天井
翌日、一年F組の教室。
空気が重い。いや、私の周辺だけ空気が重い。
理由は明白。私の目の前にいる赤川大地という存在だ。
私は彼に弱みを握られている。しかもふたつもだ。ひとつは、入学式の時に財布を盗んだこと。もうひとつは昨日、ラブレターを見られたことだ。そして、それを出汁にして、赤川くんに脅されかけている。昨日の時点では何もしてこなかったが、近日中に何か仕掛けてくるかもしれない。うわぁ死にたい。今すぐ教室から抜け出して全力で家に帰りたい。だけどそれはできない。今は真面目に授業を受けるしかできない。逃げたところで、私の悪事が公表されるだけだろうし。
「……木さん、岩木さん!」
「はひっ!」
うだうだと悩んでいたらいつの間にか今日の授業が終わっていた。なんということだ。今日の授業の内容全く頭に入ってない……。ノートも当然真っ白だ。はぁ……。
ところで私を呼んだのは誰だろう。私の名前を呼ぶ人はこのクラスには数えるほどしか……いや、まったくいないと言ってもいいかもしれない。なにしろ入学式の日以来私は悩みっぱなしで友人作りと言うものを放置していたから。今や私に話しかけてくる生徒は学校内では、皮肉なことに私が鬱陶しいと感じている部長だけだ。
で、えーっと、誰だっけ、私呼んだのは。キョロキョロと周りを窺うが、それらしき人はいない。幻聴だったのだろうか。疲れてるのかな私。
「こっちだよこっち、目の前」
……目の前? 私はゆっくりと視線を目の前に戻して声がした方向を見てみる。
当たり前だが赤川くんがいた。そして彼は、こっちに向き直っている。
「あのさ、昨日の手紙の事なんだけどさ」
幻聴だったらよかったのに……。
私は徐々に消えゆく意識の中で、そう思っていた。
見知らぬ天井だ。
自分の状況を確認してみる。私は制服のまま、ベッドに寝かされている。周りを見るとカーテンで仕切られていた。幼い頃、インフルエンザで入院した時以来の光景だ。
あぁ、そうか。ここは保健室だ。そして思い出した。私はあの時、赤川くんに昨日の件で脅迫されかけた。途端、私はストレスと緊張のあまり倒れてしまったのだ。情けない話だ。そして誰かにここまで運んで来てもらったのだろう。そして私は今、自分の状況を事細かに分析できてる。分析と言えるほど大事ではないが、とりあえずそれくらいの事ができるくらいには、落ち着いている。心なしか気分は良い。ベッドで寝た甲斐があったのだろう。さて、校医さんにお礼言わなきゃ……。
「目が覚めましたか?」
綺麗な女の人の声が聞こえた。私の記憶が正しければ校医さんは男の人だったと思うけど、記憶違いだったようだ。
「校医さん? すみません、面倒おかけしてしまって……」
私はそう返事しながら、カーテンを開けた。制服に皺が寄って少し乱れているが、相手が女の人なら大丈夫だろう。
「いえ、大丈夫ですよ。あと、それと」
カーテンを開けると、そこには白い杖を持った、サングラスの女子生徒がいました。
「私は校医ではありません。それに保健室に常駐している先生は、正確には『養護教諭』と呼びます。医師資格を持った校医は、週に三日しか来ませんよ」
びっくりした。話しかけた途端相手が気絶したなんて、生まれて初めてだ。何か特別な能力に目覚めてしまったかもしれない……と思ったのは一瞬の事で、彼女を保健室に運ぼうとした。と言っても運んだのは保健委員と葵さんのふたりだ。いくら緊急事態とはいえ、女子生徒に触るのは勇気がいるし。
保健の先生曰く、大したことはないそうだ。おそらくストレスかなにかで一時的に失神しただけで、すぐに目が覚めるだろうと。ただ、彼女が倒れる直前に話しかけた僕に疑いの目を向けられて、先生に思いきり詰問された。どういう話をしたら彼女が気絶するのだと。うん、なんていうか、ごめんなさい。
先生は僕を詰問したあと、職員室に報告する、とだけ言って出て行った。岩木さんが目覚めたのはその直後だ。
「とりあえず、制服のままベッドに寝ていたのですから衣服が乱れているでしょう。赤川くんがいるから服装を整えなさい」
椿さんは目覚めたばかりの岩木さんにそう指示していた。あまり僕がいること言わないでほしいなぁ、彼女怖がるし。
カーテン越しに、岩木さんの慌てた声が聞こえた。うん、ビビってる声だ。
しばらくすると岩木さんの服を整え終わったのか、葵さんが手招きしてきた。僕はその手招きに応じて、岩木さんと対面することにした。ついでに、長い話になりそうだから三人分の椅子を持って。
こうして僕らは、彼女と対話を始めた。岩木さんはベッドに腰掛け、僕と渡良瀬姉妹は横一列に椅子に座っている。まるで高校入試の時の面接だ。
最初に口を開いたのは、僕だ。
「ごめんなさい!」
僕は勢いよく謝った。椅子から降りて、土下座した。
「……へ?」
岩木さんは変な声を出した。状況を呑み込めていない顔だ。それもそうか。脅すのかと思ったら謝罪されたんだもんな。
「あの、岩木さんに迷惑かけてごめん」
僕は額に地面を擦り付けながら謝り続けた。もしあの入学式の日、対応を間違えていなければこんなことにはならなかったかもしれない。少なくとも岩木さんにこんなにストレスを掛けることはなかったかもしれない。あまつさえ人のラブレターを盗み見て、その話を教室でしようとしたのだ。最低だな。
「まぁ、彼もこう謝っているので許してあげてください。彼も反省しています。それにあなたにも非はあります。このままの状態でいるのはお互いにとって面倒が増えるだけでしょう。あと、彼は脅迫なんていう高等テクニックを扱える人間ではありません。コミュニケーションが少し下手なだけです」
椿さんがフォローしてくれた。半分僕の事をこき下ろしていたが。しかし、土下座をしているせいで、どんな表情をしているかわからないが。
「……」
保健室にしばらく静寂が流れたあと、岩木さんがようやく口を開いた。
「……ごめんなさい」
土下座された。
脅迫してきた男が、いきなり土下座した。意味が分からない。
いや、正確に言うと、赤川くんはまだ脅迫してはいない。いつかするだろうとは思っていたが。そんな男が、土下座して謝ってきた。
本来の立場で言えば、私が謝る側だ。財布を盗んだのは私だし、あのラブレターの件は事故みたいなものだ。でも、彼は土下座して謝った。
そして後ろにいるサングラスをかけた女子生徒、同じクラスの渡良瀬椿さん、彼女が口を開いた。私を諭すように、彼を援護するように。ただその顔「私をこんな面倒なことに巻き込みやがって」と言った感じの表情をしていた。
その様子に私は思わず、笑ってしまったものだ。きっと彼女は私と一緒で、面倒が嫌いなのだ。盲目で。どこか近寄りがたい雰囲気を醸し出していたけど、それは私の幻想で、本来は私と一緒名なのだ。そう考えていると、肩の荷がどんどん軽くなっていった。そして私は、毒気が抜かれてしまった。彼を警戒しつくしていた私はいつの間にか消え去った。今の私にあるのは、謝罪の言葉だけだ。
ごめんなさい。
こんな面倒なことに巻き込んでしまってごめんなさい、椿さん。ついでに、赤川くんも。
私はこの時初めて、赤川くんという人間を認識したんだと思う。