婚約破棄された姉は、弟の応援で忙しい
「エリーズ。君との婚約は、なかったことにしたい」
剣術会の会場で、フェリクス様はそうおっしゃった。
見物客にお茶を出す天幕の隅だった。外では、午前の試合が始まっている。木剣の打ち合う音と歓声の間に、彼は別の方と結婚したいのだと続けた。
私は手に持っていた扇を閉じた。開いたままでは、指が震えているのを隠せなかったからだ。
「お相手の方は、ご存じなのですか。私との婚約のことを」
「知っている。だからこそ、いつまでも曖昧にはできない」
その誠実さを、先に私へ向けてはくださらなかったのね。
そう思ったのに、口から出てきたのは、いつからですか、という問いだった。
彼は困ったように目を伏せた。
「君に非があると言いたいわけじゃない。だが、彼女といると気持ちが安らぐんだ。穏やかで、控えめで……君も随分、努力してくれたとは思う」
努力。
その言葉に、顔が熱くなった。
大きな声で笑わないこと。身内の話ばかりしないこと。夢中になると周りが見えなくなる癖を直すこと。何度も言われ、三年かけて覚えたことを、最後に褒められた。
それでも、彼が結婚したい相手にはなれなかったらしい。
「私は、あなたといる時、落ち着いて見えるようにしていました」
「分かっているよ。だから、無理を続けるより――」
「そうですね。もう、続けたくありません」
言い終わるまで、彼の顔を見られなかった。
引き留めたら、もっとつらい返事が来る。それは分かるのに、楽しかった日のことばかり思い出した。初めて二人で庭を歩いた時、私が木の上の鳥を指すと、彼も立ち止まって見てくれた。あの頃は、話を聞いてもらうために、こんなに言葉を選ばなかった。
私は彼を好きだった。今日まで、結婚するつもりだった。
「婚約破棄はお受けします。父と母には私から伝えますので、正式なお話は、両家でお願いいたします」
フェリクス様は、少し肩の力を抜いた。
「ありがとう。君なら理解してくれると思っていた。今日はもう、帰った方がいい。人の多い所にいるのは、つらいだろう」
何も答えず、お辞儀をした。
このまま返事をすると、泣いてしまうと思った。
母は天幕の外で、知り合いのご夫人と話していた。
私の顔を見ると、すぐに話を切り上げてくださった。事情を伝える間、母は何度も口を開きかけたが、最後まで聞いてから、私を人の少ない木陰へ連れていった。
「帰りましょう。あちらのお家へのお話は、私とお父様でします。今は、あなたが無理をすることはないわ」
うなずこうとした時、弟のルカが駆けてきた。
稽古着の上に胴を守る防具をつけ、脇に面を抱えている。十六歳になったばかりなのに、この一年で、私より背が高くなった。
ルカは母と私を交互に見て、足を止めた。
「……姉様、どうしたの」
「フェリクス様と、婚約を解消することになったの」
弟の顔が変わった。
脇に抱えていた面を持ち直し、来た方へ目を向ける。その先には、選手たちの待機場所があった。
「だったら、僕も帰る。まだ受付の人がいるから、出ないと言ってくるよ」
「待って。どうしてあなたまで帰るの」
「だって、そんな顔の姉様を置いて、試合なんてできないよ」
その言い方があまりに真剣で、私は返事に困った。
今朝、弟は馬車の中で、対戦の組み合わせを何度も確かめていた。初めて出る、十六歳から十八歳までの部。八人の中で、どこまで勝ち進めるか。それを楽しみにしていたことを、私は知っている。
私の婚約破棄のために、弟が楽しみにしていた試合までなくしてしまうのは嫌だった。
それに、帰って一人になれば泣くだろうけれど、今は、ここで見たいものがあった。
「ルカ。あなたの試合を、見に行ってもいい?」
弟が、私を見た。
「帰らないの?」
「ええ。お母様がご一緒してくださるなら。今日はフェリクス様と大人の部を見る予定だったけれど、私は、あなたの試合を見たいの」
ルカはすぐには答えなかった。
