第1話 一難去って前途多難⑥
「彩峰、ちょっといいか?」
帰りのホームルーム前。梛が読書に勤しんでいると、秋穂が紙袋を携えて近づいてきた。
――梛は知っている。こういうときの秋穂は、高確率で面倒事を押し付けてくるのだ。今までの経験からして、おそらく今回もその手のものだろう。
梛は本に栞を挟むと、警戒心をむき出しにして問いかける。
「……何か用ですか?」
「ああ、ちょっとおつかいを頼みたくてな。ヒナにこれを届けてほしいんだ」
言って、秋穂は重そうに紙袋を机の上に置いた。
「……なんですか、これ。犯罪の片棒を担ぐような真似はしたくないんですけど、運ぶだけで法に触れたりしないですよね?」
「君は私をなんだと思っているんだ……。ただの酒だよ、酒」
「なんだ酒ですか……って酒!? 教師が学校になんてもの持ってきてんだよ!」
梛は思わず声を荒らげてから、気づいたように辺りを見回す。
突然クラスメイトが大声を出したというのに、周囲の生徒はその程度では見向きもしていなかった。凜桜で相当鍛えられているらしい。
「……ほんと、なんでこんなの持ってきたんですか。休みの日に自分で持っていけばいいでしょ」
「年度始めは色々と忙しくてな。いざ休みの日になると、疲れで外に出るのも億劫なわけだ。彩峰は今日シフト入れてないんだろ? 頼まれてくれよ」
「え、なんで知ってるんですか。普通に怖いんですけど」
なぜか予定を把握している秋穂に戦慄しながらも、梛は諦観のため息を吐いた。
「……わかりましたよ。まあ、今働けてるのも先生のおかげですし、拒否権なんて最初からないですもんね」
「そこに恩義を感じる必要はないんだけどな」
秋穂は苦笑すると、ふと思い出したかのように言ってくる。
「ちなみに、その中身。缶じゃなくて瓶だからな。落としたらガシャンだから、細心の注意を払うように。それじゃ、あとは頼んだぞー」
秋穂は去り際に不安になる台詞を梛に残して、教卓の方へと戻っていった。
梛が恐る恐る確認すると、中にはお高そうなパッケージの紙箱が三つ収められていた。……たしかにこれは注意する必要がありそうだ。
「悪い、楓。先帰るから、姉貴と美卯にも伝えといてくれ!」
梛はホームルームが終わるなり、そう言い残すと、肩に鞄と紙袋を背負って教室をあとにした。
数分もすれば凜桜と美卯が教室まで押しかけてくる。二人と鉢合わせることだけは、なんとしても避けなくてはならないのだ。
両肩の重みに耐えながら通学路を駆け抜け、発車寸前の電車に乗り込むと、梛は五分もしないうちに下車した。
梛の目的地は、家の最寄り駅のすぐ近く。北口を出てすぐにある小さな建物郡のひとつ、こじんまりとした喫茶店である。
少し立て付けの悪い扉を引くと、カランコロンというベルの音と、レトロな雰囲気が梛を出迎えた。
「いらっしゃい――と、なんだ、少年か」
店主の女性は少し残念そうに肩をすくめる。
長い髪を高い位置でひとつ結びにし、体格は秋穂同様高身長でスラッとしている。その上整った顔立ちをしており、初対面の人ならモデルだと紹介されても信じてしまうだろう。
白いシャツに黒いエプロンと、定番とも言える形の制服に身を包み、梛のことを『少年』と呼ぶこの女性こそ、梛のバイト先・喫茶〈アリス〉の店主――有栖川雛菊である。
梛や楓の担任である秋穂とは旧知の仲で、互いに『アキ』と『ヒナ』と呼び合っている。今でも休みの日には一緒に酒を飲んで、秋穂の愚痴を聞いたりしているらしい。
「どうしたんだい? 今日はシフト入れてないだろう?」
「先生に雑用を頼まれて、仕方なーく来ました」
梛が紙袋を慎重にカウンターの上に乗せると、雛菊は豆を挽く手を止め、首を傾げた。
「アキが……? 何か頼んでいたかな……」
「酒らしいです。なんか値が張りそうなのが三本ほど」
「お酒……ああ。そういえば、愚痴を聞いてあげる代わりに、美味しいのを寄越せと言った気がしなくもないな。冗談のつもりだったのに、本当に律儀だね」
雛菊は嬉しそうに微笑んだ。
「……しかし、こんなものを持たされるなんて、少年も大変――いや、それほどアキに信頼されているのかな?」
「扱いやすい手駒が目の前に転がってただけでは?」
梛が自嘲気味に言うと、雛菊はゆっくりと首を横に振る。
「そんなことはないさ。信頼できない者におつかいなんて頼まないし、アキの人を見る目はたしかだからね。信頼に足るからこそ、少年にうちを紹介したんじゃないかな?」
「……まあ、そう思ってくれてるならいいんですけど、先生の性格上、今日みたいな雑用を頼めるからってのもありそうなんですよね……」
「それは……そうだね」
雛菊は苦笑しながら、でも、と続ける。
「アキが少年のことを高く買っているのはたしかだよ。そしてそれはアキだけじゃない。常連さんの中には、『彼が三代目か?』なんて言って、君のことを期待している人もいるよ」
「……冗談ですよね?」
「冗談じゃなかったら、少年はうちに就職するかい?」
と、雛菊が冗談か本気かもわからない笑みを浮かべながら言ってくる。
雛菊という人物は、こうして試すような発言をしては、梛の反応を楽しむ節があるのだ。この質問もおそらくその類いなのだろうが、冗談だと断定できないのが実にタチが悪い。
