000 プロローグ
身体が熱い。
その体の火照りを少しでも冷まそうと、茅森 楓は手にしたボトルの中身を一息に呷った。
体内に取り込まれた水分が、まるで押し出されたかのようにすぐに楓の肌から噴き出す。
その汗は水蒸気となり、体育館全体を包む熱気の一つに昇華していく。
千葉県中体連バスケットボール大会 女子の部 準決勝。
青のユニフォーム 明青学院 対 白のユニフォーム 邦枝中学との試合は、最終局面を迎えていた。
第4クォーター残り25秒のところで邦枝中が取った最後のタイムアウト。
両チームのコーチが選手たちを鼓舞し作戦を伝えている。
楓はそんなコーチの声を耳だけで捉えながら、自分の左手の甲に目を向けた。
そこには汗に滲んだ『必勝』の二文字。試合前、ベンチ入り出来なかった後輩の一人が書いたメッセージだ。
楓は頬を伝う汗をタオルで拭った後、そのタオルをベンチで待機するメンバーに預け、再びコート内へ。コートの中央、センターサークル付近に立つと、横目でオフィシャルズテーブルに置かれたデジタルスコアボードを一目する。
スコアは56対58。邦枝中の2点リード。試合は邦枝ボールで試合再開となる。
残り時間を考えればあと1ゴール、この攻撃機会を制する事が出来れば勝敗はほぼ決する。
「……大丈夫。」と、楓は呟く。
その呟きは、誰に聞こえるでもなく、誰かに聞かせる為でもない。
『必勝』と書かれたその左手で、汗に濡れた白いユニフォームの真ん中をギュッと鷲掴みにした。
サイドラインからのスローインで試合が再開される。
一度スローワー側の方へボールを受けに行くそぶりを見せた楓は、一転してスローワーとは逆のサイドへポジションを取った。
スローワーから味方の選手に渡ったボールは、楓のいるポジションとは逆のサイドで2度のパス交換を経た後、中央へ切り込んだ味方の選手へ渡る。
その選手がボールを掴むと、楓は一気にフロントコート中央の3ポイントラインへ駆け出した。
そこへタイミングよくパスが飛んでくる。
そのパスを楓は両手でガッチリと受け取ると、ゴール正面へ体を向けた。
「!?」
その瞬間、楓の視界は突如としてモノクロに暗転する。
まるで、スマートフォンで取ったカラー写真にモノクロ加工を施したかのように。
テレビ番組の特集で見た昔の白黒映画のように。
視界の中心にある、バスケットボールの色だけを鮮やかに残して。
自身の目に映る異常さに、楓の思考と体は反射的に止まる。
その異変を察知したかのように、濃い灰色のユニフォームを着た選手が一気に距離を詰め、楓が持つボールを上から叩き落とす。そのままボールを奪うと、観客席から喚声があがった。
はっと我に返ったような顔で楓は後方を振り返る。その目に映るのは4番を付けた青いユニフォームの背中と、誰もいない自陣のコート。
「……っ!」
声にならない悲鳴を上げた楓だが、センターラインを超えたその青い背中を、すぐに追いかける。
点差はわずか2点。
相手の明青学院にとっては確実にモノにしたい同点の機会。
自陣のコートに守る選手はいないが、ゴール前まではまだ一刻の猶予がある。
(追いつける!)
楓は前のめりにその背中を追う。
ところが、
3ポイントラインの手前でその進撃を止めた青の#4は、ドリブルしていたボールを両手に持ち変えてシュート体勢に入った。
(3ポイント!?この場面で!?)
より確実な2点ではなく、3ポイントシュート。
追いついた楓が、シュートをブロックしようと左手を高く伸ばしたのは、既にボールがゴールに向かって放たれた後だった。
楓はそのボールの行方を目で追う。
高く放たれたそのボールは、糸を引くように美しい線を描き、リングへ吸い込まれていく。
リングを通ったボールが、「ザシュッ」っと濁った摩擦音をコートに響かせ、ネットを捲り上げるように揺らしたボールが、コートの上で跳ねた。
同時に、今日一番の歓声がコート全体を包む。
バスケットシューズがコートの床に擦れ、キュキュッと鳴る。
チームメイトの声。スタンドからのエール。ボールの跳ねる音。
コート上の音は全て、心臓の鼓動に掻き消され、楓の耳には届かない。
スコアボードに表示された時間は、残り10秒を切っていた。
楓がパスを求めて動く。ボールはその手へ届けられる。
だがボールを持った瞬間、楓が見る景色は再びモノクロに変わる。
その視野の中心にあるバスケットボールだけを残して。
刹那、鮮やかな色をした球体の真下から、勢いよく手が伸びてくる。
咄嗟にボールを右手側に引き、体をターンさせながらダンッと1度、ボールをフロアに弾ませた楓は、ディフェンスに来た選手を背にしてくるりと目線を一周させる。そのまま相手をかわし、ゴールに正対ながら猛然と相手コートへ突進。敵陣左奥へと侵入していく。
そこでドリブルを止めると、膝に力を溜めてシュートモーションに移った。視線の先にリングを捉え、ボールを手にした両腕を上げながら、溜めた力をつまさきへ流す。
ところが、ジャンプしようとした瞬間、前方を相手選手のブロックに遮られてしまう。
楓はそのブロックを避けようと、反射的に後方へ、背中から倒れるように飛んだ。
樺色の球体が、自身の指先を伝ってモノクロの宙へ放たれるのを見る。
そのまま目線は縦に流れ、視界いっぱいに、色のない無機質な天井が広がる。放たれたボールの行方を見届けることは叶わず、フロアへ叩き付けられるように背中から倒れ込んだ楓は、背中に広がっていく痛みに目を強く瞑って呻いた。
その直後、一際長くて大きなブザー音が、コートを震わせるように鳴り響く。
ブザー音が止むと、楓は静かに目を開けた。
視界には薄茶色の天井と、網目のように組まれた黒い鉄骨。それを覆うように眩いカクテル光線が反射している。
遠くで響く歓喜の声は、楓の耳には届かなかった。