や高揚感のような特別な空気は薄れ、ようやく本格的な高校生活の到来って感じだ。
私、櫛引千春は当初から決めていた通り、女子バスケットボール部に入部した。
部活紹介での部長の容姿がかなり注目を集めたみたいで、はじめは十数人の見学者がいたものの、結局入部したのは私を含めた四名だけ。
私たち一年生を加えた国府台昴高校女子バスケットボール部は、三年生二名、二年生五名の計十一名で、新たなスタートを切った。
楓は入部していない。
何度か誘おうとしたんだけど、取りつくシマもなく逃げられてしまう。
……入学するまで本人に黙っていたのはやっぱ作戦ミスだったかなぁ?
とはいえ、積極的に隠していたワケでは無かったんだけど……。
むしろお姉ちゃんなんて、楓が居ても普通に部活用のスポーツバック持って家の中うろちょろしてたし。
興味が無いのか、目に入ってないだけなのか知らないけど。
あれ?千秋、なんか部活やってるの?みたいな話あっても不思議じゃないと思うんだけどな……。
まぁ、楓については焦っても仕方ない。
じっくりと外堀を埋めるべし。
さて、そんな私の所属するバスケ部の印象はというと、正直言ってかなりゆるい。
お姉ちゃんから聞いていた以上にゆるい部活動だ。
厳しさで言えば断然中学時代の方が何十倍もキツかったと思う。
練習は平日だと二~三時間。土曜は午前中のみ三~四時間。平日に一日と日曜日が完全オフ。
練習日も何が何でも出ないといけないわけでもなく、先輩によっては軽く顔を出して帰る人もいる。
創部したばかりの部の成り立ちもあって、メンバーの中には数合わせで入部したような人もいる。そういう人への配慮なのかもしれない。
顧問の先生もその辺は生徒に一任といった感じだ。
私自身の状況でいえば、この二週間でそれなりにバスケ部の面々とも打ち解けることが出来た。
上級生にお姉ちゃんがいるのは何だかんだ心強い。
どういう先輩なのかは事前にお姉ちゃんから教えてもらえるし、先輩達もお姉ちゃんというフィルターがいるといないとでは私への接し方も全然違うだろう。気さくに接してくれる分、こちらも楽だ。
だからといって、調子に乗ってはいけない。他人の評価なんて些細なことであっさり変わってしまうから。そんなことは私の短い人生経験でも十分に学べる教訓だ。
第一印象が良い時ほど、マイナスに転じた時の振れ幅は大きい。
良い時の恩恵はさほど実感出来ないけれど、悪くなった時は露骨なまでに自分の身に降りかかる。
期待も似たようなものかもしれない。期待が大きければ大きいほど、裏切られた時は大きな落胆に変わる。
その落胆が矛先を変えて、悪意を生み出したりもする。
……なんて、アホの子の楓が近くにいないと、ついどうでも良い事を考えてしまう。
放課後、私は教室の掃除当番を終えると、更衣室で練習着に着替え、女子バスケ部が練習場所にしている第二体育館へ。
玄関でバッシュに履き替えて館内に入る。何名か女子の姿が見える。その中で、コートの隅に座りストレッチをしていた背の小さな子が、私を見て大きく手を振ってきた。
「ちーこ、ストレッチ一緒にやろうぜー」
私の事を『ちーこ』と呼ぶ、彼女の名は高木 葵。
凛とした切れ長の目と、綺麗に通った鼻筋がどことなく狐っぽい。
見た目の印象は意地悪そうな感じだが、実際は人懐っこく明るい子で、誰に対しても分け隔てなく気さくな子だ。私も葵とはあっという間に打ち解けた。
私と葵は、お互いの肩に手を掛けて前屈姿勢をとり、ストレッチを始める。
肩甲骨のあたりを手でグッと押しあい、適度な負荷を掛けあう。
時間にして1分ほどこれをやると、今度は体の向きを替えて背中合わせになり、互いに肘を組む。
ぐいっと、葵が私を背負うように持ち上げた。
脱力した背筋が伸びて心地良い。
私はゆっくりと体の力を抜いていく。そんな私を背負う葵は、んっと少し苦しそうな吐息を漏らした。
「重い?」
「うんにゃ、あっちよりは全然マシさぁ」
言われて横目で右を見ると、隣で同じストレッチを行う二人が見える。
