はつひので(中)2
部屋に入ると、重い空気が落ちた。
松政は菅笠を脇に置き、静かに座る。
視治は立ったまま、拳を握りしめている。
「……本当なんですか」
低い声。
「今日、なんですか」
松政はゆっくり頷いた。
「午の刻」
その一言で、空気が凍る。
朔弥が息を呑む。
「そんな……先生、何とかならないんですか……!」
視治の声は震えていた。
拳が白くなるほど握られている。
松政は目を伏せた。
「手は尽くしました。ですが……決まったものは、覆りません」
「そんな……!」
視治の瞳が揺れる。
「なんで……いったい、先生が何したって言うんですか……」
視治は俯き、溢れ出る涙を右の手で必死に拭う。
松政が小さく息を吸い、静かに語り出した。
「彼はただ、旅をしていただけです……。」
視治がハッとして顔を上げる。
「じゃ、じゃあ何で……!」
「見てしまったんです!彼は…」
松政が声を荒げて言う。
視治と朔弥は驚き硬直し、視治の涙は自然と止まっていた。
松政は左手を胸に当て、心を落ち着かせ静かに息を吐く。
しかし、彼の吐く息は震えていた。
「遠井さんは見てしまったんです。見てはいけないものを。
彼が囚われているのは隣国にある牢獄です。彼はその国と接する、いわゆる武士の国との国境を旅していたようです。その途中、彼はおそらく、隣国が行なっていた国家秘密を目撃してしまったようなのです。何をしていたかはわからなかったようですが、それを見ていた姿を目撃されてしまい、その場で捉えられ、即刻死刑が決定したようです。」
視治は目を大きく開く。
「そ、それじゃあ…兼通先生は別に悪いことなんて何もしていないじゃないですか!見ても何もわからなかったのなら、それでいいじゃないですか!」
「ええ…しかし、見てしまったことが罪だったのでしょう……。」
「で、でも!それじゃあ、ただ口封じのための虐殺じゃないですか!兼通先生は政になんて興味ないんですよ!ただあの人は…美しいものを見たいだけで…」
松政は強く歯を噛み締めた。
「ほんとに…もう何もできないのですか…?」
視治が尋ねる。
「はい…」
松政は顔を伏せ、声を低くして言う。
「……なら、僕が行きます」
「視治君」
松政が驚いて顔を上げる。
「今から助けに行きます!まだ間に合うはずだ!」
朔弥が慌てて前に出る。
「無茶だ!相手は兵だぞ!」
「放してくれ!」
視治は振り払う。
松政が声を低くして言う。
「行っても、何も変わりません」
視治は振り返る。
「それでもです!」
その目は、あの日、弟子入りを願った時と同じだった。
必死で、まっすぐで、痛いほどに美しい目。
そうして、視治はすぐに部屋を飛び出した。
朔弥が後を追おうとする。
「待て!視治!」
しかし、松政が腕を掴んだ。
「……行かせてあげなさい」
「何でですか!」
「これは、彼自身の問題です」
松政の目は、揺れていなかった。
「止めれば、一生、後悔するでしょう」
朔弥は歯を食いしばった。
兼通の処刑は、牢獄の近くではなく松政たちのいるところからおよそ六里。
視治は走る。
転びそうになりながら、何人も押しのけながら。
胸が焼ける。
喉が裂けそうだ。
(先生……私はまだ、あなたともっと旅がしたい……!あなたと見たい景色が……まだたくさんある……!だから……死なないでくれ!)
河原はすでに人で溢れていた。
柵の向こう、兵に囲まれた姿が見えた。
兼通は、縄で縛られ、静かに座っている。
その顔は、穏やかで、いつものように笑っていた。
「どいてください!」
視治は人波をかき分ける。
ようやく柵の前にたどり着いた、その瞬間。
目が合った。
兼通が、はっとした。
ほんのわずかに、笑みが揺らぐ。
視治の目から涙が溢れる。
「先生――!」
声は、喧騒にかき消される。
しかし、兼通の目は確かに視治を捉えていた。
そして、ゆっくりと、空を見上げる。
太陽が高く昇り始めていた。
「……あぁ」
小さく、しかし確かに聞こえた。
「あぁ、何と美しいのだろう……」
次の瞬間。
振りかぶられていた刀が、振り下ろされた。