「しない……かどうかは、まだわかりませんね。大学卒業後に就職できてなかったら、雇ってもらうことになるかもしれませんけど」
梛は首を捻りに捻って悩んだ末、どっちつかずの結論を出した。
そもそも高校卒業後のことすら考えていないのに、それ以降の将来なんて考えているわけがない。なにより、曖昧な問いには曖昧に返すのが正解だと考えたのだ。
目には目を歯には歯を。有名な法典でそう言っていた。……まあ、あれは、やられたらやり返せ、という意味ではないのだが。
「……たしかに、未来のことなんて私はもちろん、誰にもわからない。でも私は、少年が働き続けてくれることを期待しているよ。少年がうちに来てくれて色々と助かっているからね」
そう言って、雛菊は細かく砕かれた豆をドリッパーに移すと、お湯を注ぎ始める。
ミルで粉砕された時点でも十分に良い香りを放っていたのだが、そこにゆっくりと何回にも分けてお湯を注ぐことで、さらに香ばしい匂いが店内に充満していった。
雛菊はカップに淹れたばかりのコーヒーを注ぐと、ソーサーに乗せて梛に差し出してくる。
「おつかいのお礼だよ。こんなものしか用意できないけどね。……それとも、三代目の肩書きが欲しいかい? はたまた、二号店をオープンして、そちらの店主を勤める方がいいかな?」
「仮に店をもらえるなら、家から近いここの方がいいですね」
冗談を返して受け取ると、梛は冷めないうちにそれを口に運ぶ。苦味が少なく、まろやかで梛の好みの味だった。
「……にしても、やっぱここは静かで落ち着きますね」
「お客さんが少ないからね」
「あ、いえ、嫌味とかそう意味ではなくて……」
梛は気まずそうにコーヒーを啜る。
店内には、梛を含めても五人ほどしか客がいない。
〈アリス〉に訪れる客は、年配の方や物静かな主婦の方が多く、梛くらいの年代層は、流行りのオシャレなカフェに流れているのだろう。
しかし梛にとっては、〈アリス〉のような静かで落ち着く喫茶店の方が好みで、心休めたいときには勤務時間外でも頻繁に訪れていた。
「いつも騒がしい姉貴が一緒にいるので、ここみたいな落ち着いた場所が普通に好きなんですよ」
「そんなに狼狽えなくても、冗談だから安心してくれたまえ」
梛が慌てて補足すると、雛菊はからかうように言ってくる。
「そのうち少年のお姉さんや妹さんとも会ってみたいね。いつでも連れてきてくれていいんだよ?」
「絶対に嫌です」
梛は即答した。
二人に――特に凜桜にバレようものなら、梛のシフトの日に毎回来てもおかしくない。自意識過剰とかではなく、凜桜はそういう人間なのだ。
今まで幾度もバイト先を聞かれたが、情報漏洩のリスクを最大限減らすため、凜桜や美卯はもちろん、父親にも知らせていない。把握しているのは母親のみだ。
楓には〈アリス〉に入るところをたまたま見られてしまったが、ジュース一本でその日見たことを忘れてもらった。
……だというのに、週に一回は必ず訪れているのは一体なんなのか。
まあ、誰にも言っていないようなので、まだ許容できる範囲ではある。これで凜桜や美卯、はたまた友人を連れてこようものなら……どうしてくれようか。
「少年がお姉さんと妹さんを大事にしているのはわかるけど、なぜこうも頑なに会わせてくれないんだい?」
「なんか語弊がある言い方ですね……。会わせたくないんじゃなくて、単純にここに連れてきたくないんですよ。俺に残された唯一の聖域が侵されることだけは絶対に阻止しないとダメなんです」
「……聖域とは、少し大袈裟すぎないかい?」
「聖域でも楽園でも、この際なんでもいいです。とにかく、この場所が姉貴たちに知られたら、俺はもう生きていけません。ここが羽を休められる、俺に残された最後の場所なんです」
梛は〈アリス〉の重要性について、自分でも「何を言ってるんだ」とツッコミたくなるくらい熱弁する。
しかし、これは誇張でも大袈裟でもないのだ。
家ではどこにいようと、当然のように凜桜がすぐ隣にいる。食事する際も梛の隣。朝起きたときも梛の隣。梛が自身の部屋で本を読んでいても、まるで自由にくつろぐ猫のように、凜桜はなぜか梛の膝を枕代わりにしている。
そして、学校でもそれは大して変わらない。
登下校が一緒なのはもちろん、昼休みも一緒。入学当初は、梛ひとりで屋上を利用していたのに、今では凜桜+αだ。
梛の憩いの場が悉く侵略されていく中で、唯一凜桜が来ない場所。それがここ、喫茶〈アリス〉だ。もしここが見つかれば、そのときは梛の終わりを意味する。
とはいえ、さすがの凜桜でも、梛に嫌われるようなことはしない。跡をつけることがなければ、当然しつこく聞いてくることもない。
それは美卯も同様。朝起きたときのように、エアガンを携えて「さっさと薄情して」なんて言ってこない……今のところは。
「少年にそこまで嫌がられると……逆に会いたくなってくるね。楓くんに頼んでみようかな?」
「本当にやめてください。冗談でもタチが悪すぎます」
梛は身震いすると、落ち着くために残ったコーヒーを飲み干す。
いくら好みの味とはいえ、砂糖もミルクも入れてないコーヒーを一気飲みすると、苦味で舌がピリピリした。