私と同じ体勢で背負われる大柄な女子と、それを背負う子。背負う方が明らかにキツそうな様子で悶えている。
「うぎゅぅ……」
「ご、ごめんねぇ静ちゃん……」
背負われている側の子、豊後 結衣が、その豊満な胸を天に誇示する姿勢のまま謝る。
「だい、じょう、ぶ……もん、だい、ない……」
背負う側、北村 静香が、余裕のなさそうな声で返事した。
静香がいわゆる女子高校生の標準的な身長、体型なのに対して、結衣は中々に重厚な肢体をしている。恵体というやつ。そんな結衣を背負う静香は冗談でも文句を言うことはないが、ジトっとした目で虚空を見つめている。
一見すると不機嫌な様にみえるが、静香はこの表情がデフォルトらしい。口数が少ないから、より一層不機嫌そうに見える。
私が初対面の時も彼女に睨まれているように思い、何か悪いことしたっけ?と、自身の態度を思い返したが、私のそういう気持ちを察するように「すまん、こういう顔なのだ」と陳謝する。
今も申し訳なそうに謝るブンちゃんに気を遣わせまいと、必死に何ともないフリをして背負っている。
「ちーこがナイスタイミングで来てくれて助かったわー。 あたしじゃブンちゃん背負ったら潰れてたし、うまいことペア回避できたしなぁ?」
攻守交代。今度は私が葵を、結衣が静を背負う番だ。
「ひどいですよぉ~。 私、自分の体型気にしてるんですから~」
中身が空のかばんでも背負うかのように、静香をひょいと担ぎながら、結衣が葵の軽口に不満を漏らす。
無表情で背負われる静香の姿がちょっと面白い。
結衣に続いて、私も葵を背中に乗せる。
「バスケは背の高さこそ正義だぜー? あたしには羨ましくてしょうがないって。 145しかないんだぜー? 泣けてくるよ……」
「そんな事言われてもぉ……」
そんな二人の会話を聞いていると、ほのぼのしすぎてて思わず力が抜けてしまいそうだ。
私がゆっくり体を起こすと、よっと軽快に着地した葵が自分の身長を測るように右手を頭の上に添えて、あたしももう少しあればなぁと呟く。
バスケットボールは欠陥スポーツと揶揄されるほど、身長が高い選手が有利なスポーツだ。
身体の大きい方が有利なスポーツは数多いが、バスケはよりその傾向が強い。
地上にゴールの設けられたサッカーなどと違い、自分よりも高いところにあるゴールにボールを運ぶスポーツなのだ。
背が高ければ、その分だけゴールに近くなるんだから、当然のように背の高い方が有利。
実際に10cm身長の違う相手と対峙してみて欲しい。
自分より背の高い相手に、手をまっすぐ頭上に伸ばされると、想像以上に高く感じる。
10cmの身長差でもそうなのだ。
20cm、30cm違えば、初めから高さでの勝負はまず成り立たない。
もちろん、バスケは個人競技ではないし、ずっとゴール下に突っ立っていられるワケでもない。
背が低い選手でも、能力次第では十分活躍できる余地はある。
それでも、葵の主張は正しいと思う。
おどけた口調で話していたけど、その身長によるハンデをよく感じてきたのだろう葵の言葉には実感がこもっていた。
「そういえばアレ、どーなったん? まだ不貞腐れてんのー?」
何かを思い出したように葵が尋ねてきた。
「ああ……、アレね」
言ってから、肯定の意味を込めて頷く。
「いやぁ、思った以上に根に持ってるみたいでさ。 選択肢間違えたかなぁ?」
「そりゃ怒るわなー。 アタシが話に聞いただけでも結構鬼畜だと思ったぜー? ジッサイ」
私たちの言う『アレ』とは勿論、楓の事だ。
葵は中学時代に一度、私と楓のいた邦枝中と当たったことがあるらしく、私や楓の事を覚えていた。
私とは同じポイントガードとしてマッチアップしたそうだが、申し訳ない事に、私自身はその時の事をまったく覚えていなかったんだけど。
「まぁ、チームもろともけちょんけちょんに負けたけどなー」
と葵は笑っていたが、彼女の中では印象に残る試合だったみたいで、とりわけ楓のプレーについては身振り手振り交えて熱心に回想された。
そんな楓を入学式で見つけて、葵はビックリしたらしい。