子供の頃には、庭で木の枝を振り回すたび、私を呼んでいた。姉様、見て、と。けれど、いつの間にか呼ばれなくなった。婚約者が来ているから、今はお話の途中だからと、何度も断った私が、その理由を尋ねたこともなかった。
「……一回で負けるかもしれないよ」
弟は、面の縁を指でなぞった。
「相手、去年も出ていた人なんだ。僕より大きいし。姉様が見に来て、すぐ終わったら、悪いだろ」
「勝ったところしか見たくないなんて、言っていないわ。今のあなたが、どんなふうに剣を振るうのか見たいの」
ルカが目を上げたので、私は続けた。
「最近、稽古も見に行かなかったでしょう。自分から会いに来るように言っておいて、話を途中で終わらせたこともあったわね。あれは、ごめんなさい」
「……今、その話をしなくていいよ。試合、もうすぐだから」
弟はそう言ってから、少し早口になった。
「北側の柵のそばなら、よく見える。母様もそこへ来て。始まる前に、どこにいるか確かめるから」
隣で、母がうなずいた。
ルカは二歩ほど戻りかけ、またこちらを向いた。
「でも、ルーちゃんって呼ぶのはやめてね」
私は、泣きそうなまま笑ってしまった。
「分かったわ。ルカ様とお呼びしましょうか」
「それは、もっとやめて」
ようやく、いつもの顔になった弟が、待機場所へ走っていった。
母は私の手を軽く握った。
「私も見たかったのよ。さあ、行きましょう。ルーちゃんが寂しがる前に」
それは言わない約束です、と言うと、母も笑った。
* * *
若い子たちの試合場は、大人の部より一回り小さかった。
柵の外に椅子が並び、選手の家族らしい人たちが集まっている。母と二人で北側の席に座ると、隣の男性が、どなたの応援ですかと尋ねてきた。
「ルカ・ヴェルネです。私の弟が、今日、初めて出るんです」
「ああ、次の試合の。うちの息子も初めてですよ。朝から食事が喉を通らんと言って、卵を三つ食べていました」
私の弟は、パンを四つ食べていた。
それを言うと、男性は大きな声で笑った。どうやら、皆、心配の仕方は似ているらしい。
柵の内側へ、ルカが入ってきた。試合場の端で面をつける前に、客席を見回している。
私は手を上げた。ルカは私を見つけると、小さくうなずいた。
ルカの相手は、確かに体の大きな少年だった。
二人が礼をし、構える。稽古用の木剣とはいえ、音がすると、思わず肩に力が入った。
私は剣術に詳しくない。けれど、審判が有効と認めた打ち込みを二本先に取った方が勝つことと、止めの声がかかったら打ち合いをやめることは、始まる前の説明で聞いていた。
最初の一本は、あっという間だった。
「一本!」
審判が相手の方へ手を上げた。
ルカが元の位置へ戻る。私は膝の上で、閉じた扇を握り締めた。
今ので、どこか痛めなかっただろうか。怖くなっていないだろうか。目を凝らして見ていると、面の奥の顔は見えないのに、弟が唇を結んでいる気がした。
「ルカ……」
名前が喉まで出て、そこで止まった。
声が大きい。誰もそんなに騒いでいない。身内びいきは、見苦しいものだ。
言われたことが、耳に残っていた。ここにはフェリクス様はいらっしゃらないのに、私はまた、彼の隣にいるように口を閉じた。
隣の男性が、身を乗り出した。
「落ち着けよ、ヴェルネ! まだ一本だぞ!」
ご自分の息子ではないのに、応援してくださった。
ルカは審判の声に合わせて構え直した。次の打ち合いでは、さっきより長く、二人の木剣が行き来した。
ルカが一歩下がる。相手が近づく。その時、弟が踏み込んだ。
「一本!」
今度は、ルカの方へ手が上がった。
「やった! ルカ、やったわ!」
気づいた時には、立ち上がっていた。
後ろの方の邪魔になる。慌てて座り直したが、声まで引っ込めることはできなかった。
ルカがこちらを見た。ほんの一瞬だけ。それから、もう一度相手へ向き直った。
母が私の隣で、拍手をしていた。
「そうよ、ルカ。その調子!」
私は扇を手提げへしまった。
拍手をするのに、邪魔だったからだ。
次の一本が決まるまで、息をするのも忘れそうだった。
