第1話 一難去って前途多難⑦
「私としては、お客さんは増えてくれる方が嬉しいから、ぜひ来てほしいのだけどね」
「俺が一人暮らしを始めたら、安寧の地がひとつ生まれるので、そのときはまあ、ここを教えても……い、いいです……よ」
「……まさか、そこまで嫌がるとはね。それなら、これ以上意地悪を言うのはやめておこうか」
言って、雛菊は苦笑した。
「……さてと。それじゃあ、そろそろ帰りますね。コーヒーご馳走様でした」
「おや、もう帰ってしまうのかい?」
梛が椅子から降りると、雛菊はわざとらしく肩をすくめてみせる。
「静かで落ち着くのなら、もっと居てくれてもいいのに」
「……かなり根に持ってますね」
梛が頬を引きつらせると、雛菊はいたずらっぽい笑みを返してきた。
「冗談さ。私が暇だから、話し相手が欲しいんだよ」
「勤務中なんですから、しっかりしてくださいよ……」
「ちゃんと仕事はこなしてるから安心してくれていいよ。もっとも、私が店主なのだから、誰かに怒られるということもないんだけどね」
「先代とお客さんに怒られてください」
と、梛が呆れたように笑った――その瞬間。
入口に吊るされたベルが、真鍮の心地よい音を鳴り響かせ、店に来客を告げた。
「いらっしゃ――おっと、これは……」
「げっ……」
雛菊の反応に釣られて梛がそちらを見やると、知った顔がひとつ、ふたつ、みっつ……。思わず梛は、苦虫を噛み潰したような顔を作った。
そこにいたのは、梛にとって来てほしくない――いや、ここに来てはならない人物ばかり。そして、その中の一人が、梛を見つけるなり、まるで子犬のように一直線に駆け寄ってくる。
「梛ー!」
叫びながら、凜桜は梛に抱きついた。店内ということを考慮してか、声のボリュームは控えめだった。
「なんで姉貴がここに――……雛菊さん。楓に連絡したんですか?」
「いや、これは偶然だよ。さすがに少年が嫌がることはほとんどしないさ」
「『ほとんど』ってことはすることもあるってことじゃないですか……」
梛はげんなりしたような様子で、凜桜に続くように近寄ってくる二人に視線を向ける。
「で、なんでここにいるんだ? というか、なんでこの場所――に関しては、楓だよな。それくらいしか知ってるやついないし……」
「違う違う。楓ちゃんじゃなくて、お兄ちゃんの担任の先生に聞いた。なんの躊躇いもなく、普通に教えてくれたよ」
「……雛菊さん。あなたのご友人、さすがに口が軽すぎませんか?」
梛は半眼を作り、笑いを堪えるかのようにそっぽを向いて俯いている雛菊へ苦言を呈した。
「ふふ……アキがすまないね。お詫びと言ってはなんだけど、みんなにコーヒーをサービスするとしよう」
「いや、俺はもう帰るので……」
「いいじゃないか。せっかく少年のお姉さんと妹さんとも会えたんだ。挨拶くらいはしないとね」
「お詫びとか言いながら、それが目的ですよね?」
梛は嘆息すると、凜桜を引き剥がして隣に座らせ、自分も席に着く。しかし、座った途端、凜桜は再び抱きついてきた。執着心がすごい。
「……えーっと、こっちの、ゴールデンレトリバーとかセントバーナードみたいな大型犬を彷彿とさせるのが、姉の凜桜です」
「こんにちはー! 梛のおねーちゃんの凜桜でーす!」
梛が手で指し示すと、凜桜は元気よく手を上げて挨拶した。当然のように、凜桜はその間も梛に抱きついたままだった。
続けて梛は、その手を美卯へと向ける。
「で、こっちの、ラーテルとかクロアシネコみたいなのを彷彿とさせるのが、妹の美卯です」
「どうも、妹の美――待って、なにそれ」
梛が挙げた動物がわからなかったのか、美卯は挨拶を途中で止め、怪訝そうに訊いてきた。
「ラーテルと……何?」
「クロアシネコ。ラーテルが、オーストラリアに生息する、肉食獣。気性が荒く、骨を噛み砕くくらい顎が強靭なのが特徴。で、クロアシネコが――」
「もういい、わかった。お兄ちゃんが私のことをどう思ってるかがよくわかった」
美卯は梛の説明を遮ると、大きく息を吐く。
ちなみに、ラーテルもクロアシネコも、小さくて可愛らしい見た目とは裏腹に、凶暴さを秘めていることで知られる動物だ。人間を襲う危険性もあるため、実際に遭遇しても決して近づかないようにしたい。もっとも、どちらも主に南アフリカ周辺に分布しているため、そうそう出会うことはないだろうが。
「いっ……!」
と、梛が油断していると、左脇腹の辺りを美卯に思いっきりつねられた。
患部を抑えて悶えている梛をよそに、美卯はこほんと咳払いをし、何事もなかったかのように続ける。
