第1話 一難去って前途多難⑤
それから、およそ四時間後。
一限目をそのまま寝て過ごし、二限目からはしっかりと起きて勉学に励んだ梛は、昼休みを告げるチャイムが鳴ると同時に、再び机に突っ伏した。
眠いわけではない。ただ単に憂鬱なのだ。
「ねえ、梛。二人のところに行かなくていいの?」
「……面倒」
「凜桜さんも美卯ちゃんも待ってるよ?」
「…………面倒」
「でも……」
「………………面倒」
楓の呼びかけに梛は、まるで壊れたロボットのように同じ言葉を繰り返す。
しかし、それも仕方のないこと。せっかくの昼休みだと言うのに、その貴重な時間を全て凜桜に捧げねばならないのだから。
どうせ朝と夜は一緒に食べているのだし、昼くらいは自由にさせてくれてもいいだろう。
わざわざ毎食集まる必要はあるのか。いや、ない。絶対にない。
「でも、行かなかったら行かなかったで、後々面倒なことになるからなあ……」
梛は突っ伏したまま伸びをすると、亀のようにのっそりとした動きで立ち上がる。
――と、その瞬間。
「なーーーぎーーー!!」
教室内に梛を呼ぶ大きな声が響き渡り、周囲の生徒は一斉に発声源に目を向けた。
しかしそれも一瞬で、誰が誰を呼んだかを理解した途端、皆会話に戻っていく。
一年から梛を知っている人物はともかく、新しく同じクラスになった者も、この数日間で慣れてしまったようだ。
中には梛を恨めしそうに見てくる者や、「お姉さんが呼んでるぞー」と、からかうような声をかけてくる者もいるが、非常に残念なことに、この一年で梛も同様に慣れてしまっている。適応力とは怖いものだ。
「おーーーい!!」
その人物は梛が聞こえていないと思っているのか、手をぶんぶんと大きく振りながら再度呼びかけてくる。
このはた迷惑さ、誰か説明するまでもないだろう。だって、こんなことをするのは、梛の知っている限り一人しかいないのだから。
梛は中腰のまま、その人物の方へゆっくりと首を動かす。その先には予想通り――いや、予想するまでもないのだが――凜桜が満面の笑みを浮かべて立っていた。
そしてその横には美卯も顔を覗かせている。この状況を面白がるように悪趣味な笑みを浮かべては、早く来いと言わんばかりに手招きをしていた。
「ほら、凜桜さんも美卯ちゃんも待ってるよ?」
「……まあ、ここから逃げられるわけないもんな」
梛は鞄から弁当箱の入った包みと小さな手提げを取り出すと、特に急ぐことなく、楓と共に二人が待つ教室の出口へと向かう。
せっかくの昼休みを奪われるのだ。このくらいのささやかな抵抗くらいは別にいいだろう。
……なんて、美卯がそんなことを許すわけがなかった。
梛が教室から出てきた途端、いつものように凜桜が抱きついてくる一方で、美卯は不満げな表情を作り、わざとらしく息を吐く。
「遅い。少しは急ぐ素振りくらい見せなよ」
「いや、勝手に押しかけてきてそれはひどくないか?」
「お兄ちゃんが早く来れば済む話でしょ」
「まだ昼休み始まってから五分も経ってないんだが……」
梛は凜桜を引き剥がしながら、美卯の理不尽なお叱りの言葉に肩をすくめた。
「まあまあ、美卯ちゃん。こんなところで立ち止まってたら、それこそ時間がなくなっちゃうよ?」
「それはそうだけど……やっぱ楓ちゃん、お兄ちゃんのこと甘やかしすぎてない?」
「そ、そんなことないと思うけどなあ……」
訝しげに見てくる美卯に、楓は頬をかいて、気まずそうにしながら答えた。
なんとか誤魔化そうとしているものの、素直な性格の楓は嘘をつくのが苦手なようで、誰が見てもわかるくらいには、視線があっちこっちに泳いでしまっている。このままだと、梛が一限目から爆睡していたことがバレるのも時間の問題だった。
「……まあ、いいや。楓ちゃんの言う通り時間なくなっちゃうしね。どうせお兄ちゃんのことだから寝てたんだろうし」
美卯は梛に視線を向けながら呆れたように言うと、そそくさと歩き出す。
やはり妹様はなんでもお見通しのようだ。おそらく、三限と四限の授業中に、梛が読書に勤しんでいたことも把握しているのだろう。
