憂鬱
「はぁ……、これからどうしよう……」
この陰鬱なため息を五分ごとに吐く彼女は今、情報部の部員として今日も部活動に励んでいる。とりあえず表向きは。
だが彼女の頭の中は別の事でいっぱいだった。
なぜ入学式の時、私は早まった真似をしたのか。なぜあの人は私に強く言うことなく、しかもお礼を言って去ったのか。正直に言うと気持ち悪い。
あの人は私を脅すつもりなのではないか。そのために今は見過ごして、自分に有益となると判断したところで私を脅迫して金なり体なりを要求して来るのではないだろうか。そう考えていた。彼女は生まれつきのネガティブ思考の持ち主だったため、その手の思考は奈落の底まで落ちていく。
もし相手が彼女好みのイケメンだったら一目惚れのひとつやふたつもしただろう。だが彼女(もしくは彼)にとって残念だったのは、相手がイケメンと言うにはお世辞が過ぎる顔つきだったからだ(無論このことについては、今の彼女は思ってもいないことである)。
なぜあんなことをしたのか、と問われても彼女は明確な答えを出せない。家計は、自分を中学のころから私立学校に通わせることができるくらいには裕福だ。お小遣いに不満があったのか? と問われてもそれも否定できる。自分はあまり買い物には行かないし、これと言った趣味も持ち合わせていない。あえて言えば「読書」だろうが、世間一般ではそれは無趣味と同義だ。情報部に所属しているのも、将来何かに役に立つかもしれない、という理由で入ってるだけだ。
結局のところ、犯行理由は「ついやってしまった」に尽きるのかもしれない。日々のニュースやドラマでよく見る犯行動機で、心の中でバカにしていた台詞だが、それをまさか自分が言うなんて……。
(これから私、どうすればいいのかな……。まさかこのまま脅迫に怯えながら高校生活を送らなきゃだめなの……?)
彼女の加速度的に落ちていく思考を止めたのは、情報部の部長である。
「愛梨ちゃん大丈夫? なんか顔色優れないけど」
「あ、部長……。いえ、大丈夫、です、から」
「大丈夫そうには聞こえないんだけどなぁ……」
ちなみに情報部部長は女性で、これは情報部始まって以来の快挙である、らしい。そもそも情報部自体が設立されてから数年しか経っていない新興の部活なのだが。
それはさておき、情報部部長は明朗快活、人付き合いが良く、何も言わなければスポーツ系の部活に入ってそうな雰囲気を醸し出している美少女である。自分とは真逆の性格と容姿をした人間で、軽く嫉妬してしまう。
正直言うと、自分はこの部長のことは苦手だ。
「いや、あの、本当に大丈夫です。ちょっと考え事をしていただけなので」
「ふぅん……? なんならお姉さんが相談に乗るよ?」
「いえ、部長にお世話になるほど重大な悩みではないので……」
この部長はその性格のおかげで様々な相談事をされ、本人も喜んで相談に乗る人である。そしてその悩み事をスパッと解決させる能力も持ち合わせており、お世話になった生徒も多い……、らしい。自分はまだお世話になったことはないからわからない。気弱な自分が他人に悩み事をぶちまけるというのも、この先はないと思う。
「そう、ならいいんだけどね。それと……」
「はい?」
部長は満面の笑みを浮かべながら、私の額を小突きながら言った。
「私の事は名前で呼んで、っていつも言ってるでしょ! 女子同士なんだから恥ずかしがらないで!」
「え、あ、はい。ごめんなさい部ちょ……竹石、さん」
「愛梨ちゃん? そこは下の名前で呼んでくれたら嬉しんだけど?」
「え、いや、先輩に対してそれはさすがに……」
「呼びなさい。部長命令よ!」
「え、あ、う……えっと、カラナさん……でしたっけ?」