「改めて。彩峰梛の妹、美卯です。いつも愚兄がお世話になっています。ラーテルだとかなんだとか言っていましたけど、お兄ちゃんが勝手に言っているだけなので気にしないでください」
「説得力がねえだろ……」
「うるさい」
梛が痛みに耐えながら声を絞り出すと、美卯は再び同じ箇所をつねり上げた。どうやら梛に発言権はないらしい。
「なるほど。話に聞いていた通り、とても愉快なお姉さんと妹さんだね」
「……そうですね」
雛菊の気遣いが滲む言葉に、梛は乾いた笑みを浮かべることしかできなかった。まあ、本人は気を遣ったつもりなんてなく、これが本心なのだろうけど。
「はじめまして。私は『喫茶〈アリス〉』の店主の有栖川雛菊という者だよ。少年――梛くんの雇い主、ということになるのかな?」
「雇い主……てことは、本当にここでバイトしてるんだ。……なんか似合わないね」
「わかるなあ。私も最初見たときびっくりしちゃったもん」
「お前ら、普通に失礼だよな……」
梛は頬杖をつき、不満そうに二人を見やった。
とはいえ、まさか喫茶店で働くことになるなど自分でも想像していなかったので、似合っていないのは自覚していた。
おそらく、秋穂に〈アリス〉を紹介されなければ、適当なチェーン店で、適当にアルバイトをして過ごしていただろう。
「……で、なんで楓ちゃんには教えて、私たちには教えてなかったの?」
「いや、俺は楓に教えたつもりはないぞ。言いふらされる可能性もあるのに、わざわざ教えるわけないだろ。店に入るところを見られて、いつの間にか居座ってたってだけだ。俺は無実だ」
梛は、これ以上左脇腹を痛めつけられないよう、両手を上げながら早口で身の潔白を主張した。
すると、雛菊は思い出し笑いを堪えるかのように口を抑えながら助け舟を出してくる。
「たしかに、楓くんが初めて来たとき、少年は入店したばかりの楓くんに『ご来店ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております』って、すぐに帰るように促してたね。あのときは思わず笑ってしまったよ」
「……お兄ちゃんさ」
「……誰だって、職場に知り合いを入れたくはないだろ」
梛は美卯の責めるような視線から逃れるようにそっぽを向く。
楓がはじめて来店したその日の夜。梛はメールで「もう来ないように」と念押ししたのだが、楓は言うことを聞くどころか、梛の言葉に対抗心を燃やし、最初の二週間は毎日のように訪れていた。
梛が「来てもいいから、毎日はやめてくれ」と言うと頻度は減ったものの、それでも週に一回必ず訪れては、雛菊と梛の話題で花を咲かせている。こちらが覚えていないような小学生の頃のことまで会話のネタにされていて、恥ずかしい限りだ。
「よかったらどうぞ。少年の好きな味だよ」
そう言って雛菊は、再び梛の前に、そして三人の前にも同じようにコーヒーを出す。見た目ではわからないが、どうやら中身は先程梛が飲んだものと同じらしい。
「……どうも」
「ありがとうございまーす!」
「ご馳走様です」
「ありがとうございます!」
四人はそれぞれ礼を言い、火傷しないように気をつけながら、ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
「……しかし、常連となった今では、少年も楓くんに何も言うことはなくなったね」
「話を聞かなすぎるから諦めただけですよ。ほんと、なんで俺の周りにはこういうやつばっかなんですかね……」
「類は友を呼ぶ、ってやつじゃないの?」
「美卯もそのうちの一人だぞ」
梛が、何言ってんだこいつ、と言いたげな目を向けると、当然のごとく美卯の拳が腹部に叩き込まれた。先程とは打って変わって、鈍い痛みが梛を襲う。
梛がテーブルに腕をついて苦しむ中、美卯は知らん顔して話を続ける。
「楓ちゃんにバレた時点で、私とお姉ちゃんにも教えてくれてよかったんじゃないの?」
「……じゃあ聞くけど、仮に俺がバイト先教えたとして、姉貴も美卯も絶対に来ないって誓えるか?」
「え、無理だけど」
「もちろん通うよー!」
即答した。悪びれることなく、悩む素振りすら見せず、二人は一瞬で答えた。
もしかしたら少しくらい申し訳ない気持ちがあるんじゃないかとも思ったが、そんなものは一切なかったらしい。ここまで迅速に答えられると、いっそ清々しく感じてしまう。
やはり自分の判断は正しかった、間違ってはいなかった。と、梛は大きく息を吐いた。