木剣がぶつかるたびに、ルカの名前を呼びたくなる。けれど、審判の声まで聞こえなくしてはいけない。母と二人で身を寄せ、今のは惜しかった、よく避けたと、知らないなりに必死で見ていた。
最後にルカの木剣が相手の胴を捉え、審判の手が上がった。
私は両手を打ち合わせた。
「ルカ、おめでとう!」
弟は、すぐにはこちらを見なかった。
相手へ礼をして、木剣を下ろし、それから面を外した。額に髪が張りついている。赤くなった顔で客席を向き、ぎこちなく笑った。
それを見たら、どういうわけか、私まで泣きたくなった。
待機場所の入口まで迎えに行くと、ルカは水を飲みながら、私を見た。
「姉様。声、大きすぎる」
「ごめんなさい。嫌だった?」
弟は水の入った杯を下ろし、少し考えた。
「……嫌ではないけど。皆、振り向いてたよ」
「私も振り向くわ。あんなに立派な弟がいたら、お姉様は誰なのかしらって」
母が横で噴き出した。
ルカは困ったように顔をしかめたが、口元は笑っていた。
「立派って、まだ一回勝っただけだよ」
「その一回を見られたのが嬉しいの。一本取られた後、すぐに戻って構えたでしょう。私だったら、もう帰りたくなっていたかもしれない」
ルカは杯の中を見た。
「僕も、少し思った。でも、一本取り返したら、姉様の声が聞こえたから。見てるんだなと思って」
彼が自分の試合の話をするのを、私は聞いた。
最初は相手が大きく見えて、足が動かなかったこと。稽古で何度も注意されていたことを、試合の途中で思い出したこと。
弟は話したいことがたくさんあった。私はそれを、次のお茶の時間が来るまでの話として聞かずに済んだ。
「次は、昼の休憩が終わってから。勝てば決勝なんだ」
「では、私たちも何かいただいてくるわね。次も同じ席でいいかしら」
母が尋ねると、ルカはうなずいた。
私たちが離れようとすると、弟が私の袖を軽く引いた。
「姉様。ルーちゃんって、一回も言わなかったね」
「約束しましたから」
そう答えると、弟はほっとした顔で笑った。
試合の最中でも、そこは気になるらしい。帰ったらまたルーちゃんと呼びたくなったけれど、今はやめておいた。
* * *
母と軽い食事を済ませ、席へ戻る途中だった。
フェリクス様が、大人の試合場へ続く道から歩いていらした。私を見ると足を止め、そのまま近づいてきた。
「エリーズ。まだいたのか。帰ったものと思っていたよ」
「弟が勝ち進んだので、次も見ることにしました」
彼は母へ挨拶をし、私に目を戻した。
「ずいぶん、楽しそうだったね。こちらまで声が聞こえた」
それほど大きな声だったのかと、一瞬、恥ずかしくなった。
それでも、謝る言葉は出さなかった。
「初めての試合に勝ったんです。嬉しかったので」
「僕が言ったことは、君にとって、その程度のことだったのか」
私は彼を見た。
朝は、理解してくれてありがとうとおっしゃった。今は、楽しそうに見えたことを責めている。
何と答えれば納得してくださるのか、いつものように考えかけて、嫌になった。もう、その答えを探すために、弟の試合を見逃したくなかった。
「悲しかったです。今も、あなたのお顔を見ると、つらいです」
声にした途端、胸が苦しくなった。
彼は何か言いかけたが、私は最後まで話した。
「でも、弟が勝って嬉しかったのも、本当です。どちらかを嘘にしなくてはいけませんか」
「そんなつもりじゃない。ただ、当てつけのように騒ぐのは――」
「ルカの試合は、あなたに見せるためのものではありません」
今度は、迷わず言えた。
弟は、朝から緊張していた。自分の足で試合場へ入り、一本取られても、もう一度構えた。その時間まで、私とフェリクス様の話にしてしまいたくなかった。
「声が大きかったことは、気をつけます。でも、応援はやめません。次も見たいので、失礼いたします」
母が私の隣へ並んだ。
「婚約のお話は、改めてご両親を通してください。今は、息子の試合がありますので」
私は母と一緒に歩き出した。
フェリクス様が後ろで私の名を呼んだが、足は止めなかった。次の試合を知らせる鐘が鳴り始めていた。