「はい正解。欲を言えば呼び捨てで呼んでくれたら嬉しいんだけど……愛梨ちゃん相手にそこまでは贅沢できないわね」
「む、無理です……」
下の名前で呼ぶというだけで恥ずかしいのに、呼び捨てなんて、私を殺す気か。
「そうよね……、まぁいいや。愛梨ちゃん顔は良いんだからもうちょっと笑顔笑顔!」
「顔は良い、ってそんなことは……」
この天下の美少女、と言っても差し支えない竹石カラナがそう言っても説得力はない。むしろ遠回しに自分を褒めてるようにしか聞こえない。無論そんなこと彼女は思ってもいないのだろうが。
やっぱりこの人は苦手だ。これ以上恥ずかしい目に遭う前にトイレに行くふりでもしよう……としたときだった。
「あ、そうだ愛梨ちゃん、吉田先生呼んできてくれない?」
「はひ?」
変な声が出た。恥ずかしい。
「あ、今のちょっとかわいい。もう一回やって?」
「い、いやです! そ、それよりなんでしたっけ?」
「あぁ、うん、吉田先生とね、少し相談したいことがあるんだ。私は今ちょっと手が離せないから、代わりに呼んできてほしいの」
吉田先生というのは情報部の顧問で、担当科目は勿論情報だ。ちなみに年齢不詳、禁煙失敗回数三回、独身。噂によると大学時代、クリスマスの一週間前に二年間付き合っていた彼氏にフラれたらしい。厳しい先生だが、生徒からの信頼は篤い。でも私はこの先生の事は部長ほどではないものの苦手だ。
はぁ、面倒だなぁ……。でも部長との会話を中断してこの場から逃げる絶好の機会だ。部長か吉田先生か、どちらかを選べと問われれば私は吉田先生を選ぶ。
「先生は……、えっと、職員室ですかね?」
「んにゃ、第三会議室だね。もう一つの部活見に行ってるとこ」
吉田先生は顧問を掛け持ちしている。と言っても、もう一方の部活は人数の少ない弱小部なのでさしたる問題ではないそうだが。
「わかりました、すぐに行きます」
第三会議室はパソコン室とは離れた場所に位置するから、少し面倒だ。その分部長と離れられる時間も増える。ゆっくり行こう。ゆっくり行きすぎるとすれ違いになる可能性もあるが、それでも別に構わない。むしろ好都合だ。先生と会わずに済み、かつゆっくりパソコン室に戻ることができる。パソコン室に戻っても先生と部長は「相談」をしているだろうから私に突っかかることはないだろうし。すぐ教室から出て、牛のように歩こう。
と、そこまで考えて扉に手を掛けた時、
「あ、愛梨ちゃん。先生呼んだらそのまま鞄持って帰っていいよ。今日の愛梨ちゃん具合悪そうだし、上の空で作業捗ってないみたいだし。帰ってゆっくりして良いよ。先生には私が言っておくから」
「へ? あ、はい。あ、ありがとうございます……」
よくわからないが帰宅許可が出た。
確かに今日は部活動が捗っていなかった。周りにはそう悟られないように振る舞っていたつもりだったが、この部長にはばれていたようだ。
「うん、気にしないで。これも部長の仕事みたいなもんだから」
とにかく早く帰れる。そう考えると足取りが軽くなる。気分も良い。先ほどの鬱々とした気分とはもう無縁だ。今日は人生最高の日かもしれない。
彼女はもう、例の悩み事のことなど忘れていた。部長との会話と、帰宅許可のことで頭がいっぱいになったのだ。
彼女は存外単純な人間である。そしてそれは、部長はよく知っていた。
彼女がそうなるように仕向けたのは竹石カラナその人である。「手が離せない」なんていう、ちょっとした嘘を交えたのはそのためだ。
そして岩木愛梨は、そんな事実を知ることはなかった。
そして竹石カラナは、岩木愛梨が向かった先に彼女自身の悩み事の種が存在しているという事実を知ることはなかった。