女子バスケ部が出来たての、何の実績もない学校なのに何故?何て事を考えたらしいが、バスケ部に入部してみれば、楓はいない。代わりに中学時代のチームメイトである私はいる、ということを不思議に思っていたそうだ。
実はかくかくしかじかで……と経緯を説明したのは、入部二日目の事である。
ネタバラシ以降の楓は、余程頭にきたのかバスケのバの字も聞こうとしない。
他の話は聞くが、バスケ関連の話題は完全無視。
とはいえ、楓は根っからのバスケ大好きっ子なのだ。
どんなにバスケから離れても、もう一度その楽しさに触れれば、喜びを思い出せば、渇望を煽れば、そのうちバスケがやりたくなると踏んでたんだけど……。
こうして頑な態度を取られ続けると、アホの楓とはいえアプローチに失敗したかな?と考えてしまう。
楓の様子が変わったのは、去年の夏、あの試合の後からだと思う。
中体連の準決勝、あの県内最強のチーム、明青学院との試合。
私たちはあの日、確かに明青を追い詰めた。
いや、私たちというのは正しくない。
楓はあの日、確かに明青を追い詰めた。
一人でボールを運び、シュートを決め、守備では誰よりもボールに食らいつく。
攻守が切り替われば、誰よりも早く駆け出して相手ゴールへ襲いかかる。
私を含め、他のメンバーはただそのプレーに圧倒されていただけだ。
羽根が生えているようだった。
そんな楓に異変が起きたのは、最後のタイムアウト直後のプレーだったと思う。
ボールを持った楓は、せわしなく目を泳がせ、まるで魔法が解けたように動かなくなった。
そのまま相手選手にボールを奪われて後を追う楓。
その背中が、今も目に焼き付いている。
結局、明青に逆転を許したチームは、そのまま敗れる事となった。
試合の後、楓は笑っていた。
負ければいつも、顔中の血管が捻じれんばかりに悔しさを露わにしていた楓がだ。
特に、先輩の代が抜けてキャプテンになってからは、いつもピリピリと神経を尖らせていて近寄り難い雰囲気を出していた。
仲の良い私がそう思うのだから、周りはそれ以上に感じていただろう。
楓の居ない所で、皆が悪口を言う場面も頻繁にあった。
そんな楓が、負けて笑っていた。
他の人には、悔いなくやりきった表情に映ったかもしれない。
でも私はその時、何かとても大事なものを失ってしまったような、そんな気持ちに襲われた。
楓がバスケを辞めると言ったのは、それからしばらくしてからだった。
もちろん理由を聞いたけれど、話してくれなかった。
厳密には、面倒になったとか、もっと遊びたくなったとかそんな理由を語っていた気もするが、適当に答えているのは明らかだったのでその辺はあまり記憶にない。それ以上突っ込まれたくなさそうだったので、私もそれ以上追及する事はなかった。
正直なところ。
楓がバスケを辞めると聞いたとき、何故?という気持ちよりも、ホッとした気持ちの方が強かった。
楓には色々な強豪校から推薦の話が来ていたのを知っていたし、その中のどこかに行ってしまうものだと思っていたから。
そうなれば、凡百なプレーヤーである私が、楓と同じ高校へ進学する事は出来なかっただろう。
茅森楓という、同じような環境で育った唯一無二の親友が、私の知らない存在になってしまうのが嫌だ。そんな自分本位の暗い感情を自覚する度に、胸の奥が締め付けられるように痛む。
楓が自分の手の届く範囲にいると思うだけで、私はその痛みから少しだけ逃れられる事が出来た。
私の中学三年間は、感情を煮詰めてみれば、私を置いてどんどん凄くなる友達を受け入れられずに過ごした時間だ。
楓は私を置き去りにしてどんどん成長していく。私はただ、前を行く楓の背中を眺めるだけ。
私は楓に、私と同じ歩幅で、進むことを求めている。強豪校には行ってほしくない。でも楓にバスケを続けて欲しい。結局は自分の都合だ。
そんな事を考えながら、その後のストレッチメニューを消化していく。
「で、当人は親友の誘いを断って毎日何やってんの?」
ストレッチをひととおり終えたタイミングで、葵が聞いてきた。
「多分、今日は……」