席に着くと、さっきの男性が、間に合いましたね、と少し体をずらしてくださった。
その息子さんは一回戦で敗れたそうだ。父親の隣に座っていた少年が、私たちに会釈をした。
「ヴェルネは、あの人と稽古したことがあるんです。次の相手です。いつも負けているって言っていました」
言ってから、少年は慌てた。
「あ、でも、今日は分かりません。さっきの試合、よかったですし」
「教えてくださってありがとう。私も、よかったと思っています」
柵の向こうへ、ルカが入ってきた。
今度の相手は、一回戦の相手ほど大きくはない。二人は顔を合わせると、少し笑って、それから面をつけた。
私は両手を膝の上に置いた。母が隣で、小さく息を吐いた。
始めの声がかかった。
* * *
ルカは、負けた。
一本取られて、一本取り返した。その後の打ち合いで、相手の木剣が先に弟の胴へ届いた。
終わりを告げる声が聞こえても、私は拍手をするのを忘れていた。まだ続くような気がして、もう一度構える弟を待っていた。
ルカは木剣を下ろし、相手へ頭を下げた。
隣の少年が立ち上がった。
「ルカ、惜しかった!」
その声で、ようやく私も手を打った。
弟はこちらを見なかった。面を外しても、顔を上げずに待機場所へ戻っていく。
私は立ち上がりかけたが、母が私の手に触れた。
「着替えてから出てくるでしょう。入口で待ちましょうか」
うなずいて、母と柵沿いを歩いた。
頭の中に、いくつも言葉が浮かんでいた。よく頑張った。初めてなのだから、十分だ。来年はきっと勝てる。
けれど、弟の顔を見る前に、どれを言うか決めることはできなかった。
しばらくして、ルカが出てきた。
防具は脱ぎ、まとめた荷物を肩に掛けている。面に押されていた髪が、あちこち跳ねていた。
母が、どこか痛めていないかと尋ねると、ルカは首を振った。それから、私を見た。
「……勝てなかった」
私はうなずいた。
近くで見ると、弟の目が赤かった。
「最後、届くと思ったんだ。先に当てられると思って。稽古で、何度も同じことを言われていたのに」
そこまで言って、ルカは唇を噛んだ。
私は手提げを開け、ハンカチを出した。弟の顔へ手を伸ばさず、差し出すだけにすると、ルカは少し迷ってから受け取った。
「悔しいね」
その一言しか言えなかった。
ルカが、ハンカチを目に押し当てた。すぐに離したけれど、次の言葉は、くぐもっていた。
「姉様が来てくれたから、勝ちたかった。朝から嫌なことがあったんだから、せめて、僕が」
「ルカ。私は、あなたの試合を見に来たのよ」
弟が顔を上げた。
「勝って慰めてと、頼んだつもりはないわ。さっき勝った時も、あなたが嬉しそうだったから、私も嬉しかったの。今、悔しいなら、私の顔を見て笑わなくていいのよ」
言い終えてから、それは朝の自分にも言ってやりたかった言葉だと思った。
相手が困らないように、悲しむところまで上手に済ませなくてもよかったのだ。
ルカはもう一度ハンカチで目元を拭いた。
「最後まで、見てた?」
「見ていたわ。一本取り返したところも、最後、相手にお辞儀をしたところも」
負けたから、そこだけ褒めるのかと思われるのは嫌だった。私は少し考え、それでも、実際に思ったことを話した。
「試合が終わった時、私は拍手も忘れていたの。まだ終わってほしくなくて。でも、あなたは、ちゃんと相手を見て礼をしたでしょう。あれは、なかなかできないと思ったわ」
ルカは、何か言おうとしてやめた。
手の中のハンカチを畳みかけ、ぐしゃぐしゃになった端を見て、また広げる。
「本当は、すごく嫌だった。礼をしたら、負けたのが決まる気がして」
「そう。それでも、したのね」
弟はうなずいた。
しばらく、私たちは並んで立っていた。母はそばにいて、次の試合を知らせる鐘が鳴った時、決勝も見ていくかと尋ねた。
ルカは、試合場の方を見た。
「見る。今の相手が、どんなふうに戦うか知りたいから」
私は母と顔を見合わせ、それからルカへうなずいた。
「では、席へ戻りましょう。隣で見ていてもいい?」
