3 海辺のカフェ
海辺のカフェ
関西弁の罵声が悲鳴に変わった。
「あー、あぶなーい!ちょっとちょっとー!」
声の主は標準語の主婦らしき女だった。
遥か遠くに向けられた悲鳴は、最高危険レベルを示す絶叫だった。
周囲の視線も絶叫の行き先を一斉に追った。
男の子が直径50センチほどの黄色いボールを追いかけている。
三歳くらいだろうか、金髪と原色の短パンTシャツが
日本人ではないことを主張している。
大型トラックが余裕ですれ違えるほどの車道の中で
黄色いボールは勢いよく弾んでいった。
ホラー映画のワンシーンがスローモーションで流れるみたいに。
だが次のシーンは訪れなかった。
主婦の絶叫とは裏腹に、自動車が近寄る気配は微塵もなかった。
荒涼とした空き地に囲まれた車道は
砂ぼこりで覆われて灰色のままだ。
臨む埋め立て地の先端に位置するオープン・カフェだった。
周辺に建設中の高層マンションを狙って、
ひと月ほど前に営業を始めたという。
最先端らしきデザインを取り入れた内装はあまりにもチープで、
急場しのぎに雇ったアルバイトの店員はまったく要領を得なかった。
店の一角ではさっきから10人ほどの白人と数匹の高そうな犬が、
いかにもサンタモニカ・ビーチ沿いのデッキでくつろぐ体をなしている。男の子はそのうちのひとりに違いなかった。
案の定、同じく金髪で原色の短パンTシャツ姿の男が
大股で男に追いつき抱き上げた。
安堵の色など微塵もない。
事の一部始終を見守っていた周囲の日本人は、
何事もなかったことに対する落胆の色を隠そうとはしなかった。
グアムのコテージでくつろぐ小金持ちの体を漂わせている。
なぜ自分は場違いな空間に身を置いているのか、
さっぱり見当もつかない。
スマホのオンライン囲碁対局に興じていた。
1分ほどかけて読みを入れた末に黒石の3手目をタップしたところで、
大きな男の気配を間近に迫った。
子供を抱き上げた白人だった。
英語だか日本語だか判別できないが、
ひたすら謝りたいという意志だけは理解できた。
白人がかがもうとしたとき、
ボクの膝に何かが押し付けられるのを感じた。
高そうな犬の鼻だった。
飛び上がるほど驚いて叫ぼうとしたとき、
声が出ないことを思い出す。
再び始まった耳鳴りと入れ替わりに、
関西弁の罵声が僕を現実に引き戻した。
だみ声の女が僕の膝を叩いた。
膝の感覚が戻ったんだ。
狂気で叫ぼうとした。
今度は喉の奥がかすかに震えるのを覚えた。
(つづく)