カフェ ・ スヴニール
ある夏の日、私は道に迷っていた。お母さんと買い物していた、さっきまでの大通りからかなりはぐれてしまい完全に迷子だ。目印になる建物もない。見渡すかぎり見知らぬものばかり。
「どーしよ・・・。」
涙がこぼれるのを必死でこらえ、帰り道を探した。
どれくらいたっただろうか。西日がまぶしくなってきた。ふと顔をあげると目の前に暖かく光る小さな建物があった。こげ茶の木の壁に緑の蔦が絡んでいる。
「スヴニール・・・」
木に彫られた金の字を読んだ。迷子になり孤独感と疲労感に溢れていた私は、吸いこまれるように中に入った。
重い扉を押し開けると、クルルルンと木のドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。」
奥から男の人の声がした。中は木の丸いテーブルと椅子がいくつか置かれており、その全部に白いテーブルクロスと外の蔦に咲いていた花が飾られていた。3つある窓にはそれぞれにステンドグラスがはめ込まれていて、西日を受けて床に鮮やかな色を落としていた。
「好きなお席にどうぞ。」
私がキョロキョロと見回していると男の人が声をかけてきた。男の人は、藍色のふわふわの髪の毛に銀色の瞳をした不思議な雰囲気をまとっていた。腰に巻いた茶色のエプロンに金の字で『スヴニール』と刺繍されていて、ここの主だということが分かった。そして室内に充満したコーヒの香りと可愛らしい食器の数々にここがカフェであることも察した。
私は窓際の席に腰を下ろし、ホッとひと息ついた。
「お疲れのようですね。当店人気のココアはいかがですか?」
男の人は心配そうにメニュー表を指さした。
「お願いします。」
私はココアを頼んだ。
「かしこまりました。」
ニコッと笑い、男の人はカウンターの奥に消えていった。
窓の外を見ると、日はすっかり落ちていてちょうど夕方と夜の間、といった時間帯だった。今日に限ってケータイを忘れるし、財布の中も千円札しか入っていない。はぁ、とため息をついて俯いた。そのとき見えた恐ろしいものに、私は思わず目を疑った。
「・・・なに、これ・・・?」
自分の手が薄く透けているのだ。足も、お腹も。
「いやぁっ!!!!」
「どうなさいました!!?」
男の人が悲鳴を聞きつけ、慌てて出てきた。
「・・・お客様・・・」
男の人は一瞬大きく目を見開き、そして水道水をコップ一杯持ってきた。
「これを飲んでください。」
私は一気に飲み干し、息を整えた。
しばらくして落ち着きを取り戻すと、体も元にもどってきた。
「さっきのはなんなんでしょう?」
私は尋ねた。
「お客様はどこからいらっしゃったのですか?」
唐突な質問にどう答えればいいか分からなかった。
「お客様はココ住人ではないんですよね?」
ココの住人?確かにここら辺に住んでいるわけじゃない。でもおばあちゃんの家に行った時だって、ハワイに行った時だってこんな風に透けたりなんかしなかった。
「あの、どういう意味ですか?」
頭が上手く回ってくれない。さっきから男の人は何が言いたいのか。
「もう日が落ちてしまった。もう戻れませんよ・・・」
戻れない?どこに?じゃあここはどこなの?次々に浮かぶ質問に口にするのも間に合わなかった。
「すみません。僕のせいで・・・早く気づいていれば・・・。」
男の人は独り言のように頭を抱えて呟いていた。
「説明・・・してください。なにが言いたいんですか?」
私の問いかけに男の人は顔を上げた。銀色の瞳には涙が溜まっていた。
「あなたは来てはいけない世界に来てしまった。ここはあなたの世界じゃない。」
「え・・・?」
「日が暮れてしまえば元の世界には戻れません。」
外は真っ暗。星まで瞬いている。
「あなたはココの住人ではない。だから消えそうになっていたのです。ココのものを口にすれば消えはしません。日が暮れる前に戻らなくてはいけなかった・・・。」
私は慌てて入口の扉を開けた。目の前に広がる景色は入った時とは全く違っていた。夜の輝く通りは人で賑わっていたが、私の知っている人間とは何かが違う。雰囲気?匂い?全てにおいて違和感がある。
『元の世界には戻れません。』
遠のいていく意識の中、男の人の言葉の意味がわかった気がした。