「……うん。分からないところがあったら、聞いて。姉様、全部に驚くから」
少しだけ、笑っていた。
私が差し出したハンカチは、ルカの手の中にあった。そのまま持っていてと伝えると、弟は自分のポケットへしまった。
決勝を見る間、ルカは、時々説明をしてくれた。
私には同じように見える動きにも、違いがあるらしい。どちらかが一本取ると、弟は悔しそうにしながらも拍手をした。
試合が終わり、観客が立ち上がり始めた時、ルカが私の袖を引いた。
「次も、来てくれる?」
私は、弟を見た。
「秋の終わりに、もう一度あるんだ。その時も、見に来てほしい。今日、負けたから、もういいとは思わないで」
嬉しくて、今度は私の方が、すぐに返事をできなかった。
私が見たいと頼むだけではなく、この子も、来てほしいと思ってくれた。
「もちろん。場所と時間が決まったら教えて。最初から、あなたの試合を見に行くわ」
ルカは、ようやく大きく息を吐いた。
「じゃあ、次までに、声を少し小さくする練習をしておいて」
「私にも稽古が必要なのね」
「かなり」
母が笑い、私も笑った。
弟は困ったように目をそらしたが、その耳が赤いのを、私は見逃さなかった。
* * *
帰りの馬車で、私は泣いた。
弟が勝っても負けても、私の恋が終わったことは変わらなかった。三年の間に楽しみにしていたことを、一つずつ思い出すと、朝はこらえた涙が止まらなくなった。
母が新しいハンカチを貸してくださった。私のものは、向かいの席のルカが、まだ持っていたからだ。
「ごめん。姉様の、僕が使ってしまった」
弟がポケットへ手を入れたので、私は首を振った。
「いいの。二人とも泣いたのだから、仕方がないわ」
ルカは少し黙って、それから、窓の外へ顔を向けた。
「僕は、ほんの少しだから」
「ええ。私は、もう少し泣くわね」
そう言えたことが、ありがたかった。
ルカは慰めの言葉を探すのをやめ、黙って座っていてくれた。馬車が大きく揺れた時だけ、私の手提げが落ちないように押さえてくれた。
しばらくして、弟が、窓の方を向いたまま言った。
「今日は、来てくれてありがとう。姉様の声、すぐに分かったよ」
私は母のハンカチで顔を押さえた。
つらいことがあった日を、つらいだけの日にしないで帰れたのが、嬉しかった。
婚約は、その翌週、正式に解消された。
フェリクス様から、もう一度二人で話したいという手紙が来たが、私はお断りした。私が静かにしていても、笑っていても、あの方に納得していただくために理由を考える日々へは戻りたくなかった。
手紙を書き終え、封をしたところで、庭から木剣の音が聞こえた。
窓を開けると、ルカが稽古の先生と向かい合っていた。
試合の日から、毎朝、同じところを繰り返し教わっている。急に何もかも上手になったわけではない。昨日も、何度も止められていた。
私は窓から、区切りがつくのを待った。ルカが木剣を下ろし、こちらに気づく。
「見に行ってもいい?」
弟は、先生を振り返った。先生がうなずくと、私へ手を振った。
「いいけど、稽古の途中は静かにしていてね。先生の話を聞きたいから」
「分かっているわ。お茶を持っていくから、休憩の時に飲んで」
ルカは、ありがとう、と返してから、もう一度先生へ向き直った。
私は窓を閉めようとして、手を止めた。今度は、さっきまで何度も注意されていた動きが、少し違って見えたからだ。
先生の木剣を受け、ルカが足を運ぶ。稽古が止まり、先生が、今のだ、と弟の肩を叩いた。
「ルカ、できたじゃない!」
窓を閉めるのが、間に合わなかった。
弟が空を仰ぎ、先生が笑った。私も慌てて口を押さえたけれど、ルカはこちらを向き、今度は笑いながら言った。
「姉様も、練習して!」
それから、ルカは木剣を持ち直した。
「でも、今のは、下りてきたらもう一回やる。だから、早く来て」
私は、今度こそ声を抑えて返事をした。
階段を下りる足は、ちっとも落ち着いていなかった。
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