梛は苦笑しながら、美卯のあとを追うように階段を上っていく。
平駒高校にいわゆる食堂というものはない。
そのため、学年の違う複数人で集まって食べるには、学内に設置してあるベンチや階段に座って食べるほかないのだが、ベンチは四人で座るには狭すぎるし、階段は単純に汚いので座るには適さなかった。
自習室が飲食可能ならそこがベストなのだが、無理なものは無理なので仕方ない。空き教室は基本施錠されているし、部室に関しても、私用で使うのが禁止とされているのでもちろんNG。
では、どこで食べるのか、という問題だが、どの学校にも大抵、誰にも知られていない秘密の場所というのがあるものだ。
階段を上ったその先にある古汚い扉を開けると、耳障りの悪い音が響くと同時に、ゴムのようなもので舗装された床と、錆び付いた柵が視界いっぱいに広がった。
屋上なんて普通は入れないはずなのだが、なぜか扉の鍵が壊れているので、それを知っている者だけが足を踏み入れることができる。
安全上の理由から立ち入り禁止としている学校も多いが、平駒高校では別に校則で禁止されてるわけでも、入口に張り紙が貼られているわけでもない。仮にバレてしまっても、言い訳はし放題というわけだ。
新校舎を建てる前に、現在使われている設備をどうにかした方がいいと思うのだが、そもそも学校側は把握しているのか。……いや、していたら施錠されているか。
梛が秋穂にこの場所を教えてもらってからもうすぐ一年になるが、いまだにこの三人以外の他の生徒を見かけたことはない。おそらく知らないか、知っていたとしても正義感から使おうとはしないのだろう。
「お兄ちゃん、早く」
「はいはい」
美卯に言われるがまま、梛は手提げから大きなレジャーシートを取り出して、ばっさばっさと広げる。
一年前は一人で過ごしていたため、もっとこじんまりとしたレジャーシートだったが、凜桜に見つかり、楓も誘われ、美卯が入学し……結果、以前の倍以上の大きさになってしまった。残念なことに、あの頃使っていたレジャーシートを使う機会はもう訪れないだろう。
「……さて、さっさと食べて解散するか」
「なんでよー!」
梛が包みから弁当を取り出して、手を合わせようとすると、凜桜が不満そうに頬を膨らませながら抱きついてきた。
「おしゃべりとかしようよー!」
「いや、早く教室戻って寝たいし……」
「おねーちゃんが膝枕してあげるからさー!」
「お兄ちゃんもいい加減諦めればいいのに。そのやり取り、もう何回目?」
「数えてるわけないだろ……」
梛は嘆息すると、降参だと言わんばかりに両手を小さく持ち上げる。
昼食をとらないことには、そもそも昼寝することもできないのだ。無駄に時間を過ごすわけにはいかない。
凜桜は、梛が膝枕で手を打ったと思ったのか、ゆっくりと手を離した。
「それじゃあ、お昼食べよっか! 食べ終わったら膝枕してあげるからねー!」
「それは遠慮させていただきます」
「なんでー!」
梛が両手を突き出して断ると、凜桜は梛の肩を掴み、ぐわんぐわんと揺らす。
これから昼食だというのに、まるでジェットコースターに乗ったあとかのように気持ち悪くなってしまいそうだった。昔、美卯に無理やり乗せられた記憶が蘇ってくる。
「……楓ちゃん、先食べてよ」
と、梛のトラウマを生み出した張本人である美卯は、我関せずといったふうに弁当の包みを解きながら楓に言う。
「い、いいのかな……?」
「いいのいいの。こうなったら長いからね」
「おい、美卯。助け――」
「いただきます」
美卯は手を合わせると、梛が拵えた弁当を食べ始める。
この妹には、弁当を作った兄に対する感謝の欠片もないらしい。
結局梛は、食後に凜桜の膝枕で昼寝をするという約束をするまで、凜桜から解放されることはなかった。
しかもどさくさに紛れて、帰りに寄り道して遊ぶ約束まで取り付けられてしまった。
妹も妹だが、姉も姉で一体なんなのか。まるで『はい』を選ぶまで無限ループするタイプの選択肢を、そのまま擬人化したような存在だ。
梛は不平不満を追いやるかのように、一際大きく息を吐き出した。




